コンピューターと(で)文章を書くということ

Last update on 2000.08.05




 コンピューターを使って、あるいはコンピューターとともに文章を書 く、ということについて、感じたこと考えたことを書き留めてみました。 未完です。





「世の中」の《動き》

 ぼくがそれに気づいたのは1999年の終わりごろだが、「コンピューター で文章を書く」ということについて、書き手の側から《見直し》がされ る風潮にあるようだ。ここで「書き手」というのは、プロの小説家、プ ロの文筆家といった意味である。

 最初は新聞の記事で見た。ある書き手は、これまでほぼすべてワード プロセッサー(専用機か、汎用PC上のソフトウェアかは、大した問題で はないだろう)で書いていたのを、仕事によっては手書きに改めている、 という。ワードプロセッサー(またはテキストエディター)を完全に放 棄した人がいるのかどうかは知らない。その後、とある文芸誌に、「コ ンピューターによる執筆」を排撃する文章が載った。



自分の態度

 コンピューターを使って、あるいはコンピューターとともに、文章を 書くのは好きだ。好き、というのはことばがヘンかもしれないけれど、 執筆行為の道具としてコンピューターを用いる、ということは、ぼくに とってはとても自然なことになっている。


 「個人向けワードプロセッサー専用機」といったものが身辺に出回り 始めたのは1980年代の半ばだったろう(液晶ディスプレイにほんの数行 しかテキストが表示されないような代物だったが、あれから「日本語ワー ドプロセッサー」の独特の進化が始まったのだと思う)。

 その頃は「ワードプロセッサー専用機」など買いたくてもとても手が 出なかった。どころか、当時はコンピューターという存在を、「人類の 文化を破壊する」と思って敵視していたのだ(笑っちゃうね)。もちろ ん自分が実はプログラマーだなんて思わなかったし、後に「文化破壊」 の尖兵となるなど誰一人知る由もなかった。

 コンピューターと馴染みになっても、しばらくは「コンピューターで 文章を書く」という考えは浮かばなかった。自分のコンピューターが欲 しいと思い、それで何をするのか考えたときに、やっと「文章の執筆」 ということを考え出したのだと思う。

 それでも、ヒットチャート風に言えばせいぜい3位か4位だった筈だ。 頑張ってDOSマシンを買おうか、それとも8ビットマシン(FM-77とか PC8801とか)にしておこうか――両者の価格の開きは簡単に越せないも のだった――、でもメジャーなPC9801は好きじゃないし、などとさんざ ん悩んだくらいだから。

 マッキントッシュというものがあることを知り、選択肢に入ってきた 辺りで、ようやく「日本語の文章を書く」「自分の文章を書く」という 利用目的を意識したように思う。あるいは、そういう目的を考え始めて、 マッキントッシュに傾いていったか。ともあれそれまでは、文章は手書 き、が自然だった。


 マッキントッシュ購入と同時にワードプロセッサーも早速いくつか買 い――買ったのだ。当時はソフトも高く、ワードプロセッサーは6万円 近くした。それを当時少なくともふたつは買っている。日本語入力FEP も単体で買ったりした――、試してみた。

 そうだ、お気に入りのワードプロセッサーに出会えなかったんだな。 マッキントッシュで日本語ワードプロセッサーで本格的に文章 を書くようになるのは、記憶によれば、EGWord4.1と出会ってからだっ た。EGWord3.0は「文章を作成する」のに徹してしまって、レイアウト 機能が省かれていて、当時の漢字Talk 2.0の日本語フォントも貧弱で、 「なかなかいい線行ってるけど、ちょっと本気にはなれない」状態だっ たのだ。たしか。

 漢字Talkが6.04になり、EGWord4.1を手に入れて以降、マッキントッ シュで文章を書くのは快適だった。マッキントッシュだったから快適だっ たのだと、自信を持って言える。当時周囲にはワードプロセッサー専用 機や、PC9801に一太郎などがあったけれど、それらとは比べものになら ないほど気持がよかった。Macintosh Plusという、当時でも非力なマシ ンなのに。マッキントッシュのおかげで「コンピューターで文章を書く」 ということに馴染んでいった、好きになったと言っていい。

