表記、常軌、定規、同義、同期、想起

Completed on 2000.10.24



 この十年間ばかり気づかないふりをしてきたけれど、改めて回りを眺 めてみると〈ことば〉の世界には〈問題〉だらけだ(もちろん、〈問題〉 なんて世界中いつでもどこにでも転がっている)。

 差し当たって日本語の表記というヤツが気になっている。ど ういう字を使うとか、かなの送り方とかは以前から注意していたが、そ れだけではないのだった。

 たぶんコンピューターで文章を書くようになってから、何度かそれに 引っかかった。でも大したことじゃないと思ったり、かかずらっている 暇がないと言い訳をしたりして、通り過ぎてきたのだろう。




たとえば、送り仮名のことなど

 送り仮名を取り上げるなら仮名遣い全般も話題にされるべきだろうが、 キリがなくなるのでここでは割愛する。

 現在の国語教育では、「動詞や形容詞などの活用語は、活用で変化す る部分を送る」のが原則だったと記憶する(資料が手許にない。手に入 れたらよく読もう)。

 基本的には、これに慣れてしまっている。ただし、動詞と、連用形の 名詞化とでは送り方を変えることがある。たとえば――

  1. 彼は彼女を呼び出した。
  2. 彼は彼女を呼出した。

2番目の書き方はあまりしない。これに対して――

  1. 呼び出し
  2. 呼出し
  3. 呼出

「呼び出し」では間延びして感じられる時があり、そんな時には「呼出 し」とすることがある。「呼出」はあまりしない。しかし、

  1. 受け付け
  2. 受付け
  3. 受付

では圧倒的に「受付」。なんだけれど、動詞の面影を残しているような 文脈(どういう文脈だ? でも、あるのだ、そういうことは)では「受 け付け」にしてみたりする(でもそういうときは「受けつけ」と書きた い)。

 「活用する部分を送る」にしても、「何かの場合にはその限りではな い」、なんて附則も、記憶によれば、あった(こうして例外が増殖する のである)。それにのっとって、ぼくは「おこなう」を「行なう」と書 くことにしている。連用形を区別しやすいから(「おこなった」と「いっ た」)。これはこれで理にかなっているとぼくは思っているのだが、そ うでもない人たちもいるらしい。「すくない」を「少ない」と書く人は けっこうたくさんいるのではないかな。それとも少いかな。

 名詞化した形では送り仮名をつけないこともあるが、動詞の形では送 る。ただしそうでない場合もあるし、「落ち着き」とか「感じがいい」 といった情緒的な理由で決める場合もある。というのが、ぼくにとって の〈原則〉らしい。原則になっていないか(^^)

 一般にひとつの文章内で不揃いなのはよくないと思うが、それも文章 の種類による。ソフトウェアの設計書など、客観性が求められ、人に指 示を与えたり証拠となったりするような文章では揃っているべきだ。で もどうでもいい箇所もあって、そういうところに不揃いがあっても目く じらを立てないのがオトナの態度なんじゃないかと思う。(重箱の隅を つつくのが好きなヒトが顧客側担当者だとなかなか検収をあげてもらえ ない。悲劇である)。他方、文芸作品では不揃いだからといって一概に 咎めることはできない。

 だいたい、例外があちこちに穴を開けているのが自然言語だから、統 一しようと固く心に決めたとしてもいずれは破綻する。

 送り仮名の話題からは外れるが、「付く」という動詞がある。この語 はさまざまな動詞にそれこそくっついて、意味を変化させる働きがある。 この使い方では、本来の意味から離れていると感じるのと、なんだか 落ち着かないのとで、ひらがなで書くのが好きだ。

 「出す」もそういう性質がある。

  1. 考え出す (考えを創出する)
  2. 考えだす (考え始める)
  3. △彼女は笑い出した。
  4. ○彼女は笑いだした。 (笑い始めた)

 うーむ。3 と 4 はビミョウですね。「笑い始める」の意味合いで 「笑い出す」とは、書くかも知れない。みなさんはいかがだろうか。

長音を表記しろ

 カタカナ語の(末尾の)長音をどー表記するか、とゆー問題もある。 これがまたややこしいのです。

 これまでぼくは「不統一」だった。「コンピュータ」と書く一方で、 「プログラマー」と書くことを好んだ。それでいて「ライブラリー」よ りは「ライブラリ」の方がいい感じがしたが、「マネージャ」は収まり が悪く「マネージャー」に惹かれた。「パラメータ」でもよかったが、 「パラメタ」は拒絶反応が働いた。「パラメタ」とするなら、「マネ ジャ」でなければおかしいと思った。「マネジャ」を受け入れられない のと同じように、「パラメタ」は受け入れられないと感じた。夜の校舎 窓ガラス壊して回った。そんなことはしなかったが、JIS用語なんだと 言われても、受容できる/できないは感覚の問題だ。

