4.GWTでいう気づきとは(介入について)

 

 で、介入の問題に入ります。介入は何をするかというと、あそこ(図1)に渦巻をかいたのはですね、これも、184ページ(新グループワーク・トレーニング)の所に書いてあるんですが、私たちが、個人の変容を考える時、能力をレベルアップするためには、今の能力のままで、これに新しい能力をつけ加えると幅が広がってきます。成長していくんですね。能力のレベルではプラスをしていくことで成長をしていきます。だんだんみんな大きくなってくるのです。しかし、人柄の部分では、いまある人柄に、何かくっつけても成長しないのです。つまり、いま持っている自分、坂野というのはこういう人間なんだと思っているその自己像を一回壊して、「いやいやあんたはそう言っているけども、こういう所もあるよ」というフィードバックをもらって、「え、わたしはこう思っていたけども、こういうところもあるの」とガクッときて、いままで持っていた自己像が壊れる。これを解氷といいます。氷を解かすといいます。そして、改めて、そういう色々なデータをもらって、「そうか私はこういう人間なんだ」と自己、自分に気づいて、でどうなりたいのかということを考えて、あるいはモデルを見つけて、「私もあんなふうになりたい」とモデルを見つけて、あるいは自分でイメージを作って、そういう自分を作って行く。そういうふうに新しい自己像を作り上げて行くことでしか、人柄は修正出来ない。それが、再結氷というわけです。で、昨日のI機能の問題ですけれども、人を攻撃する。じゃまをすることもいいんじゃないか。ということですけれど、私は良くないと思います。それは、先ほどいったようにですね。社会に貢献しないことになってくるからです。チームがいま、チームとしてまとまって、その中でどうやっていくか、成果をだすかということになってくるのですが、そこでふたつ考えられるのですが、ひとつは昨日和田さんがおっしゃった、「和をもって尊しとなす」というのは良くないんじゃないかということです。まったくもってそうだと思います。私もそれを書きました。たとえば、私がやっている気づきの「自己発見の旅」の公開セミナーの中で、「グループの中に波風を立てないことはいけないことですか」とたずねた人がいました。かりに、ハイかイイエで、YesかNoで答えるとしたら皆さん方はどっちで答えますか。これは月刊レク誌に5年ぐらい前に載せたのですが、GWTの基本的考え方はYes。Yesというのは「波風を立てるのをよしとする」という意味です。立つ方が良いんだ、立てない方が悪いんだという意味です。波風がたつことをよしとする考える側に立って、ひとりひとりの人間がちがうということに価値を認める。つまりここが違うんですね(図2参照)。異質の協力というのはここが違う、物の見方、考え方、価値観、枠組み、欲求、願望、夢が違う、感情のおこりかたが違う、その他にも、持っている知識とか能力とか経験が違う。そういう違いを持った人が集まって、異質の協力をすることが必要なんじゃないか。異質な人が目的を達成するために、それぞれがいいあえば、そこに当然波風がたつ(夕べそれが葛藤か葛藤でないかという話をしたみたいですけれども)どうゆう名前をつけようが波風が立つ、立つことが必要である、という価値観に立っています。

 で、そこでアドバイザーの関わる姿勢が問題になってくるのですが、「いや、そこで波風を立てるのは良くないことだ」「和をもって尊しとなす」これが価値観だといえば、ふりかえりの仕方が違ってきます。あとの講義も説明も違ってくるわけです。そこでアドバイザーの価値観として、何を持っているかというのが問われてくるのです。で、私が思うGWTの価値観は、波風を立てたくないと思っている人達に、立てる方が良いんだよと価値観を押しつけている、そういう価値観をするところにGWTのひとつのポイントがあると思っているんです。

 ついでに、もうしあげておきますとね。「和をもって尊しとすなす」というのは、本当は良いことなんだということを最近知りました。なぜ知ったかといいますとね。あの、「和を持って尊しとすなす」というのは、我々のいま考えているような和ではないんだそうです。本読みましたら、「羅漢の和」だというふうに書いてありました。で「羅漢」とはどういう人かというと、「悟りを開いて自立している人」なんですよ。自分を殺している人ではないんですね。悟りを開いて自立をした人が集まって、いわば異質の協力をするのが和だというのです。

