2000年8月15日のエスペラント語

Completed on 2000.08.15



 2000年8月15日現在、エスペラント語について感じること、考えるこ とをまとめてみました。日付つきの題にしたのは、時が経てばここに書 いたのとまた感想が変わるかも知れないからで、深い意味はまったくあ りません。

 エスペラント語をコンピューター言語と結びつけた例があるのかない のか知りませんが、ま、珍しい一品なんじゃないでしょうか。




N年ぶりの再会

 2000年夏、エスペラント語と久しぶりに出逢った。

 きっかけは、もう思い出せない。確か、その直前、雑誌を整理してい たら、bit 誌のとある記事にエスペラント語のことが出ていた。おそら くそれが引金なのだろう。(確かエスペラントとはまったく関係ない記 事の中に、脚注か何かで触れられていたのだったが)

 本屋で『エクスプレス エスペラント語』(白水社、ISBN4-560-00504-4) と『4時間で覚える地球語エスペラント』(白水社、ISBN4-560-00524-9)を 買い求めた。この2冊を読んで、「久しぶりに、今度は本腰を入れて、 この言語と取っ組みあってみようか」と思った。

 2000年8月現在、取り組み中である。

 そもそもエスペラント語に興味を持ったのは、中学生か高校生の頃だっ た。実家の本棚に『エスペラント基礎1500語』(大学書林)とか『日エ ス会話練習帳』(大学書林)が並んでいる。

 なぜ当時、なぜエスペラント語だったのかも、いまや定かではない。 ひとつ考えられるのは、阿刀田高『詭弁の話術』(KKベストセラーズ・ ワニ文庫、ISBN4-584-30001-1)の影響だ。そこでは「エスペラント語 の〈詭弁性〉」が指摘されていた。それで、どんな言語なんだろうと思っ たのかも知れない。

 もうひとつ考えられるのは、もともとぼくは語学方面が好きだった。 プログラミング言語、というくらいだから、プログラミングには一種の 言語感覚が欠かせない。プログラマーとして長年やって来られたのもそ れが一面語学だから、というのはあながちウソとも言い切れない(でも ウソでも気にしないでください)。そういう指向性の中でエスペラント が引っかかったというのはあり得る。なぜその時期にエスペラントなの かは説明できないけど、きっと、なんとなくだったのだろう(笑)。

 いずれにしろ大した動機はなくてほんの興味本位だったに違いなく、 その証拠に、アルファベットを憶えた程度でまったくモノにもせずに波 は引いていった。

エスペラントの〈新しい〉姿

 N年ぶりに出逢ったエスペラント語は、なかなか興味をそそるものだっ た。

 今回はまずこのことばの成立ちの過程というか、誕生と発展の歴史、 ザメンホフがこの言語を開発した経緯なんかを知りたかった。創始者が どういうことを考えて何をやったか知りたかったのだ。

 前二冊を読んでの感想は、エスペラント語は、よく練られた〈人造言 語〉だな、というものだ。ザメンホフは一流の言語設計者だった。新し い言語が流布され使われるにはどういう条件を満足していなければなら ないかをよく知っていたのだろう。そして新しい言語を単に机上の理論 に従ってデザインするだけでなく、実験し、評価し、改良を加えた。実 験は韻文や散文の執筆(ないし翻訳)で行なわれたらしいが、この実証 的な態度も言語デザイナーにふさわしい。

 文法が思ったより単純なのには驚いた。N年前に一通りは目を通して いた筈で、その頃は(きっと)馴染めなかったのが、今では(わりかし) すんなり頭に入る。文章もなんとなく読める。これには時の流れがひと 役買っているだろう。この間にぼくは英語をいちおう勉強したし、フラ ンス語もちょっぴり齧った。それはもう、「齧った」とすら言えないく らいほんの隅っこをちょっとかじかじした程度ではあったが、そのくら いの知識でも、あれば文法で英語に当てはまらない部分をフランス語に なぞらえて理解できる。これはちょっとした感動だった。時間の経過は 悪いことばかりをもたらすのではないらしい。

 もうひとつの、もしかしたらもっと重要な時間の恩恵は、コンピュー タープログラミングと出逢って形式言語にほんの少しとはいえ馴染みが できていたことだろう。

 言語そのものに対するぼくの興味は主として次のようなところにあっ た:

  1. エスペラント語で小説(散文)は書けるのか?
  2. エスペラント語の造語力はどれほどのものか?
  3. 同じ〈人工言語〉として、コンピューター言語との対比はいかに?(笑)
 前掲書を読んで、最初の二点についての疑問はほぼ解消された。

 正直にいって、〈人工言語〉だからと、莫迦にしていたところがある のは否めない。この100年のエスペランティストの努力の足跡を見て、 認識を新たにした。エスペラント語は、今みる限り、各国の人が言語の 違いを越えて意思交流するために必要なメカニズムを持ち合わせている ように思う。