 ひとつの用語の表記がころころ変わるのでなければ、こういう「不統 一」は悪いことでも恥ずべきことでもないと思うが、書いていて、とき どき違和感がある。それにつまらないことで突っかかってくる人人もい る。

 実は、長音の表記に関してはしかるべき団体が〈基準〉を作っている らしく、そのことを『pLaTeX2ε入門・縦横文書術』(ピアソン・エデュ ケーション、ISBN4-89471-196-6)という本で知った。驚くべきことに、 あるいは恐ろしいことに、〈基準〉はいくつもあり、また団体によって 異なるのだった。前述の本で挙げられていたのは、

で、これらを〈総合〉すると、「それぞれで、いろいろだ」と いう恐るべき結論が引き出されるのであった。どの〈基準〉に拠ったか で同じ語でも表記が変わるし、同じ〈基準〉の中でも、場合によってま ちまちなのだ。

 これらも参考にしつつ、けっきょく一番自分の感覚にしっくりきたの が、今使っている表記である。

ただしこれは自分の文章用の表記で、仕様書や設計文書を書く時はこの 限りではない。顧客には顧客の〈基準〉があったりするからである。

テキストだったりテクストだったり

 カタカナ語の表記には、他にもいろいろな〈問題〉がある。

 「バ行」と「ヴァ行」の使い分け、なんてのもそのひとつ。たしか、 昔はアルファベットの v の音でも「バ行」で表記するよう通達だか指 導だかが出ていた。それが最近(といっても十年単位かも)取り払われ たように記憶する(記憶ばかりで申し訳ない)。

 ぼく個人は概ねどうでもよくて、愛はラブと書くが、ラヴでもいいと 思う(いやいや、ほんとうは愛をラブなんて書きませんが)。デヴァイ スドライヴァとは自分は書かないが、そう書くのを止めろとは言わない。 ベートーベンと書くけれど、ベートーヴェンと書く人がいても気にしな い。バイブレーションよりはヴァイブレーションの方がそれらしい感じ がするが、どちらでもかまわない。

 テレビを「テレヴィ」と書く小説家がいるが、やり過ぎだと思う (「テレヴィジョン」と書くなら判る)。テレビは日本語として定着し たと感じているからだろうか。その人はセーターを「スウェーター」と も書く。でも原語の音に“忠実”であろうとするなら「スウェター」で はなかろうか?(念のため、ぼくの大好きな作家である)

 外国語の音が日本語の発音に〈一対一の写像〉とならない以上、そこ そこの近似でよしとすべき、というのがぼくの原則といえる。近似にも なり得ていない、と言うのなら、小説家・小林信彦の言うように「約束 ごと」と考えるのがいい(小林信彦は外国人映画監督の人名表記に触れ て書いたのだが)。それも厭というのなら、カタカナ語を用いずに原語 を書けばいいと思う。原語の量が多くなると厭味ったらしくなるけど (やってみれば判る)、筋の通った解決法ではある。フランス語の鼻母 音みたいに、日本語の音に写像不可能な音なんてたくさんあるんだから、 あれこれ気にしたって仕方ない。

 外来語で不思議なのが、「ク」と「キ」の表記。原語の発音に“忠実” たらんとすれば(といっても、これは英語フランス語どちらに由来する んだろう?)、text は「テクスト」になると思うのだが、「テキスト」 と書き表し発音するのが一般的だ。それでいて「テクスト」という表記 (かつ発音)も流通している(『新明解国語辞典』には両方載ってい る)。そして、ちょっとした意味のずれがあるように見える。原語を知 らないでいると、ふたつの異なる語が存在するかのように思えるのでは ないか。

 さらには、「文脈」は「コンテクスト」と書いたりする。もちろん 「コンテキスト」もよく見かける。「正しい表記」なんて考えるのが莫 迦らしくなる。他にも、saxophoneが「サキソフォン」。(でも略すと 「サックス」)。maximum は「マキシマム」(略せばやっぱり「マック ス」)。tuxedo は「タキシード」。でもtaxi はタクシー。「日本人は [ks] の発音が苦手だから」というような説明をどこかで読んだ記憶が あるが、ほんとうだろうか。

カタカナ語に纏わるその他のことごと

 本来の外国語(その国のことばとして〈正しい〉――正しいというの もまた曖昧なことばなのだが)と、いわゆる〈和製外国語〉との区別 (がつかない!)も、コワい。

 和製外国語でも、それと知った上で使うのならかまわないと思う (「和製外国語」という範疇に入る日本語というわけ)。が、和製外国 語をその言語の正しい語であるかのように思い込んで使いまくっていた りする。これはいいことなのか悪いことなのか。

