詭弁の世界



ある日の新聞から

 「詭弁」とは、清水新国語辞典(「光の辞典」版)によれば、「道理 に合わないことを、いかにも合っているようにことばたくみに言い含め ること。こじつけの論」という意味である。これだけでは悪い意味しか ない。そんなに単純でもないし簡単に片づけられるものではないという ことを、阿刀田高は語っている。

 2001年2月18日付読売新聞に、つぎのような文章ないし発言が載って いた(著作権侵害の意図はないので、何か問題があったらご指摘くださ い)。

  1. 明快でないものはフランス語ではないということばがあるくらい、 西洋のことばは明快である。そして西洋では文法の次に重要とされ るのが論理学であるように、彼らのことばは論理的である。 (なかにし礼)
  2. (日本の水産実習船がアメリカの原子力潜水艦に衝突されて沈没し た事故で)これを首相の責任というのは、子どもが放課後家の外で 遊んでいる最中の事故を、親が「学校の責任」というようなもの。 すべて首相の責任と言うのはおかしい。(ある与党国会議員)

 一番目は家庭欄の随筆であり、二番目は政治欄の記事である。一番目 は他愛もなく埓もない〈疑似論証〉の中でのものだが、二番目はそうと う意図的と思われても仕方のない、「悪意の詭弁」である。

不明晰で非論理的で対人関係に疲れるから肩が凝るんだ

 「明晰でないものはフランス語的ではない」と言ったのは、たしかデ カルトではなかったかと思うが(いちおうフランス語を勉強したくせに このていたらく)、フランス語が明晰一直線の言語、明晰でしかあり得 ない言語、曖昧模糊と不明とを纏おうとしても否が応でも明晰になって しまう言語かというとそんなことはなく、フランス語で論旨不明瞭意味 不明確の文章を作るのはたやすい話だし、フランスにも幻想小説や論理 の飛躍を楽しむ小説はたくさんある。だいたい「明晰でないものは……」 という発言はどちらかと言えば理念とか理想、つまり「かくあれかし」 という意味に解釈されるべきではないのだろうか。「『明晰でないもの はフランス語的でない』という発言があるから、フランス語は明晰な言 語なのだ」という〈主張〉を読むと、「『健全なる精神は健全なる肉体 に宿る』だぁっ」とか叫んで生徒をしごいた戦前の教師を思い起こして しまう(いや、ぼくがそういう教師を見知っているわけではありません が……現在でも似たようなことはあるのかな? あって欲しくないけど……)

 西洋にはフランス語でない言語がたくさんある。イタリア語、スペイ ン語、ポルトガル語、ドイツ語、オランダ語、ハンガリー語、ノルウェ イ語、フィンランド語、スウェーデン語、などなど。仮にフランス語が 事実明晰な言語だとしても、自動的にこれらの「西洋のことば」が軒並 「明晰」である証拠にはならないのではないか。

 「文法の次に論理学が重視されるから、彼らのことばは論理的」とい うのはどういうことなのか。(1) 西洋人が用いている言語は論理的な言 語、なのか? (2) 西洋人の発話や文章は論理的、なのか? 前者だと すると、「わざわざ論理学の力を借りなければ論理を表せないのだから、 西洋の言語自体は非論理的な言語だ」ということが言える。だから「論 理学が重視されるから彼らのことばは論理的」というのはおかしい。後 者だとすると、論理的であるかないかは発話者個個の能力の問題であっ て、言語に帰する問題ではないことになる。だから「彼らのことばは論 理的」というのはおかしい。いずれの仮定からも矛盾が引き出せるとい うことは、背理法により、最初の命題が偽であるということだ。

 この文章の主題は「〈日本人は肩が凝る〉のはなぜか」ということで、 それを巡って(きっと承知の上で)非論理的な推論を展開しているのだ から、目くじらを立てるのは大人げない。が、非論理的な随想だから何 を言ってもいいというものではあるまい(この文章は、〈肩凝り〉を外 せば、「日本語否定論」「西洋語崇拝論」の骨格そのものになる)。 先の〈主張〉に続けて、「しかも、西洋のことばでは一人称代名詞も二 人称代名詞も一種類ずつしかないが、日本語にはそれぞれ何種類もある。 日本人は非論理な言語を操り、対人関係に配慮しながら生きている。だ から〈肩が凝る〉のだ」とくる。