余談 〜 プログラミング言語との対比から

 この節は完全に余談です。

 コンピューターの世界でも何千となく言語が創造されていて、ぼくも ふたつみっつデザインしたことがある。当然、当初意図したことが記述 できるようにデザインするのだが、だが、「当初意図していなかった (しかし、その言語で記述可能な)こともちゃんと記述できるか」とい うところで、よく躓いた。

 当たり前といえばこれほど当たり前のこともないのだが、案外、見通 しの利かないがちがちのデザインになってしまったりする。融通の利く デザインを描くには場数が必要だ。実は言語だけでなくて、ソフトウェ アデザイン全般に通じることだが。

 逆に、基本的な構文をきちんと(あるいはいいかげんに)考えておい たら、後で実はこんなことも書けると判って自分のセンスのよさにうっ とりしたり――デザイナー冥利に尽きるというか、とてもうれしいこと なのだが、実は言語の「威力」はまさにそこにある。

 さらに余談だが、プログラミング言語のデザインではこんな〈評価基 準〉もある:

「その言語で、その言語の処理系を記述できるか?」
 このテーマは言語の自己言及性とも絡んでなかなか興味深い。簡易言 語や「小さな言語」にそんな記述能力を求めても意味がない(「小さな 言語」ではなくなる!)けれど、汎用を目指すなら、その言語自身の解 釈機構を記述してみるのはいい試金石になる。

 これを無邪気に(〈人工言語〉とはいえ)自然言語に適用するのはむ ちゃくちゃというものだけれど、無理矢理あてはめてしまえば、「エス ペラント語の文法をエスペラント語で記述できるか」といったことに相 当するだろうが、これはすでに実現できている筈である。

【補記】むちゃくちゃどころか、本質的なことだと後で気づいた。 自身の文法を記述できない自然言語など、言語の名に値しない じゃないか。少なくとも「本格言語」ではない。

 面白いからもう少し対比を続けてみよう。かなりいい加減なので、あ まり真剣に読まないように。

 プログラミング言語に必須の要素は次の3つである。

  1. 構文
  2. 語彙、基本手続き(プリミティブ)
  3. 合成と名前づけ(あるいは抽象化)
 構文はいうまでもなく文法、語彙はそのまま基本単語になぞらえられ る。基本演算とも言われる「プリミティブ」は、接続詞や前置詞、接辞 (接頭辞、接尾辞)や関係詞といったものになるだろうか。「合成」と は手続きやデータを繋ぎ合わせて新しい手続きやデータ(型)を創り出 す能力のことで、当然、新しいものには新しい名前をつけられねばなら ない。これは造語能力に相当するだろう。

 ヘンな比較の仕方に見えるかも知れないが、こんな風に比較してみる と、エスペラント語は充分強力な言語のように見える。もっとも感心す るのがぼくのいう「造語能力」で、この柔らかさしなやかさは、よくぞ 考えておいてくれた、というほどだ。

 そう言えば、Emacs/Muleにエスペラント語モードはあるんだろうか?  ……と思って調べたので、今記すには早すぎるけれど(まだ試せても いないので)、書き留めておく。

 Emacsバージョン20.6では、エスペラント語がサポートされているよ うだ(言語環境ではLatin-3に含まれ、入力方式では前置式と後置式が 提供されている)。Latin-3フォントが簡単に手に入るかどうかは知り ません。PC上でエスペラント語を、代用表記でなく読み書きしたい人は、 Emacs/Muleを使うといいのではないだろうか。

 さらにどんどん話題はずれるが、コンピュータで日エス混在の文書を 扱うことを考えると、ちょっと頭が痛くなるかも知れない。現在、多言 語混在の文書を書けるワードプロセッサーは存在するのだろうか?(テ キストエディターではキビシイ筈で、ワードプロセッサーが必要になる と思う)。しかしちょっと見ない間にワードプロセッサーの「言語を扱 う能力」は退化したみたいに見える。昔のマッキントッシュのワードプ ロセッサーの方がこの点では優れていた。

 ぼくは割り切って(当面)代用表記でいいじゃないかと思っている。 印刷を考えるならLaTeXを使えばまぁ凌げるし。でも世の中にはフォン トを開発したりキーボードドライバを作ったりしている人がいるらしい。 エスペラント語に惚れ込んでいるんだろうね。

インターフェイス言語でいいじゃん

 自分自身の例で考えてみると、英語やフランス語の読み書きや会話は、 全くできないとは言わないものの、頭と耳や口や手や目との間にちょ→ 巨大なバッファがあって、そこで文を組み立てたり解釈したりしている。 しかも〈頭―バッファ〉間、〈バッファ―入出力デバイス〉間の転送レー トは異様に低い。ついでに信頼性も低い。すらすらと読めず聞き取りも ダメで流暢に話せもしない。このバッファは、ネイティブと同じくらい 流暢に操れるようにならなければなくならないだろう。そして、ネイティ ブと同じようには、ずっとなれないだろう。

 程度の差こそあれ、ぼくにとってはエスペラント語も同じだ。そして、 誰にとっても同じだ。殆どの人にとってエスペラント語は〈第二言語〉 であり、頭の中にバッファを抱えているのだ。この点において、殆どの 人はほぼ同じ条件だと言える。殆ど誰にとっても母語ではなく、 その点で、エスペラント語を使うことで不当な利益を得る人がいない。