後に金田一春彦『日本語(新版)』を読んでいたら、「漢語だって外国 語だし『和製漢語』もあるのだから、『和製洋語』というのがいい」と いった指摘に出会った。

 「ナイター」が和製英語と知った時は衝撃を受けた気がする(中学生 くらいの時だっただろうか)。和製英語というものの存在を知った始め かも知れない。「ボールペン」や「シャープペンシル」もそうだと知っ て驚いた。気がつけば「クーラー」とか、「システムキッチン」とか、 夥しい和製外国語が溢れている。

 コンピューターの世界では、幸い(?)英語を殆ど直輸入なので、和 製外国語がはびこる余地は案外少ないようだ――が、「キーアサイン」 「キーストローク」「キートップ」なんて、けっこうきわどそうな気が する。別のところでも書いたが、「ラインエディター」「スクリーンエ ディター」なんてのも、怪しい気がしている。

 もとは正当な外国語であっても、それをお気楽に「略語」に仕立てちゃ う、という傾向は、ぼくにとってはこっ恥ずかしい。スーパーコンピュー ターでは長すぎると思うのは判るが、「スパコン」ってなんだ。略し方 としてもおかしいのではないか。こんな語が大新聞の一面に出たりして はイケナイと思うのだが。同様に、「パソコン」ということばも実は嫌 いで、。ぎょーかいの人でない人には話を合わせるために仕方なく使う が、同業者相手にはなるべく「PC」と言っている。「ワープロ」も嫌い な略語のひとつ。デバイスドライバーを「デバドラ」とかね。

 業界用語、ジャーゴンとして流通しているだけならかわいくなくもな いけれど、広まり出すと厭な感じになる(勝手なもんだ)。定着してし まえば気にならなくなるのかも知れないが、何でもかんでも略してしま う傾向には疑問を感じる。

 ぼくは日本語の造語能力を高く評価しているものだが、略語は造語と はちょっと違うと思う。もっとも、3、4文字くらいの語が日本語として もっとも発音しやすいのだろうし、ぼくも略語は嫌いではないし、自分 でも作ったりすることはある。しかしこういう〈略語〉を作るくらいな ら、同じ程度の長さで、もっと意味の詰まった〈訳語〉を創案する方が ずっと生産的ではないだろうか。

 というわけで、訳語という話題に移る。

そもそもカタカナ語をなんとかしろ

 そんな風なので、コンピューター用語、プログラミング用語を散りば めた文章を書くと、放っておいたら文章がたちまちカタカナ語で占拠さ れてしまう。放っておくつもりはなくても占拠されてしまう。スポーツ、 ファッションの用語もカタカナ語が溢れてますよね(きっと)。

 率直に言って、これは気持が悪い。

 別に反カタカナ主義者でもないし漢語愛好協会にも入っていない。た だ、カタカナ語が溢れると文章が間延びするというか、字数のわりに文 章が薄くなってしまう感じがする。「そのプロセスのメモリリークのた めにオペレーティングシステムのメモリマネージャーがダウンし、ひい てはマシンがクラッシュした」という文章は、カタカナ語のためにめり はりがあるように見えても、結局は「そのぷろせすのめもりりーくのた めにおぺれーてぃんぐしすてむのめもりまねーじゃーがだうんし、ひい てはましんがくらっしゅした」としか言っていないわけだ。日本語では 漢字語が時数と意味を凝縮する働きをしてくれているのだから、これは 必然だ。

 こんなにカタカナ語が増えた原因を真剣に深く追及していくとどんど ん怖い話になっていきそうなので深くは考えないけれど、

  1. 英語崇拝、外国語崇拝
  2. 訳語を創り出す試みの衰弱
  3. 訳語の試みがあっても、その速度を越えて新しい(未知の)概念が 激しく流れ込んできて追いつけない

といったところが挙げられるかと思う。

 スポーツ(「運動」ですか)の世界では、かつては〈訳語〉が支配的 だったが、徐徐に外来語に復帰していった――ようだ。サッカーはかつ て「蹴球」だったが「サッカー」に戻った。(最近は「フットボールと 呼べ」という声がある)蹴球の煽りを食って「ラ式蹴球」と、まるでカッ プラーメンみたいな日本語名をいただいていたラグビーも、今では単に ラグビーと呼ばれる。「庭球」からテニス、「籠球」からバスケットボー ル、「排球」はもうなくてバレーボール、などなど。「野球」だけが日 本語名のままなのは変だとも言われる。こうした「スポーツ日本語」は スポーツに精神主義が蔓延していた時代や戦時中の名残だから廃止しよ う、という意見もあったと記憶する。

