メイルマガジン

Elfinita en 2000.11.14



 「メイルマガジン」というものを知ったのはきっと1997年とか98年と か、そのあたりだろう。

 胡散臭いと思っていた。購読すれば何をされるか判らないし(笑)、 届いた「雑誌」には不要な「広告」がいっぱい(きっとメイル本文の量 の何倍も)くっついているのだろうと思った。

 メイルに添付される「広告」というのは、いったいどれほど効果があ るのだろう。ボクは殆ど無視している。もちろん、中には興味を惹く名 前や文章もあるけれど、概ね「コレ、自分とは無関係」と一瞬のうちに 判断してすばやくスクロールしてしまう。新聞の折り込み広告に近いも のがあるかも知れない。メイルの広告掲載料の相場がどれほどなのか知 らないけど、読まない人の方が多いんじゃないだろうか。

 四、五ヶ月ほど前のあるとき、友人がとあるメイルマガジンを購読し ていることを知った。日日の芸能関係の話題を集めて発行しているもの らしかった。

 その頃、ボクは新聞代わりに誰か毎日ニュースを届けてくれるといい なと思い始めていて、あてを探していた。その友人が読んでいたものは、 芸能方面に偏ってはいたし素人の発行(つまり然るべき責任を持たない) ではあったけれど、なかなかよさそうな感じがした。どうせ大新聞だっ て百パーセント無条件に信用できるものでもないし。

 ともかく一度試してみようと、URLを教えてもらって利用者登録した。

 そこはメイルマガジンを発行するのを「商売」にしているサイトだっ た。購読者のメイルアドレスが発行者には判らないということを強調し ていた。そのサイトから、頼みもしないのに定期的に、新しく発行され るメイルマガジンの案内が届く。一回の配信量が40キロから50キロバイ トもあるので鬱陶しくもある。断ることもできるようだからさっさと断 ろうと思っていたら、あるとき気づいた。高校生、中学生くらいの若い 人が発行しているものがけっこう多い。それも女子の方が多いようだ。

 ジコケンジヨク、というものは誰にもあるのか。きっと誰にでもある んだろう。誰にでも同じ程度あるのか。判らない。それが一番表に出て くる、つまりジコをケンジしまくりたくってしょうがない時期がいつご ろなのか。人それぞれなんだろう。けれど、確かに十代のある時期って、 「アタシはあたし」「オレはこうなんだ」「こんなこと思ってる」と言 いたくなるもんだ。

 そんなことを思って、ほほえましかった。同時に、自分も歳をとった なあと感じた(笑)。

 そんな欲求に、ワールドワイドウェブは言うまでもなくうってつけだ。 人類がこれほど気楽に気軽にジコをケンジできた時代はかつてない。た だ、ウェブがこんなに普及したのは、単に「誰でも情報を発信できる」 だけが理由じゃないような気もする。ウェブという場でなければ言いた いことも言えないということもあるんじゃないか、なんて感じたりもし ている。

 好奇心が発動して、試しにいくつか購読してみることにした。

 最初はまったく期待していなかった。だいたいこの手の「発行物」は 自己満足に終始するもんだという思い込みがあった。ウェブ自体が壮大 な自己満足の集積だし。で、若い時の自己満足って、歳をとってから振 り返るとすっげー恥ずかしいんだよね。そんなものを読まされると赤面 しちゃうぜ。

 購読してみたら、そーでもなかった。赤面を誘うものもあるけれど、 それよりは微笑ましい。かわゆいんだ。

 ボクがとっているメイルマガジンの発行者にはウェブページも公開し ている人が多く、好奇心ついでにそちらも覗いてみた。もっと微笑まし かった。

 Innocence、ということばを思い出した。

 〈未成年の犯罪〉が話題だ。ちょっと前には〈援助交際〉が話題だっ た(今だって話題なんだろうし、問題なんだろうが)。そのたびに、いっ たいこの国の「若い子たち」はどうなっちまったんだろう、というのが 決まり文句みたいなものだった。子どものありようは社会とか大人とか のありようを反映しているに過ぎない、とは言い過ぎにしても、大いに 影響を受けているのだからそちらに頬かむりをするのは片手落ちだと思 うのだが、まぁともかく、決まり文句みたいなものだった。