 それ以来、手で文章を書くのは日記か手紙くらいしかなくなっている。



一般化できるかな

 「コンピューターを使って文章を書く」といっても、人それぞれ。テ キストの入力くらいしか期待していない人もいるだろう。レイアウトと いうか、印刷された状態まで気にしたい人もいるかも知れない。

 ぼくは「印刷された状態まで気にしたい」くちだが、出版物としての レイアウトまで気にしたいとは思わない(介入できる工程でもないし。 一度、EGBookというレイアウトソフトで本づくりの真似ごとをしたこと もあるけれど、あれで細かいところまできちんと整形するのはタイヘン だ。PageMakerも使ったことがあるけど、いやはや、どうも)。自分の 手許からリリースする際の見栄えをよくしたいと思う程度であり、その 程度の目的に、マッキントッシュ+EGWordはぴったりだった。

 Actaというアウトラインプロセッサーもよく使った。文章の骨組みを 作ったりアイデアをまとめたりするのに向いたソフトだった。最近この 類のアプリケーションを見かけない。似たようなものはあってもなにか もっと複雑でややこしいものになってしまっている。が、こういうもの を駆使してコンピューターを文章執筆に役立てるのは悪いことではない と思う。

 ちなみに現在はワードプロセッサーは使わず、テキストエディターで 書いて、pLaTeXという組版システムで整形している。これが最良と思っ てではなくて、身を挺した実験みたいなものだ。


 「コンピューターによる執筆」を排撃する立場の人は、「コンピュー ターを使って文字(文章)を打ち込むことそれ自体」を悪と見なしてい るようだ。これについてはこの後で言及していくが、その前に、コン ピューターを使うことの《利点》をあげておこう。これはぼくなどが言 うまでもないことだ。

 コンピューターを使うということは、必然的にコンピューターを使っ て書いたものの管理をするということであって、この点では手書きのも のを手作業で管理するよりは遥かに勝っている。

 まずコンピューター(のファイルシステム)自体がすでに「書いた文 章を保管し、検索する」ための仕組みとなっている。

 次に、書いた文章の目録を作り、管理するのもたやすい。

 さらに、まともなオペレーティングシステムであれば文字列検索のユー ティリティが提供されているから、それを使って簡単なテキストデータ ベースを作り込むこともできる。もっとその気になるなら、カード型デー タベースを買ってくればよい(自分は使ったことはありませんが)。

 同じことをすべて手作業でやろうとするとどれくらいの手間になるの か、今となっては考えたくもない。

 もうひとつの《利点》は、テキストエディターやワードプロセッサー のおかげで、書いた文章を切り貼りすることができるようになったこと。 文章を直線的に書きつけるだけでなく、一度書いた後で削除したり書き 加えたり、加工したり、最適の配置を考えたりすることができるように なった。そのこと自体を《悪》と見なす見方も、ある。が、善悪は別に して、文章を書くという行為に《編集》という要素が加わった のだ。書き手は新しい能力を獲得した、とまでは言わないけれど、文章 を書くという行為自体が変わっているのは確か。だから《編集》という 要素に着目しなければ、モンダイを見誤ってしまうのではないか。



コンピューターで文字を「書く」――入力デバイスの問題

 さて、「コンピューターによる執筆」を排撃する立場の人は、「コン ピューターを使って文字(文章)を打ち込むことそれ自体」を悪とみなし ているようなのだった。この文章はきちんと読んだわけでもなく、それ が載った雑誌も買いそびれてしまったので、うろ覚えであることはお断 りしておく。また、ここでは《編集》という観点については触れない。

 いわく、日本語ワードプロセッサーを作るなら、せめてかつての「和 文タイプ」のような、入力したい字を直接指定するような仕組にするべ きだった。今のキーボードを使って、かな入力ならまだしもローマ字入 力なんて、思考の流れを妨げるだけだ。日本語を打ち込んで、変換キー を押して、いくつかの候補から目的の語を選ぶなど、とてもじゃないが 文章を書くとは言えない……