 ファッション(「服飾」ですか)にはぼくはまったく疎いのであれこ れ言う資格はないのだが、ある種の用語は日本語に対応する概念がない か、あっても日本式の服飾用語としての印象が強すぎるか、あるいは 「かわいくない」「イカシテない」かのいずれかのように思う。「チュ ニク(チュニック)」は、『新明解国語辞典』には載っているし、『新 リトル英和辞典』にもtunicで載っているけど(どこかで聞いたと思っ たら、古代ローマから来ていたのだった)、日本語には訳しようがある まい。なんとか訳せたとしても、受け入れられないのではなかろうか。

 コンピューターの世界もそれと同じ、と見ていいのかどうか。ぼくは、 そればっかりじゃいけない気がしている。

コンピューター用語の翻訳の試み

 そうはいっても、固有名詞はしょうがない。LispはLispなのであって、 たとえば「リスト処理言語」としちゃったらそれは「Lisp」ではない。 「舌もつれ」などとするのも愚である。(両方の意味をうまく採り入れ た訳語は、柳瀬尚紀さんに考えてもらうしかないと思う)といって無理 に漢字を当ててたとえば理須符とするのもやりすぎ。いま、借字で音訳 するのは時代錯誤というものだろう。

 ということで、固有名詞はカタカナ語のままとして、そうでない語、 概念語は、できる限り日本語に置き換えた方がいい、ということに、こ こではしておこう。10年くらい前からそう思ってはいたのだ。だいたい、 日本語は世界に誇る(?)造語能力を有している。これを放っておくの はもったいない。

 これまでにも先人たちによって〈訳語〉の試みはなされてきた。いず れも、明治時代だったらこれで決まり、だったかも知れないものたちぞ ろいだ。以下にぼくの知っているものをいくつか挙げてみる。

訳語原語出典
算法アルゴリズム 『プログラミングの科学』(筧捷彦・訳、培風館、1991)
算譜プログラム    〃
作譜プログラミング    〃
界面インターフェイス 『ソフトウェア作法』(木村泉・訳、共立出版、1981)

 ぼくが『算譜』ということばを知った時は、もはや「アルゴリズム」 の訳語として受け入れるにはカタカナ語に馴染んでしまっていた。が、 今みると、なかなかいい訳語に思える。今ならこれらの訳語を受け入れ、 消化して使うことができるかも知れない。たとえばプログラマーは『作 譜家』とか『作譜師』とかと呼ばれるわけだ。なんかカッコいいではな いですか(笑)

 『界面』は気に入った訳語のひとつ。ひと目見て「これだ!」と思っ た(それまでは自分なりに『接点』と訳してみていたが、「点」じゃな い)。広めようとしたが、周囲がすでにカタカナ語をよしとしていれば、 なかなか受け入れてもらえないのだった。

 「ユーザーインターフェイス」というよりは『利用者界面』の方が、 字数も少ないし落ち着いてるし意味が伝わりやすいと思う。ただ弱点は、 カタカナ語「インターフェイス」は動詞化して「インターフェイスする」 ことが可能だが、『界面』にはそれができない。

 「デバッグ」を『虫取り』というのは昔からあったが、廃れてしまっ たようだ。『虫退治』とか『虫封じ』など、いい感じだと思う。マシン にべたべたお札が貼ってあったりするわけである。

 ファイルやデータを『読む/書く』というのは、無事日本語になった。 ファイルを『開く/閉じる』も生きている(ぼくの周囲だけだろう か?)。「このファイルをオープンして、リードして、こっちのファイ ルにライトして、クローズする」というよりは遥かに判りやすい。ファ イル関連の用語は、もともとファイルという概念が現実世界のファイル の比喩であり、また日本の社会にも同様のものが存在するため、それを 操る用語も日本語を使いやすいのかも知れない。

 それならウィンドウシステムも、「ウィンドウ」とか「フレーム」と か「デスクトップ」とか言わずに済ますこともできる筈だが、そうはなっ ていないのは、『窓』では迫力がないとか、『机上』では固いとか、そ ういう理由だろうか。確かに『マイクロソフト・窓』ではなんか気が抜 けるし、『X 窓機構』と言われても反応に困る。でも英語話者にとって は、日本語で『窓(枠)』と言うのと似たような感覚で「ウィンドウ」 を捉えているのも間違いないと思う(違うのか?)。

