「世紀末」の年の瀬

Elfinita en 2000.12.20



 だからって特に何も感じません。

 で終わっては身も蓋もない。

 百年に一度のことでもあるし、そこに居合わせているのも何かの縁(?) だろうから、何か書いておこう。

 「年の瀬」――なのだけど、この十年と変わらず、今年も、年の瀬の 気分がない。仕事場は相変わらずせわしない。街は今のところクリスマ スモードで、正月モードに入るのは最後の一週間。新世紀が来ようが来 るまいが、世界の終わりが来ようが来るまいが、毎日の暮らしは続いて いく。



 ぼくもそうだからもう誰の記憶からも薄れていると思うのだが、去年 の今ごろは「新・千年紀」でえらい騒ぎだった。アレは何だったのでしょ う。

 「2000年問題(Y2K)騒ぎ」というのもあって、これはそれなりに根 拠のある話だったけど――でも「心臓のペースメーカーが誤作動する」 というのは行き過ぎだったよな――、日本に「ミレニアム」と真剣に関 係ある人が何人いたのか。

 そういえば、世紀末なんて騒いでいたのも去年までで、今年に入った らすっかりなりを潜めた。今年の真の「流行語大賞」は〈今世紀最後の〉 だろうが、世紀末の薄暗くいかがわしくやるせなく混沌としたイメージ はどこへやら。まぁ今ごろ「世紀末」なんて騒いでも当たり前すぎて面 白くはないし、騒いだところで遅すぎるし、その上あと一年もしないう ちに新世紀が来ちゃう。それじゃー誰も何も言わなくなるか。

 去年までは「新世紀は二〇〇〇年から始まるんだ」などという意見(?) もあったと記憶しているが、いつの間にやらみんなして「今世紀最後の」 なんて言っている。ぼくは「来年(つまり2000年)になったら『二十一 世紀の始まりは二〇〇一年から』なんて言い出すよ」と言っていたのだ が、本当にそうなった。

 百年前、二十世紀になるときにも、一九〇〇年からなのか一九〇一年 からなのか揉めたらしいが、これは議論するまでもない。西暦の紀元が 一年だから、世紀の終わりは一〇〇で割り切れる年でなければ計算が合 わない。同じ理屈で千年紀もやはり「1から始まって0で終わる」だと思 うのだけれど、どーして二〇〇〇年が「新・千年紀の始まり」に認定さ れたのか判らない。まぁ千年前はこんな騒ぎもなかったに違いないから、 どこかで有耶無耶になったのかも知れない。

 だいたい、今の西暦というのが使われ始めたのは三世紀だか四世紀だ かかららしくて、つまり、紀元一年と定めた年(イエスが生まれた年だっ け、死んだ年だっけ……非キリスト教徒の西暦の認識なんてこの程度) に「今年から数え始めるからね。よろしくー」なんてお触れがでたわけ でもない。「今年が紀元二百何年だか三百何年だかってことにしよう。 だから逆算すると、この年が紀元一年ね」てなもんだ(わざといい加減 風に書いていますが、当時のローマ教会(四世紀にはまだ東西に分裂し ていなかった気がする)がこんな風に決めたのかどうかは知りません)。

 そもそもこの「西暦」というのはキリスト教世界の産物に過ぎず、言っ てしまえば「フィクション」であって、非キリスト教の人間には目安以 上の意味はない。今回のミレニアム騒ぎ、新世紀騒ぎをユダヤ教やイス ラム教、ヒンドゥー教や仏教なんかの関係者たちは冷やかに見ているだ ろうし、見ていなければなんかおかしい気がする。もっとも日本人のよ うに「単なるお祭り」で騒ぐというのはあるかも知れない。

 「西暦」がフィクションである以上、「新・千年紀」とか「新世紀」 というのは二重のフィクションだ。

 いずれにしろ、百年前千年前は知らないが、今回のこの騒ぎはどちら かといえば商業上の理由で騒いでいるわけで、千年紀の始まりと世紀の 始まりとで一年ずれたのは、「千年に一度のことと百年に一度のことが 同じ年にぶつかるんじゃ潰し合いだ。二年に分けて景気を刺激しよう」 といった思惑なのかも知れない。