もともとの発想はそうなんだそうです。我々が考えているような、俗人が集まってまあまあまあというような和ではない。ということを最近知った。じゃいいんだと思いますけれども、だからといって今さら「和をもって尊しとなす」というのはこうなんだよと言って回るのはめんどくさいから、そのままにしてますが。

 で、その攻撃するのがどうだとか、妨害するのがどうだとか、和田さんの本に書いてありますが、なぜその人が攻撃するのか、なぜ妨害するのか、そこがポイントだと思います。そうなんです。で、なぜそうするのかというところを表面には、行動としては、妨害をする、あるいは非難をする。攻撃をする。そういう行動が出て来るが、その内面にどういう心の姿勢・態度・考え方をしているか、基本的な構え、たとえば、”I am OK、You are Not Ok”の人は当然攻撃的な人ですね。内面的に何があるからこうゆう行動をするのか、そして”I am OK、You are Not Ok”になってきた原因・理由はなんだったんだろうか。どういう見方があるからだろうか。そして、ひょっとすると何か生育歴とか、ここの一部に何かあるかもしれない。そのへんが見えて来ると、昨日もいった再決断がしやすい、再決断すれば人間は変われる。ここが自分で見えてきて、「そうか、自分の中にこうゆうものがあったのか」そのことが見えて来ると、変わりやすくなるのですね。介入をするのは、私がきびしく介入して行くのは、ここあるいはこの線ですね。「自分がいまやっている行動を先ず気付いて下さい。で、そういうことをやるのは、どうゆうことでそうなっているのか、そのことに気付きましょう。もっと深くきづきましょう。」そのときに、いやなことを見なければならないですから、目を反らしたい。その目を反らすことに関しては、きびしく迫ります。介入していきます。「違うでしょ。こうゆうことがあるでしょ。あなたはディスカッションに参加しましたというけれど、何分から何分までの12分間ひとこともしゃべってないよ。気付いて入るんですか。」これが行動です。で、「なぜそういうふうにしてしゃべらないんだろう。なぜそうなったの」「いや、なんとなくそうなったんです」「なんとなくじゃない、目を反らすな、逃げるな」そのへんは迫って行きます。で、気付いた後どう変わるかはフリーです。自分の中に何かあることは気付いた。でも、「やっぱり黙って座っている方が楽ですから私は黙っています。」といえば、それはその人の決定ですから、そこまで介入するつもりはない。そこまで介入するとそれは操作です。戸塚ヨットスクールと一緒ですよね。気付くところまでは介入をして、目を反らすなと、迫って、迫って行きます。しかし、気付いた後どうゆう人生生きて行くかという選択には介入はしません。相談されたら、「わたしはこう考える」といいますけど。「いや、こうゆうふうに、生きるべきだ」というのはないです。私は、私の思うように生きたいと思っている。あなたはあなた好きに生きて下さい。介入はそこまでの、そういう意味での介入です。そこであの絵では、一石を投じるという意味で書いてあります。ショックを与えて、その人の自己像を壊す。その介入、壊す介入です。「その時対決のない介入はあるのですか?(受講生からの質問)」

介入に対決が起きるかどうかは、むこうが認めるか認めないかだね。認めなければ対決は起こり得ない。「でも、介入をするときは対決を意識する必要がありますか」もちろん、そうですね。