 いわく、創作の文章は手で書きつけてこそ本物。キーボードなどでぱ たぱた打ちつけた文字には魂がこもっていない。

 「コンピューター排撃論」ではないが、「キーボードによる入力では、 手書きに比して、表現を吟味せずに文章を書く傾向が強くなるのではな いか」という指摘もある。

 ある日、自分の和文の打ち込み速度を測る機会があった。それによる と、1分間に100文字。これは決まった例文をその通りに打ち込んでいく ものだから、考えながら書く実際の執筆ではもっと遅い。仮に実際の執 筆時にはこの5分の1だとすると、20文字/分。四百字詰め原稿用紙を20 分かかって埋める計算になる。つまり1時間に3枚。手書きとそう変わら ない速度だろう。

 もっとも、頭の中に文章ができていれば、打ち込み速度はもっと速く なって、手書きとの差が出てくるだろう。また、キーボードを叩く行為 は特に考えがなくてもできてしまうものだ(自動書記をやりたいならこ れに限る)から、そうなると、「表現を吟味せずに……」いった現象が 起こりやすくなるとは言える。思考の流れを妨げるどころか、思考の流 れに先回りしてしまうなんてことが起こってくる。この点では、「コン ピューターで書く」のはいいことばかりではないかも知れない。

 ぼくの個人的な体験では、キーボードを使うからといって思考の流れ が妨げられたことはない。ぼくの思考速度はきっと遅いのだろう。それ よりは、「思考や表現の上滑り」の方が多い。電子メイルを書いている 時など、変な文章のまま送ってしまい後で気づいて冷汗もの、なんてこ とがある。

 だからこそ、いったん書きつけた文章をチェックする習慣が身につい た(身についてもなお、「上滑りしている」と指摘はされるかも知れな いが)。ぼくでさえやっているほどだから、プロなら誰でもやっている のではあるまいか。別にこれはコンピューターだからではなく、文章を 書く時の心構えだろうが。


 今普及しているキーボード(QWERTYキーボードと呼ぼう)が日本語の 入力にふさわしくないのは間違いない。しかし、「和文タイプ」方式が 非現実的であることも間違いない。

 日本語の入力に最適なデバイスの研究はこれまでもされてきたし、こ れからもされていくだろう。いつかは画期的な入力デバイスが開発され るかも知れない。今のところ、「QWERTYキーボード(でなくてもいいん ですが。DVORAK配列は試してみたいものだ)+ローマ字入力+適当な日 本語変換システム」という組合せは、ぼくにとってはまずまずの組合せ である。みなさんはどうだろうか。


 ところで、この数年、誤字や脱字がぽろぽろ見つかる本が多い。多い といっても、出版量の全体に比べれば微量だろうけど。

 しかし、誤字や脱字はそれ自体すごく目立つ。特に目立つのが、日本 語入力の誤変換によると明らかに判る「誤字」ないし「誤記」。ぼくも 人のことはいえないけど、もーちょっと注意深く書いてはいかがでしょ うか。それに、誤字・誤記や脱字があると、「あ、この本、ろくに校正 していないな」と思われてしまう。損だ。

 そういう意味でなら「手書きの方がいい」というのも頷ける。つまら ない誤記誤字脱字は手書きの方が少なそうな気がする。でも手書きでも 誤字や脱字は発生するし、不注意に、迂闊に、上の空で書いたら、やっ ぱり注意力散慢な文章が出来上がる。校正で不手際があったら手書きだ ろうとコンピューターだろうと同じことだ。

 だからこの点で徒に「コンピューターを使った執筆」を責めるのはど うかと思う。それよりは“もっと賢いつき合い方”を研究・開発する方 が得だと思うのだが。


 「創作の文章は手で書きつけてこそ本物」というのは、それが真実で あることもあるだろうが、それだけが真実ではないだろう。ちょっと乱 暴な気がする。そんなことをいったら、欧米の著述家にはタイプライター を使う人がかなりの数いると思うけれど、この人たちの文章は“ナッテ ナイ”ということになる。(そう言いたいのかも知れないが)

