「辛口」は何のために?



のっけから脇道に逸れる

 実は、サッカーが好きである。

 といっても、何十年もファンだというほどスジガネ入りではないし、 熱狂的でもないと思う。興味を持ったのは(ご多聞に洩れず)Jリーグ からだ。

 もともとはラグビーが好きで、1991年の日本対スコットランド戦には 狂喜した(日本がIRB(International Rugby Board)加盟国に初めて勝利 したのだ)。しかし、その後ラグビーはどんどんつまらなくなっていっ た。思うにサッカーの真似をしてワールドカップなんか開いたからに違 いない。

 それは時代の流れだったのだろう。英国生まれの他のスポーツの例に 洩れず、英国4協会(イングランド、スコットランド、ウェールズ、ア イルランド)はずっと「ラグビーはうちらが一番なんだもんね」という 態度をとってきた。その当時(1980年代半ば)でさえ、南半球の強豪国 (ニュージーランド、オーストラリア)の方が実力は上だと言われて久 しかったが、いかんせん、当時は誰が世界一かを誰の目にも判る形で決 定することはできなかった。ラグビーではナショナルチームどうしの試 合を「テストマッチ」というが、テストマッチは当該国のどちらかの主 権地域内で行なわれなければならないとされていた。南半球の強豪はこ れに不満で、強硬に主張して規則を改正し、ワールドカップが始まった。

 いったん「世界大会」が始まってしまえば、今度はそれが各国の(特 に強豪国の)目標になる。優勝できる力があるなら優勝したいし、その 可能性はできるだけ高めたい。そんなことから(だろうと思う)、ラグ ビーはプロ化に向かっていった。まぁ、もともと20世紀の後半にもなっ てストイックなほどのアマチュアリズムを守ろうとしていたこと自体、 時代錯誤だったのかも知れない(一部の国では既に、たとえば国外遠征 時の日当などは支給されていたようだ)。でもぼくはラグビーのアマチュ アリズムが大好きだった。それはラグビーというストイックなスポーツ によく合っているように思えた。

 プロ化に歩調を合わせるかのように、ルールもどんどん改定されていっ た。攻撃側が有利になるようになるようにと改定された。確かに、ひと ころ、「最近のラグビーはペナルティゴールが多すぎる。勝利に拘って トライの面白さが軽視されている」と言われたものだ。しかし一連のルー ル改正は、ぼくの目には、ラグビーの醍醐味を殺すように見えた。いい 例がタックルだ。昔はタックルで倒されると(ほぼ)同時にボールを離さ なければならず、タックルの瞬間に攻守が交代する光景もよく見られた。 タックルは「守備側に許された唯一の攻撃手段」とも言われていた。が、 ルールが変わってかなり長い間ボールを保持していてもよくなった。つ まり、倒すタックルに意義がなくなってしまい、今では単に相手の前進 を止める目的のタックルが増えてしまった。

 えーと、この文章のテーマはなんだっけ? そうそう、そんな時の流 れでぼくはラグビーの熱が引き、ちょうどそれと反比例するような形で サッカーが人気を集めるようになり、ぼくも興味を持ったというわけだ。 大して詳しいわけでもないし、それほど熱中しているわけでもないし、 他にも書きたいことがあるので、ウェブページにサッカーのコーナーを 設けるには至っていない。(でも最近ではついに自らプレーするように なってしまったので、サッカーコーナーができるのも遠い日ではないか も知れない)

「辛口」な人人

 いろんな試合や論評を見るうちに見る目ができてきたような気がする。 「できてきたような気がするような気がする」だけかも知れないけど。

 サッカーを観ていると、あるフシギなことに気がつく。

 この世界には〈辛口評論家〉というのがいて、スポーツ新聞やテレビ 中継に出没して、俗に「辛口」と呼ばれるある種の発言をしている。そ の時々のサッカーの試合(とりわけ日本代表の試合)に、選手に、監督 に、「キビシイ批評」をくだす。

 サッカーに興味を持った最初の頃は、こうした論評にもふんふんと頷 いていたが、じきに何か嫌気がさし、数年前に「なんだこいつら単に人 のすることに難癖つけてるだけじゃん」と見切ってしまった。