 で、そこで、皆さん方がこれから対決をするというか、介入やフィードバックをする場合に気をつけていただきたいところを「人間開発の旅」の55ページに書きました。大事なことはですね。『単に印象だけをいわない』この本に書いてあります。でも、やらないうちにこれを見ても、あまりわからないとおもいますが、『印象だけいわない』褒めるときもそうなんですね。褒めてあげて下さいというと「あなたは若々しくてとてもいいと思います。」という人がいる。若々しいと言うのは中身はなんですかわかりませんね。「あなたは、誰にもにこやかな表情でちゃんと挨拶するね。あれはすばらしいと思うよ」と、具体的にいったらいいですよ。印象だけ伝えてくれたって分からないです。若々しくていいというのが一番よくわからないです。褒めてもらってもどうすればよいのかが分からない。じゃこの若々しさを保つためにクリームをぬろうかとかね。何をすればよいかが分からない。マイナスもそうです。「とっても暗い感じがする」では困るんです。たとえば、低い声で、目線を落として、ぼそぼそっと言う。「あの、坂野です、ひとつよろしくお願いします」そういうふうにいう。だから暗いイメージがする。感じがする。というふうに、データをつけていってくれないと、イメージだけ伝えてもらっても、それはふりかえりの材料にはならないですね。イメージだけ言わない、印象だけ言わない。

 それから、『抽象的な言い方をしない』「あなたは性格が強いね。」強い弱い言われても分からないでしょ。そういう抽象的な言い方をしない。

 それから、『分析をしない』ここでいう分析というのはね。たとえば、「あなたは、外交的で目立ちたがり屋である。」そんなこといわれたって分からない。そういう分析はしない。「あなたは本当は寂しがり屋のくせに、むりに突っ張ってみせている。」そういうふうに私が感じたというのならいいですよ。勝手に決めつけないでくれ、あなたが勝手にそう思って入るんだろう、という感じでね。「こうゆうふうな行動をとるから、私はあなたは、本当は寂しがり屋なのに強がっているんだな」と感じています。というのならいいです。

 データをつけて、常にデータをあげて、事実を挙げて、指摘をするのであって、場合によっては、データだけでもいい。さっき、この10分間黙っていたよ。それだけでもいいですね。あとは考えてもらっても構わないのです。

 『評価を加えない』これは絶対やっちゃいけないことです。評価を加えない。たとえば、「あなたは自分の意見をいわない卑怯な人だ」卑怯な人をいっちゃいけない。「あなたは自分の意見をなかなかいわないね」これはいいです。「だれそれさんがこういった時にもひとことも返事しなかったよね」事実をつきつけることは許される。「そこであなたは逃げてたよ」「あんた卑怯だよ」というふうな評価をつけない。

 それから、『評論をしない』「あなたは自分かわいさのあまり、自分さえよければ、人の事はどうでもいいと割り切って考えていて、そういう冷たい人にはだれもついてこないと思うよ」それは評論なんですね。私が一番気をつけることは、「みんなは良いというかも知れないけれど、私はこの行動を見ると不愉快になるんだよ」と、私をかけて語るということです。一般論にしない。で「そんなことをやっていると、みんなから馬鹿にされるよ。」というのは逃げているんです。「私は馬鹿にしたりしないけれど、まわりはきっとばかにするよ」と自分をガードしている言い方です。本当は自分が馬鹿にしているという話でしょ。そういわないで、「私は馬鹿にしないけれど、きっと周りは馬鹿にするよ」というのは卑怯です。ちゃんと、私をかけて話をする。私がこう思うんだということです。

 それから、『否定的な言い方をしない』ここには否定文的な言い方をしないと書いてありますが。「あなたは自分をだしていないね」というような言い方をしない。「自分を出さないでこうしている」という。出さないだけではダメです。じゃ、何にしているかがわかりませんからね。自分をだしてないということじゃなくて、自分を出さないでこうこうこうしているね。私はこういうふうに感じるというならいいです。否定文だけで終わらない。

 それから、『疑問文でいわない』「あたなは人の目を恐れて、逃げているんじゃないか?」といういいかたをしない。私が見ると逃げているように見える。疑問文ていうのは、「俺もわからないんだけれども」ていうふうな形でごまかして、つっこまれたら、「いやいや違ったら御免ね」て、逃げを打っている感じになりますから、疑問文にしない。そのほかいくつかありますが。そういうところで、できるだけ事実を挙げてデータをあげて、自分の感じを伝える。不愉快なら、「それだけいわれると私は不愉快だ」とか、「そういうことはきちんやってほしかった」とか、きちんと伝えていかないといけない。このフィードバックのしかたが、大変問題なんです。

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