 結局のところ、どんな道具を使おうが、書こうとしている文章や書き つけた文章を吟味する/しないのは、書いた人の性格とか、資質による のではないだろうか。



和文執筆に立ちはだかる問題たち――たとえば文字

 コンピューターを使って文章を書くのはすごく楽なのだが、「日本語 の文章(和文)を書く」点に関しては、とても不便な、というか、致命 的な欠点がいくつかある。

 多くの場合、これはさほど不都合ではないのだろう。そう判断したか らこそJISはこれを規格にしたのだろう(と思いたい)。しかし、文章 による言語表現を行なう人間にとっては、これは少少切ないことがある。 気分の問題で済むこともあれば、そうでないこともあるけれど、「気分」 だって重要な要素だ。

 たとえば「つかむ」ということばを、ぼくはできるなら漢字で「掴む」 と書きたい。この字は、ぼくの気分では〈旧字体〉、「手偏に國」であっ て欲しい。しかし今の日本語文字コードの規格では、これは「手偏に簡 略化された国(口の中に玉)」として表現されてしまう。なんだか違う な、と思うので、今は「つかむ」を平仮名で書くようにしている。そう いう字が、いくつか、ある。

 もちろん、厳密に言い出したら、われわれが「これが正字」と思って いるものも実は誤用に基づくものだったり、すでに換字されたものだっ たりする。「正しさ」なんてたかだかその程度なんだと、〈ことばの問 題〉を見ているとつくづく思う。新しい用字や用法に慣れてしまえば 「問題」はなくなるのだ。でもそれが他者に押しつけられてのものなら 厭だ。

 気分で済まない例は、意図的に旧字体で書く場合とか、古い文献を文 中に引用したい場合、など、いくらでもある。

 気分で済まないもうひとつの例は、「字を創作したい」場合。翻訳家・ 柳瀬尚紀の随筆で知ったのだが、中国の芸術家に『実在しない漢字を “創作”し、そういう字だけで「文章」を書いたり「辞典」を創ったり する』人がいるのだそうだ。こういう人にとっては、今の文字コード体 系自体が“敵”というか、嬉しくもなんともない存在ではあるまいか (フォントを創作してしまえばいい、という考え方もあるけれど)。

 ぼくの場合も「え゛」とか「ぬ゛」とか「の゜〜っとしていた」など と、書きたいことがある。もちろん漢字でも、「存在しない漢字」をでっ ちあげたいことがある。いずれも現在のコンピューターが文字を扱う仕 組そのままではできない。

 外字を使えばいいと思われるかも知れないが、外字は文字コード中文 字に割り当てられていない部分を使うもので、「互換性」「可搬性」に 大いに影響する。あるいはアプリケーションレベルでならできるけれど、 その場合はアプリケーション依存の表現になってしまう。

 この点で現在の「コンピューターで文章を書く」というための技術は 不満だらけの代物に違いない。幸か不幸か、 ぼく個人は今は上に挙げ たような欲求は少ない。というか、「今のコンピューターで表せる文字 だけで表現しよう」といった態度をとっている。しかし、《そうしたく なった》時に《そう》できないというのは、困る。誰がなんといっても 困るのだ。



日本語入力システムの《モンダイ》

 かつて「日本語入力FEP」と呼ばれていたものが、ほぼ、現在の「日 本語入力システム」に相当する……なんて話は、どうでもいいですね。 日本語の変換方式にもいろいろあるけれど、何が「最適」なんだろう? (ここで「最適」とわざわざカッコをつけているのは、最適なんて人の 好みや慣れによって変わるから。だからここでの話もあくまでぼく個人 の話だ)

 直観的に、『「最適」なんてないよ』という答が導かれるわけだけど、 それじゃ面白くないので少し考えてみる。

 日本語の入力変換方式はコンピューターの進化と普及に伴ってさまざ まに発展してきた。

 日本語入力FEPの黎明期は知らないのだけれど、最初はきっと単漢字 変換から始まったのだろう。そのうち、単細胞生物が集合して多細胞に なるがごとく、熟語変換が生まれた(生物との対比は書きながら思いつ いたんだけど、けっこう面白いかも)。熟語変換の時代は知っている。 ぼくもコンピューターに触れ始めた頃のことで、「コンピューターで日 本語を入力できる」のが新鮮だった。