 今はどうか知らないが、〈訳語〉といえばかつてのIBMが、ぶっち ぎりの独走といった感じで大活躍していた。PCの利用者マニュアルで、 アプリケーションを『適用業務』と表記し、デバイスドライバを『装置 駆動ルーチン(プログラム)』と呼んでいた。

 初めて接した時はそれこそ目を白黒させたものだ。カタカナ頭には異 次元空間に迷い込んだような気がしたし、大型機の世界はこうなのかなぁ と思ったり、大型機屋さんはこれだもんなぁと思ったりした。が、これ も今みるとなかなか味わいのある訳語だと思う。今でもこうした用語を 使っているなら応援したくなる(^^)P

 structured programming という語を『構造化プログラミング』と訳 したのが誰か知らないが、これは「地味だけれど味のあるヒット」といっ たところ。手持ちの英和辞典では structure に動詞としての意味はな い。そういう単語に『構造化』という語を割り当てた(この日本語も造 語だろうが)のがすごい。

 そんなことを言えば indentifier を『識別子』と訳したのも素晴ら しい。『識別子』という綴りを改めて見ると、登場した初めは何を意味 するのか判らない人が大勢いたんじゃないだろうかと思える。訳語が原 語よりも短いから浸透したのかも知れない。

 定着して市民権を得れば、日本語だって悪かないということではない か。ただ、オブジェクト指向言語の用語constructor/destructor の 訳である『構築子』『消滅子』はどうやらあまり受けなかったようで、 もはや見かけない。残念なことである。

概念の写像は難しい

 訳語をつくるということは、原語が抱えている概念を自言語に写像す るということだ。逐語訳すればいいってものではない。自言語に同様の もの、類推可能なものがない場合、まったく新しい概念だった場合など は、辞書には載っていない意味やことばを探り当てたり生み出したりし なければならないこともある。

 もっともそれはむしろ当たり前で、辞書に載っている意味というのは 辛うじて同定された、いわば固まった(見方によっては死んだ)意味だ。 ことばは常に生きて、動き、新しい意味を生み出し続けている。

 『算譜』の『譜』は、そもそも「音楽の曲節を記すための符号」 (『新明解国語辞典』)、「音楽の曲を記号化して記したもの」(『デ イリーコンサイス漢字辞典』)とのことだ。しかしその原義を思い切っ て広げることで、簡潔な訳語になった。つまり新しい概念に既存語彙で 対応しようとするなら、逐字訳ばかりではだめで、語義の思い切った転 用とか、時にはいわば「概念のジャンプ」とでもいった作業が必要にな る。逆に、うまい語(字)を思いつけば、その訳語は成功と言えるのだ ろう。

 「システム」を一律に『組織』とは訳せない。原語の意味によっては 『系』だったり『方式』だったりする方がぴったりくることがある。あ るいはもしかしたら意味がぴったり合う日本語などないのかも知れない。 たとえば「ウィンドウシステム」は『窓体系』『窓機構』というのがよ さそうに思う。「文書編集システム」は『文書編集系』か『文書編集機 構』。「システム設計」は『組織設計』か『体系設計』か。でもソフト ウェアにおける「組織」ってなんだろう。

 いちいち原語の意味を汲み取って、それぞれにふさわしい語を見つけ たり創り出したりするのは、時間も手間もかかる。それなら、カタカナ 語で「システム」としてしまう方が楽ということなのかも知れない。言っ てみれば、原義を“そのまま”カタカナ語に押し込められるから。「マ ウス」を『マウス』とすれば、生き物の鼠ではないと判る。「インストー ル」を『設置』とか『据付』としたのでは、家具調度類(ハードウェア ですね)の設置と混同する。まぁ、それはそれでいいことかも知れない。 (でも、後で見るように、スラングやジャーゴンの世界になるとかえっ て日本語が〈復権〉するようだ)

 さて、日本語にはカタカナという強力な文字集合があったから、それ を使って対処することができたけれど、そうでない言語はどうしている のだろう。(漢字のご本家ではいったいどのように訳しているのか、一 度じっくり調べてみたいものだ)

ほかの言語の例・エスペラント語の試み

 という風に話は逸れて、今ぼくが勉強中のエスペラント語を話題に載 せる。

 エスペラント語だってコンピューターを使えなければいけないので、 コンピューター用語の〈エスペラント訳〉が試みられているらしい。こ こで題材とするのは広高正昭さんの『実用エスペラント小辞典』(β版 0.5B)と、「ほった ひろひこ」という人の『エスペラントのコンピュー タ用語いろいろ』。(URLは、 http://www2.saganet.ne.jp/vastalto/esperanto.html