「辛口」ウォッチ・たとえばコンフェデレーションズカップ

 今年、2001年5月30日から6月10日まで、コンフェデレーションズカッ プという国際大会が韓国と日本で開催されている。

 直近に行なわれた各大陸の選手権優勝国が集まって競う大会で、今回 は2002年ワールドカップのリハーサルという位置づけでもある。ワール ドカップ開催国である韓国と日本も参加している(日本は昨年のアジア カップ優勝者なので、それでなくとも参加資格がある)。このコンフェ デレーションズカップは、韓国と日本にとっては本大会前の最後の「真 剣勝負の場」と言われている(開催国は無条件で本大会に出場できる半 面、厳しい地区予選を経験できない)。

 日本はB組に入り、一次リーグ緒戦カナダ戦を3対0で勝ち、6月2日、 カメルーンに2対0で完勝した。日本はアフリカ勢を苦手としてきたが、 この日は個個の選手のプレーといいチームとしての闘い方といい采配と いい、文句のつけようがなかった。フィールドには、ほんの4年前、 「一点を先制しただけでパニックを起こす」と評されたナイーブな日本 代表の姿はなかった。押し込まれる時間帯があるのはいつものことだっ たが、それでも慌てなかった。

 ぼくは大いに満足したが、ちらっと、「でも明日のスポーツ新聞には また〈辛口批評〉が載るんだろうな」と思った。

 翌日スポーツ新聞を見てみると、案の定、載ってた載ってた。試合自 体は申し分のないものだったので、それは褒めている。采配も、初めて 先発に抜擢され2得点を挙げたフォワード鈴木隆行も褒めている。当た り前である。

 が、「内容を見てみると」と、〈辛口批評〉が始まる。「これまでも 日本はホームでなら相手の調子次第でいい試合をできていた」という。 「チームが固定していない」「試合ごとにメンバーが変わるようでは心 許ない。今日の鈴木にしても、なぜこれまで使わなかったのかという疑 問も生じる」「トルシエ就任一年目なら判るが、本大会まであと一年な のに、シード国らしい完成度、安定度が感じられない」のだそうだ。

 相手の調子が悪ければよい試合ができるのも道理だが、勝ったのは相 手の調子が悪かったからだとする論調はどんなものだろう。反現実的な 仮定をしても意味がないのではないか。絶好調のカメルーン相手にこん なによい試合はできないのかも知れないが、それはやってみなければ判 らない。それに、この〈辛口批評家〉氏はこれまでも常常「もっとさま ざまな選手を試せ」と言ってきた人ではなかったか。最近の言動はもう 読む気もしないから知らないけれど、4年ほど前にはしょっちゅう言っ ていたのではないか。「チームづくりを始めてもう3年も経つのだから」 と言い訳をしているが、一方でこの〈批評家〉氏は「代表に選んだのな ら試合で使え」と口ぐせのように言っていたのではなかったか。まさに 今回はそのとおりになったのだが、そのことは評価するべきではないの か。

 この試合はトルシエ監督としては慣れた布陣で臨んでいる。日本には 怖い怖いカメルーン相手に3-5-2のシフトをしいたので、ぼくは「おぅ おぅ、スペイン戦では専守防衛にしたけど、ずっとアレで行くんじゃな くて、攻撃を組み立て直す意志はあるんだな」と確認できてうれしかっ た(カナダ戦でも、前半のうちに攻撃的な選手交代をした。あれは「攻 めろ、点をとりに行け」という檄に見えた)。最終ラインは相も変わら ぬフラットスリーだし、その顔ぶれは松田、森岡、中田浩二という、 「トルシエの子どもたち」だ。ミッドフィールダーは稲本、戸田、明神、 小野、中田、フォワードに西澤と鈴木。この中で新しい顔といえるのは 戸田と鈴木であり、いつもとポジションが違うのは小野くらいだ。名波 も中村俊輔も怪我で不在ではこういう陣容になるのも仕方ないと思う。

 新鮮な戦力を起用するのはチームを活性化するには大事なことだろう し、主力が不在の時にどう闘うかを経験しておくことも必要だし、起用 された選手にとっては自分を売り込むいい機会になる。システムがうま く機能しているなら、どんな選手が入ってもそのシステムにうまく融け 込んで期待される働きをできるべきだしできればいいという考えもある わけで、そうであるなら、いま顔ぶれを固定させる必要はないとも言え る。そしてそのとおりになっているように見える(トルシエのシステム に対する評価は別としてだ)。選手層は厚くなったように思うのだが、 これは〈辛口批評家〉氏にはお気に召さないのだろうか?