 であれば、こうした〈人工言語〉を使う値打ちはあると思う。

 コンピュータ/ソフトウェアの世界から眺めれば話は簡単で、異なる 複数のシステム(言語世界や、それが背負っている文化)の間を取り持 つインターフェイスとしての言語として機能すればいいわけだ。エスペ ラント語では「橋渡し言語(pontlingvo)」というらしいが、言い得て妙 だと思う。お互いの文化的背景を無視したり軽視したりすることなく、 意思や論理、できれば感情を表現し、交換することがもしできるなら、 それは〈そこそこ素晴らしい〉媒体と言えるのではないか?

 コンピューターの世界では、マルチリンガルはごく当然のことである。 それは仕方なくそうなっているというよりは、それが自然だからという 方が当たっている。そして、コンピューターの世界でも、「すべてのこ とを記述するためのただひとつのプログラミング言語があればいい」と いう思想は既に死んでいる。

 プログラマーは今でもそうしているし、そして恐らくいつまでも、 「ある局面では言語Aでプログラムし、別の局面では言語Bを用い、……」 ということを繰り返すだろう。異なる系と接する局面できちんと「イン ターフェイス」できれば(情報や意図を間違えずに交換できれば)いい、 それが保証されれば系の内部は好きにやっていい、という考えはデザイ ンに柔軟さをもたらすし、いわゆる「オープンシステム」では非常に重 要となる。

 もちろん「真の相互理解」をするなら、お互いの母語を学び、それで 話すのが一番に決まっている。でもそのためにN個の言語を学ぶのも無 理な話だ。自然言語の世界で、こうした「インターフェイス言語」の役 割を果たすもののひとつとして、たとえばエスペラント語が候補に挙が るなら、それはそれでいいではないかと思う。

当面の課題は……

 ともかく、早く読み書きできるようにしたい。その上でいろんな「実 験」ができたらいいなと思う。もうとっくに解決しているのかも知れな いけれど、たとえば:

  1. 技術用語(とりわけコンピューター用語)を移植できるか?
    エスペラントで「コンピューターやソフトウェア、プログラミングに 関する話」ができるか?
    あるいは、日本語のことば、日本語に見られる概念をどれだけ 移植できるか?
  2. 日本人(日本語を母語とする人)が、エスペラント語で小説なり 詩を書いたら、いったいどんなものができるのだろうか? どういうことが起こるのか。
  3. エスペラント語でポルノは書けるか?
  4. エスペラント語でユーモア、エスプリはどの程度表現できるのか?

 コンピューター用語の移植は、すでに有志の方方によって移植されて いるようだ(日本語との対応づけもされている)。ちょっと見た限り、 正直に言って「今ひとつピンと来ない」。英語の世界に慣れてしまって いるせいなのだろうが、頷けるものもある半面、こういう訳はどうかと 思うものもある。エスペラント語とプログラミングの双方に習熟した人 が熟慮の末に訳を決めているのだろうから、そうそう誤訳・珍訳はない のだろうけど。

 「マウス」をmuso(鼠)とするかと思えば、「インターフェイス」は interfacoで、「エディター」はredaktilo(編集者)になっている。か と思うと、「バイナリー」はbinaraになっていたりする(duumaという のもある)。固有名詞はなにか悲惨で、LispがLispoになっている。 Lispoねえ……

 その言語にもともと存在しないことば(=概念)を移植するって、な かなか微妙で繊細な問題なのだな。

 日本語を母語とする人が、エスペラント語で創作するというのは、いっ たいどういうことなのか、これは実例を見たことがないのでなんとも判 らない。ヨーロッパ人がエスペラント語で創作するのとはちょっと違う ような気がする。エスペラント語で〈日本的な情緒〉を描けるのか。 〈日本人の心象風景〉とか〈日本人的価値観、論理〉とかを描けるのだ ろうか? よく判らないとしか今は言えない。

 エスペラント大会で知り合って結婚した人たちもいるらしいから、愛 の会話を交わすことはできるのだろうけれど、性の表現についてはどう なんでしょう。女性は眉を顰めるに違いないけれど、気になる。「性交 する」なんて動詞はある。「新しいメディアはポルノとゲームによって 普及する」という原則からすれば、やはりエスペラント語による本格的 なポルノグラフィーが待たれるところであろう(そんなことないか)。 もしかしたら、もうあるのかも知れないけど。人間の生活も意識もきれ いごとばかりじゃないのだから、隠されがちな領域を描くそうした作品 が現れたら、言語として一人前なんじゃないかと、ぼくなんかは考える のだが。

 それと同じくらい、ユーモアやエスプリ、ナンセンスも大切だと思う。 「マジメな文学作品」だけじゃなくて、笑いの文学も翻訳できなければ 意味がないし、できれば創作が欲しいところだ。

 さて、では、一体どうなるんだろう? 今後の報告をお楽しみに。





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