 といってまったく何も感じないことはなく、だからこんな一文を草し ているのだが、だからといって必要以上の思い入れを抱くこともない。 もう、N年前じゃない。



 ぼくが子どもの頃は、まだ「二十一世紀はこうなる」みたいなお気楽 な夢がまかり通っていた。少年雑誌はもちろんのこと、マンガ週刊誌に さえ、「未来の世界」などという独特のイラストつきの特集が組まれて いたように思う。

 どんな夢が描かれていたのかは、今はもう殆ど忘れてしまった。非現 実的なもの(子ども心にそう思ったかどうかは定かでない)もあれば、 近未来予測めいたものもあった。記憶にあるのを挙げてみると……

  1. 東京都郊外を環状の高速鉄道が走る。これと幹線は効率よく接続し ており、東京都郊外から都心までN分で行くことができる……
  2. 地上何百メートル(キロだったかな)、何百階建ての超高層建築が 地球上をくまなく覆い尽くす……
  3. もちろん宇宙旅行、電気自動車、動く歩道などは定番だった。と思う。

 「科学といえども万能ではない」「科学を過信してはいけない」とい うのはここ二十年くらいの風潮で、それ以前はまだカガクというものが 無邪気に信じられていたのではないだろうか。新世紀にはもっと便利に なる、もっと快適になると思って、せっせと夢を育てていた。あるいは それは「子ども向け雑誌」の世界で閉じたものだったのか。ともあれ 「二〇〇一年」という響きは子どもにも憧れで、いや憧れだったかどう か確かではないけれどそれなりに印象深い数字で、「二〇〇一年にはN 歳なのかあ。その頃の自分はどーなってるんだろ」などと思った憶えは ある。ごめん、こんな人間になってます >当時の自分

 直接の「夢」ではないものの、描かれた夢たちには『2001年宇宙の旅』 なんてのがあった。まだ、HALは生まれていない(生まれて欲しくもな いけど)。こうした夢たちは、「夢」が現実の形をとるにつれて、もう 無邪気には見られない。別の夢を見るんだろうけど、ちょっとかなしい。

 さて、当時の「夢」を醒めたオトナ(笑)の目で振り返ってみると、 いくつかは曲がりなりにも実現している、あるいはしつつある。それに ついてはここで取り上げるにも及ばない。

 自動車メーカーや電子機器メーカーがロボットを試作したり発表した りしているが、あれを見て、ここまで来たかと思ったオトナは多いんじゃ ないだろうか(今の子どもたちにはどう映っているんだろう)。昔には、 「人型ロボットは無理(ないし、非現実的)。殆どの動物がそうである ように多足歩行ロボットが安定性から見て一番」と言われていたものだ。

 今でもアレを見て「無理して(?)人型にする必要はあるんだろーか」 とぼくは思うが、これで開発された技術は別にロボットにだけ通用する ものではなく、他のどんな分野に転用できるか判らないから、一概に 「不要」「無駄」「やりすぎ」とも言えない。特に福祉分野(障碍者、 高齢者の補助器具など)には有用かも知れない。
 そうでなくたって、たしかあと三年で鉄腕アトムが生まれる。そのた めには遅くとも今年当たりには人型ロボットが実現できていなければな らないわけで、それが開発した技術者たちのインセンティブ、ドライビ ングフォースだったのかも知れないな。

 「世界中の電子計算機がひとつに結ばれる」という予想があったかど うか憶えていないが(SFの世界だったかも)、これがTCP/IPネットワー クとワールドワイドウェブによって〈実現〉されたのはご存知のとおり。 これが夢のとおりの姿なのか判らないものの、〈現実的な解法〉の結果 ではある。幸か不幸か、現在は「つなぎにいけば、つながる」で、「四 六時中勝手につながっている」ではない(ぼくは「幸」だと思っている)。 現在のようなどちらかといえばヒドラ型のネットワークというのも「夢」 とは違っている。これもぼくには「幸」の方だ。

 それにしてもこんなにたくさんのコンピューターがあっという間に世 界中にばらまかれるとは誰も思わなかったに違いない。それどころか、 時代はあっという間に「携帯端末」に傾斜しつつあって、今あるパーソ ナルコンピューターはじきに主役の座を追われるとまで言われている。 これはウレシクナイ。