 そもそも日本のサッカーはまだ「どんな相手とも、どんな条件であっ ても、同じ顔ぶれで同じサッカーをして、しかも勝つ」ことができるほ ど強くはないだろう。対戦相手によってメンバーや布陣を変えるのは悪 いことではない筈だ。この点、〈辛口批評家〉氏はどのような考えを持っ ているのかよく判らない。

 「なぜこれまで起用しなかったのか」にしても、それは監督の考え次 第だ。トルシエはせっかく代表に選んだ選手を使わないことがしばしば ある。これはおかしいとぼくも思う。けれどそれは監督の権限下のこと で、成果が上がらない時にその是非を問うことはできるが、それ自体を 批判しても仕方がない。それに、抜擢した選手が活躍したからそう言う 「批判」が成り立つのだ。得点を挙げたのが西澤で、鈴木がまったく目 立たなかったなら、逆に「なぜ鈴木を起用したんだ、なぜ中山を使わな かった」ということにもなる。要するに結果論でしかない。

 そう、この〈辛口批評〉なるもの、言わば「結果論の裏」をとってい るだけであり、すべて結果を見て言うから「成り立って」いる。結果を 見て「辛口なこと」を言うのは誰にだってできる。その結果を導いた事 実Aを取り上げて、それに反するBを提示すればいいだけのことだ。

あなたも「辛口」になれる

 日本代表は3月フランスに遠征してぼこぼこにされ(0対5で敗戦)、4 月のスペイン遠征では超守備的シフトで臨みながらそれでも敗れた。そ れに対しては「なぜ攻撃の姿勢を見せないか」と言えばいいし、引き分 けたり1対0で勝っても「もっと攻撃的にならなければ」と言えば立派な 〈辛口批評〉だ。逆に同じく攻撃的に臨んでまた惨敗したなら、「フラ ンスでの教訓が生きていない。もっと守備を考えろ」とか「フラットス リーはやはりダメ」と言えば済む。新しい選手を試し続ければ「あと一 年しかないのだから、メンバーを固定すべき」と言い、メンバーを固定 して闘い続ければ「こんなに調子のいい選手をなぜ使わないか」と噛み つけばいい。

 こりゃー「難癖つけてるだけ」と思われても仕方あるまい。〈辛口批 評〉とは、3分間レンジでチンすればできあがりの、誰でもできるお手 軽〈批評〉なのだ。

 このような「辛口」を貫くために必要なのは、「立場」とか「定まっ た観点」とか「あるべき日本サッカーの姿」とかを持たないこ とだろう。そんなものは「事実に対してそれと反対の意見を言う」とい う手法には邪魔なだけで、事実が自分の立場なり観点なり理想像に合致 してしまったらもはや〈辛口批評〉はできなくなってしまうからだ。実 際、この手の〈辛口批評家〉は日本サッカーがどうなればいいと思って いるのか、何を望んでいるのか、ぼくにはまったく判らない。

「辛口」ウォッチ・一次リーグ第3戦、対ブラジル

 そんなことなら第3戦も何を言うか楽しみである。

 一次リーグ第3戦は対ブラジル。ブラジルはここまで1勝1引き分け。 この試合に負けると場合によっては一次リーグ敗退の憂き目もあり得る 状況にある。そうでなくとも世界に冠たるサッカー大国。有名選手は今 回参加しておらず、「二流」とも評されているが、だからといって日本 より格が落ちるわけではない。

 という試合で、日本はみごと負けない闘いをして0対0の引き分け。専 守防衛でもなく、攻撃の意志も持ちながらの引き分けだった。「負けな い闘い」というのは大切なことだ。先のカメルーン戦に次いで、日本も こういう試合ができるようになったかと思った。すでに準決勝進出を決 めていることもあってか、控え選手を大量に投入して主戦力を温存した。 それでもこういう試合ができた。おそらくは控え選手の不慣れのせいで 守備のバランスが崩れ気味ではあったが、どうにか凌いだ。

 さて、〈辛口くん〉はどう評したか。

 「他のチームの士気や態勢からして、この大会の存在意義を見直すべ きだ」「メンバーを入れ換えるのはいいが、サイドバックが経験不足の ために全体が苦しくなるのは問題」とおっしゃっている。