 女の子のキモチ(考えてることやりたいことその他いろいろ)、男の 子のきもち(左に同じ)は、N年前とまったく変わっていないんだなと 思った。まったく、は言いすぎかな? でもそんなに大して変わっては いない。このメイルマガジンたちを読むとそう思う。

 もちろん、〈時代〉が違えば〈環境〉も違う。だからまるっきり同じ だなんて言わない。少なくともあの頃の少年少女はコンピューターも持っ ていなかったしワールドワイドウェブもなかった。携帯電話なんか持っ ていなかったしテレフォンクラブもなかった。プレイステーションもカ ラオケボックスもなかった。今みたいに始終何かに押し潰されそうだっ たり押し流されそうだったりはしていなかった。そんな気がする。「若 いこと、幼いこと」は今ほど商品にはなっていなかった。「子どもであ ること」は今ほど軽視されていなかった。世界はもう少しうぶで、もう 少しリアルだった。たぶん。

 もちろん、安直に一般化するのは軽率だし失礼だけれど、「いまどき の男の子女の子はものごころついた時から世間ずれしてて、世間ずれし ていざるを得なくて、子どもじゃいられなくて、早く〈オトナ〉になり たがらざるを得なくて、イロイロたいへんだなぁ」なんて思っていた。

 でも発行者の発言やその掲示板に集う人たちの発言を見ていると、思 うほど変わってはいないんじゃないかと思う。端目に見えるほどには。 外見ほどには。

 ボクが感じたinnocenceは、単に辞書に載っているような純真とか純 情とか潔白とか、そういう全面肯定的な、かくあれかしみたいな、子ど もっていいよねーみたいな、脳天気な意味ばかりではない。もうちょっ と現実的に見えるし、もうちょっと苦い味がするように思う。

 だいたい〈無邪気〉ってなんだろう? 「邪気がない」こと、邪気な さげなのをよしとするのもまた、オトナの一方的な思い込みではないの だろうか? この現実の世界で、その中でじたばたしながら、きれいな こともきたないこともすべてを見つめて、受け止めながら、それでも笑っ ていられることの方が、単に「邪気がない」だけよりずっとステキなん じゃないか?

 そんな、誰かに都合のいいことばかりじゃない別の何かが、そのメイ ルマガジンたちには満ちているような気がした。

 政治について、幼い直感が正直に書かれていて、鋭いなぁと思ったり した。恋愛のことをマジメに語っていたりするのには、よしよしと頷い たりした。なんかニコニコしてきてしまう。自分の人生や将来のことを 真剣に考えているのには正直驚く。ボクが同じくらいの歳にはそんなに 真剣ではなかった(お決まりの台詞)。

 ある発行者のウェブページを見に行って、〈エッセイ〉らしき〈ポエ ム〉((*-_-*))らしき、〈呟き〉らしき〈ためいき〉ら しき〈ちいさな爆発〉らしきものが書きつけてある、そうしたいくつか の文章を読んだら危うく泣きそうになった。

 そうした innocence のために歌い続けるロックンロールの人がいた。 その歌たちを今でも歌えるけど、そのことばたちが向けられていた innocenceのことはしばらく忘れていたような気がする。

 これからも途切れずにジコをケンジしていって欲しい。この世界で へこたれずにジコをケンジし続けるのはとてもエネルギーの要る、とて も大変なことだから。(ルーズソックスとかは、単なる流行ではなくて、 別種の〈制服〉なんじゃないかと感じている)

 そして願わくは発行者たちの今のその気持が10年後もどこかに残って いますように。20年後もメイルマガジンなりウェブページを続けていら れますように。彼らがいつか後で読み返して「ふっ、こん時ゃ若かった ぜ」「この頃はまだまだガキだったな」「莫迦みたい」「やーねぇ」な んて鼻で笑うことのありませんように。

 なんて、メイルマガジン発行者の少年少女たちがボクのこんなページ を見るとも思えないけれど、ともかくことばにしておきたいと思っちゃ いました。


(う〜む。“ボクも大人になった”……?)






目次へ


(C) Copyright nulpleno. All rights reserved.