 思い出話ついでに書くと、単漢字変換もちょっぴり知っている。とあ るDOSマシンを使っていたときだけれど、OSのフロッピーに熟語変換の モジュールがなく、そうすると単漢字変換しか働かなくなるのだった。 これはさすがにちょっと、という代物でした(辞書もろくに入っていな くて、だから、ろくに日本語入力もできなかったような記憶もあ る……)。いま、「Microsoft Windows 95」なんて辺りからコンピュー ターを使い始めた人には想像もできないだろう。

 そのうち海から陸に上がって連文節変換になる。文字の並びを文節で 区切る、という概念が導入された。熟語変換から連文節変換への飛躍は、 単語変換から熟語変換へのそれに比べてかなり大きな飛躍だったろうと 想像する。

 そうこうするうち、「自由変換(一括変換)」なんてものが出てきた。 それまでの日本語変換は変換するためのきっかけというか引金を引いて やらなければならなかったが、自由変換ではその引金を入力システム (FEP)が見つける。少し使ったけれど、大して便利とは思わなかった。

 ところで、入力された文字の並びをどのような規則に基づいてどのよ うに区切り、漢字かな混じり文に変換するのかは、文法学的問題とソフ トウェア技術的問題が絡みあって、なかなかエキサイティングな領域で ある。ある、と断言するほどその世界に詳しいわけじゃないけど。大雑 把に言ってしまうと、入力システムがどの文法的解釈を採用するかによっ て違うようだ。

 「AI変換」とか「格フレーム変換」が出てきた辺りで《変換能力》の 向上競争は打止めになったように思う。あとは辞書をどれだけ《充実》 させるかとか、「賢さ」でなくて「便利さ」でしょう。

 AI変換って、AIの技術を転用したものだというけれど、どれだけマジ でやっているのか知らないけれど、大した代物ではない。〈素人さん〉 がこれをみて「なんだ、AIって大したことないんじゃないか」と思った としたら、AIに可哀想だ。「アメが降った」のアメと「アメを食べた」 のアメを文脈から見分けて「雨」「飴」と変換し分ける、変換効率が高 い、というのが売りもののようだが、ぼくがちょこっと使った限りでは (つまり、自分の文章で試した限りでは)そんなに都合よくいかなかっ たし、仮に《都合よく》変換してくれたとしても、それでは都合が 悪い局面があることに、すぐに気づく。

 「雨が降った」「飴を食べた」と、非常に素直に、というか当たり前 のことを当たり前に書きたい場合にはこれは有効かも知れない。しかし たとえば創作の文章では、「飴が降った」「雨を食べた」と書きたい場 合がある。よく考えれば創作でなくてもそういう場合がけっこうあるこ とに気づくだろう。つまり、《文脈》を見分けて自動的に適切な変換な んていうのは余計なお世話であって、《文脈》は常に書き手の側にある。 何が「正しい変換」でなにが「誤変換」なのか、コンピューター風情に 勝手に判断されるのはいい迷惑だ。それでなくとも、文字を書くという 行為に「誤変換」はつきものなのだから。


 連文節変換はある意味莫迦だが、余計なことはしないし、その分反応 もいい。

 現在ぼくは某フリーソフトの変換システムを愛用している。開発者の 苦労と自分が受けている恩恵を無視してごめんなさいだけれど、はっき り言って、莫迦である。品詞の取り違えや「誤変換」は平気でするし、 それを反省する気配もない。学習はしているらしいがどれだけ本気で学 習しているのか怪しいものだ。使っていてしょっちゅう苛立つ。しかし、 反応速度や変換速度が速いのはなんといっても気持いい。多少の莫迦さ 加減は許してやろうという気になる。

 自由文変換なんていうのも不要。だいたい、かな文を延延と打ち込ん で変換はシステム任せなんて「書き方」を誰がするのだろう。手で書く 時はそうはしませんよね。手書きに一番近い入力方法はせいぜい「連文 節変換」だと思う。

 連文節変換には、適当なところで変換キーを押す必要があるとか、文 節区切りを直してやる必要があるとか、鬱陶しいことは山ほどある。で も、入力を楽に、フリーにしようと思って進化した姿が「自由文変換」 だとか「AI変換」なのだとしたら、成功はしていない。それなら、動作 が軽い方がマシです。