 ぉぃぉぃ、今さらそんなことを言うのか。それならなぜ初めから「こ の大会には『世界の強豪と闘う』という意義はない。だから自分も勝負 は度外視して、日本のシステムのチェックや攻守の出来、個個の選手の 能力、監督の采配を吟味する」と言わないのか。期待以上の成績を上げ てから「この大会には意義がない」では、これまでの「辛口」は何だっ たのか。

 ブラジルがワールドカップ南米地区予選で苦しんでいること(つまり、 滅茶苦茶に強いわけではない)、この大会に「B級」のメンバーで臨ん できたこと、フランスも主力は参加していないことなどは、少なくとも 開幕二日前には判っていることだ。それ以前に、今はワールドカップ地 区予選の真最中なのだから、強豪が必勝の決意で臨む大会でないことは はじめから判っていることだ。日本がブラジルに引き分けたからといっ て、ブラジルが「らしくない」試合をしたからといって、急に「大会の 意義」などと言い出すのはおかしい。

 だいたい、こういう論調自体に意味があるまい。ブラジルもカメルー ンも最強のメンバーをそろえ最高の準備をし体調も完璧に整えてきたな ら、日本がこれほどの好成績を上げることはできなかったかも知れない。 しかし、日本も名波、中村俊輔、高原を欠いていた。彼らがいたらまた 違ったサッカーができたかも知れない。対戦国の準備不足や戦力低下を 取りざたするなら、日本がベストメンバーでなかった点も指摘しなけれ ばならない筈だ。

 どうであれば「文句なし」なのか。3年前にワールドカップで優勝し た時のフランスと闘って勝てばいいのか? そんなチームになるために どうすればいいのか、〈辛口批評家〉氏は言えるのか? 〈辛口〉氏が 4年間日本代表の指揮をとればそうなれるのか? すべて非現実ではな いか。みんな、現実のサッカーが好きなのだ。「経験不足の選手が入る ことでチーム全体が苦しくなる」点は、そのとおりのように見える。問 題は、ではどうすればいいのか、ではないだろうか? 〈辛口〉氏は文 句ばかり言って、策を示唆することすらない。

 最後のおことばとして、〈辛口〉氏はこう断言しておられる。「日本 チームの士気は入れ換えが激しいせいで下がっている。準決勝のオース トラリア戦も楽な闘いとはならないだろう」。

 何を根拠にそう断言するのか判らないけれど、それは大変だ。オース トラリア戦をじっくり見守ることにしよう。

「辛口」ウォッチ・準決勝、対オーストラリア

 6月7日、準決勝第一試合。

 頻繁なメンバー入れ換えのために士気が落ちに落ちていた日本代表は、 折からの豪雨にも祟られて、オーストラリア相手に苦しい闘いを強いら れた。なにぶん頻繁なメンバー入れ換えで士気が落ちているために、攻 撃は精細を欠きペナルティエリアにも入れず、守備も持ち前のプレスが 息を潜め、相手にいいように隙を突かれ防戦一方に。

 という試合になるかと思ったら、ならなかったぞ。

 厳しい試合だったのは間違いない。どっちに転ぶか判らない勝負だっ た。オーストラリアは身長、体格とも日本を上回るタフなチームだった し、豪雨にも祟られた。「頻繁な入れ換えで士気が下がっている」のな ら、目も当てられない惨敗になっていたのではないか。しかし、勝った のは、頻繁なメンバー入れ換えにも士気を落とすことなく集中を保ち、 冷静に闘った日本だった。

 さて、〈辛口批評〉。

 「頻繁な入れ換えは士気を下げる」なんて言ったことはおくびにも出 さない。この辺りの厚顔さも〈辛口批評〉には欠かせない資質だろう。 自分が言ったことに責任を持たなくていいのなら、それこそ何だって言 いたい放題だ。羨ましい職業である。

 常常思っていたのだが、この手の「批評」は聞き書き、インタビュー の形が多いようだが、聞き手側も批評家氏を煽っているように見える。 「トルシエのチームというよりは中田のチームという印象を受けるがど う思うか」とかね。