 携帯電話を装った汎用コンピューター、というのはいいアイデアでは あるだろうが、文字入力(日本人には特に日本語入力)が難点で、入力 デバイスの課題を抱えたまま端末の普及だけが進んでいるように見える。 研究開発はされているのだろうが、現在の端末にどのように適用されて いくのやら。

 小さいからといって表示能力が落ちてはいけない。愛モ○ドにしろ維 持ウ○ブにしろいわゆるPDA(携帯情報端末)にしろ、今のところ日本 語しか表示できないのではないだろうか? ハングルやフランス語やポ ルトガル語も表示できないと困る人たちがきっと出てくる。でも今の 「携帯端末」たちは必要に応じてフォントをインストールできる仕組に はなっていないと見える。この点、汎用パーソナルコンピューターの融 通性は捨てられない。まぁ、携帯端末たちもいずれは〈国際化〉してい くんだろうけどね。



 「便利になっていく」というのは、どんなものだったのだろう。

 今はITということばに完全にとって代わられたけれど、その前は 「OA(オフィス・オートメーション)」が合いことばで、電子機器を 導入することで会社の事務効率を高めようと言われていた。コピア、ワー ドプロセッサ専用機、ファイリング装置、オフィスコンピューターやパー ソナルコンピューターなど……要するに事務機器メーカーの商魂なのだ が(それを言ったら身も蓋もないが)、こういうもので何がどれほど高 まったのやら。また、効率を高めることと引き替えに何を失ったのやら。

 便利になったのは確か、だろう。今のような光学式コピアが出る前は、 「青焼き」という方式が主流だったそうだが(知らないのです、その頃 の世界を、もはや)、伝え聞くそれに比べれば今は遥かに便利だと思う。 そして今やご家庭にもファクシミリ/コピア兼用機が入り込んでいる。

 でもそういうものたちのおかげで、かつての夢が吹聴していたように 「人間が『雑用』から解放」されて自分の仕事にのんびり打ち込めるよ うになったかというと、全然そうはなっていない。どころか、ますます 何かに追い立てらた気分で働いている。

 ワードプロセッサーのおかげで文書を作成し印刷し配布するのは驚異 的に簡単になったが、今度はこれまで「これ打っておいて」と言って済 ましていられた偉い人たちが自分で文書を作らなければならなくなった。 そうでなくとも、「きれいな文書」を手軽に作れるようになったために 今度は「プレゼンテーション能力」が問われたりし始めた。

 OAには、電子化することで紙の消費を抑えるという宣伝文句もあっ た筈だが、抑えられるどころかますます紙を消費している。かつては無 駄使いしようにもそうそうできなかった(と思われる)のが、今は気軽 に「試し打ち」できるからだ。それで今度は「地球の資源を守ろう」な んて言っている。

 事務所での紙の消費も凄いけれど、本屋のコンピューター関連書籍の 多さはどうだろう。しかもその大半がマニュアル本、解説本だ。それら の紙がどういう素性のものか知らないが、「コンピューターのせいで森 林資源を破壊している」などということになったら、皮肉もいいところ だ。

 人類が初めて出くわす道具であり媒体でありおもちゃだから、「ちょ→ 巨大なビジネスチャンス」でもある。出版業界だけが「紙の無駄使いは できない」といって傍観する筈がない。競って類書を出す。似たような 本、一度目を通せば二度は読まないような本が氾濫する。シホンシュギ、 シジョウケイザイってのは資源が無尽蔵にあるという仮定の下でのみ機 能するんじゃないのか、とぼんやり思ったりする。

 もっともそれで紙の再生利用の技術が進んだりする面もある。何がよ くて何が悪いのか判らない。

 コンピューター産業の世界には「CPUの処理速度が上がれば上がるほ ど、主記憶容量が増えれば増えるほど、プログラムに対する要求は多く なる」という〈法則〉があるけれど、それはそのまま「ビジネス社会」 に当てはまりそうだ。電子機器に囲まれて働く人たちに、心の休まる暇 はないのではないかとさえ思える。