 「詭弁」とは、たとえば、こういうものです。自分に都合がいいよう に〈事実〉をねじ曲げたり隠したり、事実でないことを事実であるかの ように主張したり、(一部または全部を)隠したり論点をずらしたりす る論法を、大きく「詭弁」という。阿刀田高氏によれば、「発話者に騙 す意志があるかないかは大きな問題ではない」という。「人間には誰し も自分の『思いたい』方向でものを考える癖があるし、自分の立場を 『守りたい』方向でものを眺める癖があるから」という。

 この文章は「英語やフランス語には肩が〈凝る〉という表現はない。 それはなぜか」というところから、言語の〈明晰さ〉や〈論理性〉とい うことを持ち出してくるのだけれど、ほかの言語には〈肩が凝る〉とい う言い回しはあるのだろうか。あるのだとすれば、その言語はやはり非 論理的で明晰さに欠け、その言語を用いる人たちは対人関係で神経をす り減らしながら暮らしているのだろうか。〈肩が凝る〉という表現を持 たない言語はみな明晰で論理的なのだろうか。

 と、〈論理的に〉反論しようと思えばいくらでも隙が見えてくる。そ の点、(本題の罪のなさと合わせて)かわいらしい詭弁である。かわい らしいのはけっこうだが、何も〈肩凝り〉のために日本語を「不明晰で 非論理的な言語」に仕立てなくてもいいのに。

親の責任だから総理大臣は悪くないんだ

 二番目の例はたちが悪い。

 2001年2月10日、日本の水産実習船「えひめ丸」が、ハワイ・オアフ 島沖で、急浮上してきたアメリカ合衆国の原子力潜水艦に衝突されて沈 没、高校生と乗組員九名が行方不明になった。18日現在、不明のままで ある。

 この知らせを受けた時、日本国総理大臣は、ゴルフ場にいてゴルフを 楽しんでいる最中だったそうだ。急遽ゴルフを中止し休暇を切り上げて 首相官邸に赴き事後対応の陣頭指揮をとったかというととらず、しばらく ゴルフを続けていたという。この首相の振舞を巡って野党が噛みつくは 連立与党の内部からも批判が表に出るはで、政局は一挙に揺れ動くこと となった(ま、他にもいろんな問題が絡んでいたのですが)。

 この出来事を巡って、「危機管理」ということばが使われている(六 年前の阪神大震災以来、日本のマスコミは「危機管理」ということばが 好きのようである)。こういう事態とそれへの対応を「危機管理」と呼 ぶのかどうか、今のぼくには何とも言えない。「責任がある/ない」( 大体、何についての?)という話とはまったく別のこととして、自国民 が他国の国家権力の体現たる軍隊によって生命の危険に曝された時に (それも公海上ではなかったっけ)、国家元首としてどう振舞うべきか という問題だろうと思う。

 与党野党とも公然と首相交代を口にし始めた中での 与党議員の発言なのだが、これは典型的な「すり替え型詭弁」といっ ていい。ここには〈見立て〉の構造があるが、これを明示してみると:

与党議員の発言(たとえ) 現実の事件
子どもが放課後外で遊んでいる とある高校の、日本領海から出ての水産実習?
学校 首相?
?(国民?)

 まず疑問なのは、たとえでの〈親〉に対応するものが、現実の事故で はあきらかでない。ということは、この対応関係は比喩として成り 立つのかどうかきわめて疑わしい。子どもをとりまく親と学校との 関係もなかなかにフクザツな問題があるものだけれども、それを無邪気 に(無邪気じゃ済まないんだけど)国民をとりまく〈何か〉(たとえか らでは判らない)と国家との関係に置き換えていいのか。

 この〈比喩もどき〉が成り立たないのは、もうひとつ大きな枠組があ ることを思い出せば自明だ。つまり、「自国民が他国の国家権力に生命 を奪われた」という、国家間の枠組である。それを踏まえてたとえを組 み立て直せば、「自分の子どもが殺された時、親はどうするか」 とか、あるいは「自分の学校が他の学校の人間に荒された時、 教師(校長かな)はどうするか」という方が適切ではないか。もち ろんここでの〈親〉や〈教師(校長かな)〉が日本国総理大臣に相当す る。であれば、最初のたとえをそのまま使ったっていい。最初のたとえ でも日本国総理大臣は〈親〉なのであって、〈学校〉ではない。「学校 の責任だ」とわめいている〈親〉が国家元首そのものなのだ(現実と一 致する見事な比喩でふね)。

ところで、日本の国家元首は総理大臣で、いいんですよね?