 この訳語たちを誰が創ったのかは知らない。コンピューター用語のエ スペラント訳という事業に取り組むのだから、それぞれに精通している 人がやった筈であり、従って充分な根拠があるに違いない。なお、エス ペラント語は「cx/ux」記法で表す。

 まず、既存の語を転用している例。

 「ウィンドウ」に fenestro (窓)、「マウス」に muso (鼠) 。「バ グ」にcimo (虫) 。「アカウント」が konto (口座などの意味)。「イ ンストールする」は instali で、「コピーする」はkopii、など。それ ぞれの語は、原語(英語)の意味に対応する意味を持っている。もちろ ん、英語でもそうであるように、これらの既存語にもともとコンピュー ター関連のものや概念を指し示す意味はなかったわけだから、当然、転 義が生じている。

 「ユーザーインターフェイス」にfasadoを当てたのは凄い。大発明で はないだろうか(もともとは「建物の正面」の意味)。Look and Feel の訳語としてもいい。interfacoという語もあるが(〈輸入〉系の語で ある)、こちらはハードウェアのインターフェイスに使われることを考 えたようだ。プロセス間インターフェイス、外部インターフェイスとい うときは、どちらの語を使うのだろう。

 つぎに、原語を意訳し、既存語彙から対応しそうな語を割り当てる、 または、既存語彙を綴り合わせて造語する例(転用も伴う)。

 「ログイン/ログアウト」をsaluti/adiauxi(原義は「挨拶する」 「別れを告げる」)というのは、悪い感じはしない。これらにはもっと お固いと思えるregistrigxi/malregistrigxiという用語もある。

 「アップロード」をalsxuti、「ダウンロード」をelsxuti、は、苦労 したなって感じ。 sxuti は「(粉粒を)撒く(蒔く?)」という意味であ る。ちょっとイメージが違う気もするけれど、目くじらは立てまい。

 「電子メイル」を retposxtoというのはうまい訳語だと思う(日本語 に逐字訳すれば「網の手紙(郵便)」)。「ネットニュース」は、そのま ま retnovajxo(j)。「ニューズグループ」もそのまま novajxgrupo。掲 示板はafisxejoで、これはどちらかといえば「転用」型と言える(もと もとは「貼紙を掲示する場所」といった意味)。

 なお、「ネットワーク」には 網を意味する retoを、「ウェブ」には teksajxo と、いずれも「転用」系の語を当てている(teksajxoは英語 のwebに照応し、「織物」「蜘蛛の巣」を意味する )。「ワールドワイ ドウェブ」はTut-Tera Teksajxo。これはWWWに合わせて頭韻(とは言わ ないか)を踏んでいるんだろうが、ここまでしなくてもいいんじゃない かとも思う。

 輸入、すなわち英語をじかにエスペラント化した例。「外来語」であ る。

 「インターフェイス」に interfaco。「インターフェイスする」は、 interfaciと動詞を導出できそうだ。

 「バイト」は bajto。「ビット」は bito。「バイナリ」はbinara、 またはbitara。ただし「転用」「造語」系のduuma や duvalora という 語もある。「二値」の意味ならこの中では duvalora がもっとも「エス ペラント的」だろうが、「二進」ならduuma だろう。「テキスト」の対 義語なら、neteksta (テキスト形式でない)という語が造られている。 「バイナリ」は多義語なので、訳そうとするとこういうことになるのか も知れない。という状況を踏まえて、外来語の binara にしておいたら どうだろう。

 「アルゴリズム」はそのままalgoritmo。基本的な語だし、訳しよう があるまい。「(計算機に数字,文字,命令を)入力する」という意味 で seti という語があるが、これもおそらく外来語(set のエスペラン ト化)ではないか。でも、「入力する」の意味で enigi、「出力する」 でeligiという語が、「既存語彙の転用」としてあり、setiよりはこれ らの方がいい。日本語には「食わせる」「吐かせる」というハッカース ラングがあって、それを訳すならmangxigi、vomigiとでもなろうか。キ タナイかな?

 ということで、コンピューター用語の翻訳に当たっては、

  1. 原語の意味に相当する語がある場合は、直訳となる既存語を転用する
  2. 原語を意訳し、対応しそうな既存語を割り当てたり造語で対処する
  3. 原語をエスペラント化する

という方法で対処しているようだ。日本語でももっと1や2系統のことば が増えるといい。(後で出てくるが、日本語でもスラングやジャーゴン の世界では、1 や 2 が流通している。この辺りに、なにか鍵があるの かも知れない(なんの鍵だ?))