 その最たるものはわれらがプログラマー、「システムエンジニア」、 ソフトウェア開発関係者たちといっても言い過ぎではないだろう。言い 過ぎだったらごめんなさい。

 この分野はいつの間にやら生き馬の目を抜く世界であって、いやそれ はビジネスならどこでもいつでもそうなのだろうから、「生き馬の目を 抜きまくる」というか「生きに生きている馬であれ牛であれ何であれ、 目にしろ歯にしろ何にしろ抜きに抜きまくる」くらい言った方がいいか も知れないが、のんびり作っていたら競合他社に遅れをとる。自分たち はじっくりやりたくてもお客さんが生き馬の目を抜きたがる。そうして 納期がどんんどん短くなる。最近では開発期間三ヶ月という話が多いそ うだ。コーディングで、ではない。基本デザインを始めてから納品まで だ。短い期間を補うために人を投入するのだろう。しかし、「期間と人 数は反比例しない」というのはソフトウェア工学の基本定理なのだ。そ して「プロジェクトの人数とプロジェクトが火を噴く可能性は正比例す る」。

 かくして、ぼくの知合いの多くは殺人的な計画(それが計画と呼べる ならば)に呑み込まれて、ただもう時間に追われる日日を過ごしている。 もしかしたら経営者は社員を殺そうと思ってやっているのではないかと 思いたくなるくらいだ。

 筒井康隆の掌篇に、世紀の終わりに近づくにつれ、時の流れが加速し ていく。一日が数時間(変な表現だが、そうとしか言えないほど)にな り、数分になり、数秒になる。そして……という話があった。

 まさにそんな感じで加速して行っているようで、二〇〇一年一月一日が ちょっと怖かったりする。(笑)

 でも、世紀が替わる時、それに合わせて世界もいっそすっぱり生まれ 変わったらいいのかも知れないな、なんてこともぼんやり思う。

 いやいや、そんなにきれいに変わっちゃいけない。そんなに都合よく いってしまっては、誰も何も反省する気にならない。



 ある中学生が言うことには、「私立から公立に転校したけど、どっち にしても学校なんて信用できない。学校なんて誰も必要としていない」 だそうだ。

 十四、五歳の人間にそんなことを思わせ、言わせてしまう〈システム〉 とは一体なんなのか(秘かに思っていることはあるけれど、ここでは言 わない)。少なくとも、そんな〈システム〉はどこかしら何かしら狂っ ているに違いないし、デバッグのしようがないほど狂ったシステムなら 壊して創り直した方がましだってことだ。

 壊れたシステムを拒むのは当然の心情だと思う。どんな系の中であれ 「うまくやっていける」のは悪いことではないけれど、「うまくやってい け」ればいいというものでもないし、「うまくやっていけ」ない からダメだなどと誰に言えるのか。本当に問題なのはドロップアウトす る側ではなくて系の中に取り残された方かも知れないと思っていたら、 「十七歳の犯罪、しかもそれまでは優等生のいい子の」が多発した。 (これはちょっときれいすぎ。そんなにはっきり予見していたわけじゃ ない、もちろん)

 この国のあちこちが壊れている、と感じる時がある。そして恐らく世 界のあちこちも。十年前、「世界中のあちこちに袋小路」ということば を吐いた人がいたが、袋小路の数はそんなに変わっていないか、むしろ 増えたのだろうし、息のつまり具合は悪化している。たぶん。

 そんな中で、でも中学生ともなれば異性のことが気になったり、「英 語を勉強して留学するんだ!」なんて決意したりしながら生きてるし、 高校生は高校生で自分の本当の気持を見つけて(よかったね)遠回りに なっちゃったけど決めた道を歩こうとする人もいる。

 当たり前のような顔をしながらつまらない大人になって欲しくはない。



 それでも(何が「それでも」だ?)――

 年の始めに見る星空は地上のすべてを一瞬忘れるほどきれいだ。自分 の故郷が田舎でよかったと思う。この時はいつもいろんなことを考える。

 山積する問題が、ただの一刹那でもすべて解決したことなどない。問 題をあちこちに抱えながらひとつひとつ解決したり却って悪化させたり しながらみんなして地球の上に這いつくばっている。それが現実。それ が人間ってやつだ。

 年が変わったからと言って何かが改まる筈はない。世紀が変わったく らいで今までうまく行かなかったものがうまく行くわけがない。

 世界中の人人にとって意味のある年を紀元と定めてそこから数えて何 年、とするには、まだぼくたちは幼いらしい。

 というとってもあったりまえのことをもう一度確認した上で、少しは 幸せな夢でも見よう。少しくらいは見たっていいだろう。





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