 個個の入力システム(FEP)では、マッキントッシュのMacVJE 2.5と いうのが一番気持よかった。辞書登録の際、30種類近くの品詞から選択 できるのがうれしかった。実際にはそんなにたくさんの品詞を使い分け ることはないし、間違えると変換効率に影響するのだが、「それだけこ まかく入力を解析している」感じが窺えた。キー割当ても自然と馴染ん だ。変換方式は連文節変換だったが、効率もなかなかよかったような気 がする。あまりストレスを感じた記憶がない。漢字Talk6.04(6.07)と MacVJE2.5(とEGWord)という組合せがいちばん快適だった。

 先に書いたように、マッキントッシュを買う動機として「文章を書く」 というのがあったので、日本語入力FEPについてはずいぶん調べたし悩 んだものだ。マッキントッシュプラスを買った時はOSが漢字トーク2.0 という代物で、「2.0変換」とかいうちゃちなFEPが付属していたが、こ れはすぐに却下された。EGWordにはEGBridgeというFEPが付属している が、これも却下された。MacVJEを気に入ったのとちょうど逆の理由から である。

 OSがSystem7になり、MacVJEはMacVJE-γとなった。FEP方式でなく、 「入力システム」になった(両者の違いは、簡単に言えば、OSが管理す るキーボード入力ルーチンに割り込んで日本語変換をするのがFEP、そ うでなく独立したプログラムとして、他のアプリケーションから入力文 字列を受け取り、変換して返すのが入力システム)。その頃から、マッ キントッシュ自体をあまり使わなくなった。

 DOSの世界でも、使うならやはりVJEだった。MacVJEほど気持よくはな かったけれど、ATOKとかよりはましだと思った。Windows3.1用に、こち らもVJE-γとかいう日本語入力システムに生まれ変わった。しばらく使っ たけれど、Windows95の出現を境に離れてしまった。

 Windowsが普及してから、サードパーティの日本語入力システムが元 気をなくしてしまったように見える。哀しい。MS-IMEは、……なんであ あいうものが「標準」になってるんでしょうか。

 Unixの世界に移住してからは、先にも触れた某入力システムを愛用し ている。悪口もいうが、それは愛用している証だ。

 入力システムの評価は変換効率うんぬんだけでなく、キー割当てに代 表される《使い勝手》も大きく影響する。DOS世界の慣習とUnix世界の 慣習は大きく異なっているので、DOSのFEPのつもりで操ろうとしてもそ うはさせてくれなかったりする。Unixで生まれ育った入力システムに馴 染めないという人はけっこういるだろう。(まぁそんなことをいうなら 文書エディターだって相当に異なっている)

 PC UNIXが「商売」になると判ったからか、DOS育ちの入力システムが 続続と(といってももともと数は多くない)Unixに移植されてきている。 DOS育ちの人にはうれしい話だろう。「コンピューターによる日本語入 力」は間違いなくDOS世界(と、ワードプロセッサ専用機)で鍛えられ た。

 といっても、ぼくもDOS育ちだがこれらの入力システムは使っていな い。すでにフリーでそこそこ使えるものがあるから金をかける気になら ないというのもあるし、郷に入っては郷に従えとも思うから。それにこ れら「DOS育ちの入力システム」は、Xウィンドウシステムのネイティブ アプリケーションでならDOSでと同じように操作できるかも知れないが、 端末エミュレータやコンソールを使っている時にちゃんと使えるのだろ うか(ある入力システムはダメだというのは知っている)。



「電子文房具」? ――テキストエディターやその他のツール

 についても書こうと思ったのだけど、息切れしてきたので別の機会に 譲ることにする。



コンピューター《とともに》文章を書く――

 長い文章を書いてしまった。時間もかかった。話題も発散した。ちょっ と大きすぎるテーマを選んでしまったようだ。

 ある種の人人がコンピューターを用いた執筆を排斥したとしても、場 合によっては致命的となる欠点があるとしても、コンピューターを用い た(場合によってはコンピューターとともに行なう)執筆にはそれなり の効用がある。コンピューターを用いて執筆した文章を安手のホラー小 説呼ばわりする人もいたと記憶するが、それがコンピューターを用いた 故なのか、それとも単にそういう文体なのかどうかは、冷静に分析され るべきだ。(冷静に分析した結果の結論だったらごめんなさい)





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