 ところで――

 別稿でも触れるつもりでいるが(たぶん)、固有名詞のエスペラント 化も試みられているようだが、止めておいた方がいいと思う。というか、 止めて欲しい。

 Microsoft Windows が 「Mikrosofto Vindozo」なのはまぁどーでも いーのだが、LispがLispoである。PascalはPaskalo。BasicがBaziko。 UNIXはUniksoになって、ブール演算は Bulea operacio だそうだ(C言 語のCはどうなるんだろう?)。

 エスペラント語としてはこんな風にならざるを得ないであろうことを 頭で理解はできるけど、エスペラント化したら原義もへちまもなくなっ てしまう語だってあるだろう。Lisp, Basicのようにたとえ原語の原義 に相当するエスペラント単語が既にあるのだとしても。

「日本語でWWWはなんていう?」

 さて、「ワールドワイドウェブ」を、日本語らしくするとしたら何と 呼ぶか?(以下、〈新訳語〉は『』で括る)

 あるところで『電網』という〈訳語〉を見かけた。なかなか いい〈訳〉だなと思ったが、使っている人が「ウェブ」の意味で使って いるのか「インターネット」の意味でなのかがちょっと判らなかった (「これは電網上のあるページで見つけた」とか「電網頁」などと書い てあった)。

 「インターネット」も「ウェブ」も同じものだと思っている人は沢山 いると思うが、正確には別個の概念を表しており、であれば訳語もその 違いが映るように作る、ないし選ばなければなるまい。『電網』は、ど ちらかといえば「ネットワーク」ないし「インターネット」の訳語とし ての方がふさわしいと思う。

 では、英語における net と web の違いはしかじだから……というこ とをやり出すには、英語の詳しい知識が必要になって、ぼくごときでは とても手が出せない(しかしそこまで(一度は)踏み込まなければ、訳 語づくりはできないのだろう)。

 といいつつ、力不足は承知で考えてみると……織物のイメージを織り 込んで『電織』というのはどうだろう。「電飾」と間違えると いうなら、『でんしき』。いけてねー(^^;)  以前、苦 しまぎれに『世界情報発信網』という〈訳〉をでっちあげてみたことが あるが、これもひどい(関係ないが「データ」を『資料』と訳してみた こともあった。これもひどい)。

 電子メイルに『電便』と当てた訳も見かけた。これはいい (「便」という語は、ぼくは思いつかなかった)。

 欲(?)を言うと、「電」ということばは今どきどうかなと感じる。 「電脳」ということばが生み出されたのは15年ほど前のことだと思う。 「サイバースペース(cyberspace)」を「電脳空間」と訳したのが始まり ではなかったか。あるいは坂村健の「電脳都市」の方が早かったか。そ の頃は確かに画期的だったしイメージに溢れていた。今では少々古びて しまった感じがする。ネットワークとウェブの普及で「電脳空間」は現 実味を帯びてきたけれど、まだ「電脳」にほど遠いのも事実。もっとぴっ たりした一字を手に入れられればいいんだけど。

 いくつか試作してみよう。

 ファイルは、『書類』ないし『文書』でいい。テキス トエディターは『文書エディター』(この語はもうある)。エ ディターも訳語を割り当てられないことはないけれど、「ソフト」とか 「ツール」を訳せない限り「編集ソフト」あたりが関の山。それならこ こで訳してしまおう。

 「ソフトウェア」というのはもともと「ハードウェア」に対する語と して創られた、これ自体が造語だから、「原義」にとらわれる必要はな いと思える。そこで、「ツール」の意を汲んで、『』はどう だろう。するとエディターは『編集具』。う〜ん、変だ(爆)

 文書作成を『作文』として、ワープロなどという妙なカタカナ語はも う使わずに、『作文ソフト』『作文具』と呼ぶ。ダメだな(そういえば 「文作くん」というワードプロセッサーがあった)。『作書』だと搾取 に音が似ているし、『造書』は蔵書に似ている。『綴文(てつぶん) 』『綴書(てつしょ)』ならどうだろう。

 「(ファイルからメモリに)ロードする」を『充填する』ま たは『装填する』。「ストアする」は『貯蔵』。セーヴ とリストアは『退避』と『復元』でいい。

 ファイル転送を『書類転送』ないし『転書』と造語してみる。 ファイル転送プロトコルは『転書規約』。おお、なんかそれら しいではないですか。そうでもないか? データの転送も含めてしまっ て、「このデータを添書して転書する」などと使う。判りづらいか(苦 笑)。

 ぼくはシステムやプログラムの「設計」を意図的に「デザイン」と呼 んでいる。カタカナ語である。ソフトウェアの設計には、服飾やインテ リアのように意匠や企図といった側面も多分にあると考えており、それ を明らかにするためにカタカナ語を使っている。ハードウェアの設計だっ て意匠は欠かせないと思うのだが、「設計」というと意匠の側面が殺ぎ 落とされるような印象がある。「設計図」の素気なさを連想するからだ ろうか。

日本のハッカースラング?