 子どもが生命を脅かされた時に知らん顔をする親と同じく、自国民が 生命を脅かされた時に知らん顔をする国家元首もヒドイものだと思う。―― が、それはこの文章でツイキュウすることではありませんでした。 (「ちゃんと指揮をとっていた」という話もあるけれど、ちゃんと指揮 をとるのは当たり前で、指揮をとっているからいいというものでもない。 自分の振舞いが国民にどう見えるかを気にかけるのも為政者には欠かせ ない任務であり、資質であるということは、塩野七生の『ローマ人の物 語』を読めば誰にでも判る)

 この手の詭弁は本人が心底信じ込んでいることがあって、そうなると 始末におえない。その意味でもたちの悪い詭弁だと思うが、これが発言 に影響力がありそうな政治家――内閣官房長官はじめ政府閣僚とか、与 党幹事長その他重役とか、党内の実力者とか――の口から出たのでない のは幸いだった。

久しぶりにタンノウしました

 詭弁というもの、あるいは詭弁ということに興味を持ったのは、 阿刀田高『詭弁の話術』(KKベストセラーズ・ワニ 文庫、ISBN4-584-30001-1)に出会った時だった。この本は「詭弁 必ずしも〈悪〉ならず」と言う。その理由は、人間のものの見方考え方 がそもそも詭弁的なバイアスがかかっているからだという。またぼくの 観察によれば、自然言語(というか、人間の言語活動、かな)自体がそ もそも詭弁的だ。

 詭弁を勉強して詭弁攻撃から危うく身を守ったり自らも詭弁を駆使し て世を渡るようになったかというとそんなことはなく、割と縁は薄い方 だったと思う。コンピュータープログラミングに関わるようになってか らはなおさらだった。この世界では「厳密な論理」が命なので、詭弁な どを弄する余地がない(ソフトウェアデザインや実装レベルの話です。 要件定義とか顧客との交渉とかはこの限りではアリマセン)。

 と思っていたらどっこい、まさにその「論理」こそがパラドックスや 詭弁を導き出すのだと知って興味深かった。『詭弁の話術』が文筆家か ら見た詭弁の考察であるとするなら、野崎昭弘『詭弁論理学』(中公新 書、ISBN4-12-100448-5)は数学者による詭弁の考察と言えるかも知れ ない。いわゆる「パラドックス」についても述べられている。ま、詭弁 と論理学は双子の姉妹のようなものだ。一方だけ知って他方は知らずに 済ますわけにはいかないだろうし、一方を知れば他方にも通じているし、 両方知ればなおよろしい。

 ともあれ、ずいぶんひさしぶりに判りやすい詭弁に出会った気がする。 もちろん、人の間で暮らしている以上あちこちで大小軽重取り混ぜて詭 弁が飛び交っているのだから、ぼく自身ずいぶん詭弁に曝されてきたに は違いないし、世の中にはもっとたちの悪い詭弁がまかり通っているに も違いない。

 阿刀田高にならって、ぼくも、詭弁を一方的に「悪い」と決めつける 気はない。だからといって「詭弁万歳!」と叫ぶ気もない。目の前で詭 弁が使われていて、それが自分にとって気に入らない方向に使われてい るなら、そのこと自体に異は唱えずとも、「ここに詭弁があるぞ」くら いは言わせてもらおう。

 繰り返すがぼくは詭弁が嫌いではないし、詭弁必ずしも悪とは思わな いし、自分は詭弁なんて使わないなどと(詭弁以前の嘘を)言うつもり もない。その証拠にほら、この文章にもあちこちに詭弁が隠れています。 (^^)


(おわり ―― 2001.02.18)





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