 日本語は排除される一方かというと、(おこがましくてハッカーとは 名乗らないが)プログラマー連中の日常会話ではそうでもない。ログイ ンするとは言わず、「どこそこのホストに入ってごそごそ作業する」な どと言う。「ネットにつないで、ウェブを散歩して、あちこち覗いて、 面白そうなファイルをいくつか落としてきた」とか「引っ張ってきた」 といった塩梅だ。

 「(なにかデバイスを)叩く」というのはハードウェア屋さんの用語 から来ているのだと思うが、それを拡張して、デバイスドライバなども 「叩い」たりする。ひどい時にはライブラリまで「叩く」。これは誤用 なのだろうけど。

 関数や手続きを「コールする」ことはせず普通は「呼ぶ」とか「呼び 出す」だし、呼ばれた手続きは「リターン」なんて怪しいことはせずに 素直に「返って」くる。ちょっと居住いを正したい場合は「復帰」する。 ソースリストや書類を「印刷」するのはよほど改まった場合で、普段は 「これ、出しておこうか」「うん、出しといて」。

 スラングやジャーゴンの水準になると、日本語に回帰するようなのは 興味深い。カタカナ語がまどろっこしいときもあるのだろう。ただ残念 ながらこうしたことば設計書のようなお固い文書には乗りにくい。

そうはいってもプログラマーは

 頭の中はすでにもはや「コンピューター英語」に毒されているし、さ らには「ハッカー用語」にも毒されているから、実はもう処置なしなの だった。日本語破壊の急先鋒ですらあるかも知れない。

 FTPで転送することを「FTPする」、リモートホストにログインするこ とを「TELNETする」と平気で言う。しかし「インターネットする」とは、 ふつう言わない。TELNETやFTPは同名のコマンドがあるからでもあろう。 アーカイブ(書庫)ユーティリティに tar というのがあるが、アーカ イブに収めることを「tarする」などという。アーカイブを展開するこ とを「tarをほどく」と……言うのはぼくだけか?

(ところでぼくは日米のハッカー語について研究してもおり、ハッカー 語とエスペラントは根底において通じるものがあるのではないかと考え るに至っている(案外まじ)。いつか成果を発表できる……かも知れな い)

 まだこれらを本来のコンピューター用語で使っているのだから、許し ていただきたい。コマンド名を日常会話に〈転用〉してしまうようになっ たら、晴れてハッカーの仲間入りだ(うそ)。「××が見つからない?  右の抽斗の中を ls してみた?」「引越しするんで、今部屋中の荷物 をtarしてgzipしてるんだよ」なんてね。

 コピーする、という正当な語法は用いず、「コピる」と言ったりする (これは一般語かも知れない)。「マシンがハングった」などとも言う 「マシンが固まった」とも言う。(念のため、致命的エラーが発生して うんともすんとも言わなくなったことである)

 マッキントッシュユーザーはファイルを削除することを「ゴミ箱に捨 てる」と言うそうだが(ぼくはそんな言い方をしたことはなかったが)、 これはUNIX屋さんにはない語彙だ。「文化の違い」ということなのだろ う。でもぼくだけかも知れないが、「捨てる」とは時時言う。

 寝起きや疲労で頭が回らないと「クロックが低い(落ちている)」。 一度にいくつかの用事を抱えていると「マルチタスクで動いている」、 そのうちどれかにはまってしまって、別の用事で待っていた人に突っつ かれると「ごめん、マルチタスクっていってもノン・プリエンプティブ だから」。

 用件を後回しにするのは「スタックに積む」または「キューに入れ る」。たくさんの用事がたまって処置なしになると「スタックが溢れ た」。などなど。

 GUIの操作で、ドラッグというのがありますね。あれを、「(アイコ ンなどを)つまんで、引っ張る(とか、動かす、など)」と言 うのは、……これもぼくだけでしょうか?

 ぼくはハッカーコミュニティと呼ばれるような場所にどっぷり浸かっ たことはないのだが、「濃い」人たちはも〜〜っと「濃い」ハッカー会 話を交わしているに違いない。

 考えてみれば(みなくてもそうか)こうした柔軟さも日本語の強力さ だった。てことは、う〜む……




※ここで挙げた〈訳語〉を、実生活でイキナリ使うというわけではあ りません。
※それどころか全然使わないかも知れません。
※送り仮名やカタカナ表記についても、今後はここで記したような〈原則〉 を貫く、と固く決意しているわけでもありません。





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