 他にけなすこともないからだろうか、「中田は素晴らしかった」とベ タぼめし、返す刀で「中田一人が目立つということは、他の選手が世界 レベルに達していない証拠」と来る。これも聞き飽きた。そんなの、当 たり前じゃないか。11人全員が世界水準なら、これはすなわちフランス かブラジルか、イタリアかドイツかアルゼンチンかってことでしょう。 ほんの四年前、心臓がぎゅっとつかまれるような思いをしながら、本当 に足の先が絶壁の縁にかかっているような気分を味わいながらやっとの 思いでワールドカップ予選を初めて突破したような国に、世界レベルの 選手がたくさんいるものか。もしかしたらこいつは(ぴー)ではないか?  こんな当たり前のことを言ってまで「辛口」を気取りたいのだろうか。

 日本の快進撃の前に、もはやなけなしの辛みまで気が抜けてしまった かのような〈辛口批評〉ではあった。でもせっかく準決勝まで来たのだ から、あと三日待って決勝に対する「辛口」も見てみよう。

「辛口」ウォッチ・決勝、対フランス

 6月10日、決勝。

 相手はフランス。3月にアウェーで闘ってえらい目に遭わされたあの フランスである。これ以上ないお膳立てである。

 あの敗戦にショックを受け、4月のスペイン戦は「専守防衛シフト」 で臨み、一部のサッカー週刊誌は「時計の針を戻すつもりか。攻撃サッ カーはどこに消えた」と批判した。が、この大会で、日本は「守備と攻 撃をバランスよく再構築」した新しい姿を披露した。今から見ればフラ ンス戦は屈辱の大敗ではなく成長過程の通過儀礼であり、スペイン戦は 守備偏重への転進ではなく一時的な戦術的退却に過ぎなかったといえる。

 考えてみれば、アジアのトップになれたからといって即世界のトップ と互格に闘えると思う方がどうかしている。アジアのレベル自体が高く ないのは定説だから。だからアジアレベルの闘い方がそのまま通用して 何かそれらしい結果が出てしまうよりは、こてんぱん(死語?)にやられ てよかったのかも知れない。過去の出来事は後になって新しい事実によっ て評価が変わるってわけだ。

 といったことを予め書いておいて試合を観た。

 布陣を見て驚いた。トレス・ボランチ、3月のフランス戦で惨敗した あのシフトをまた敷いた。中田英寿がローマに帰ってしまったためのシ フトなのだろうが、ちょっと待てよ、攻撃的に行くんじゃないのかと思っ た。ぼくはサッカーチームの監督などしたことがない。ソフトウェアプ ロジェクトのマネージングしか知らないのだが、「どのように臨むか」 という態勢はメンバーの士気に大いに影響するだろうことはたやすく想 像できる。このシフトで攻撃をどのようにするのかについて、具体的で 明確な指示は出ているのだろうか?…… しかしそんな心配は薄らいで いった。3人のボランチからひとり、機をみて前線に上がるようにして いるようだ。

 とはいえボールは多くフランスの支配下にあり、日本は防戦に追われ る。よく凌いだと思うが、前半30分、隙を突かれて一点を先制される。 その後、守りに追われつつ、しかし選手も交代して攻撃の意志も見せつ つ、でも糸口がつかめないまま試合は終了した。日本は準優勝に終わっ た。

 中田がいないために攻撃力は落ちたのかも知れないけれど、どうにも ならないほどひどいとは思わなかった。もちろん攻撃の糸口がつかめな かったことは問題だろうが、守りに追われる中でたまに得たチャンスを どのように活かすかについて、共通理解がどれだけできているのか。

 0対1で惜しいとか、善戦したとかは思わない。人の言うように、点差 以上の差が試合内容にあっただろう。が、意味がないとも思わない。日 本チームが世界の強豪を向こうに回してこれだけの試合ぶりを見せてく れたのは久久のことであり、いくら相手の戦力が100パーセントにはほ ど遠いとはいってもこの健闘は讃えられるべきだ。

 なによりも、今回の準決勝のおかげで、来年のワールドカップ本大会 での決勝トーナメント進出が確実になったわけではない。一部の莫迦な テレビ番組(スポーツのさまざまな話題を論じる建前なのに、司会者も 主な出演者もただのテレビタレント。ただ好き勝手なことをワメいてい るだけで、値打ちがない)でも「これで安心」なんて意見があったし、 スポーツ新聞はどこもこぞって「来年に希望が見えた」なんて煽ってい るんだろうけど、勝ったといっては何の根拠もなくこんな莫迦騒ぎをす るから、〈辛口批評家〉がのさばるのだ。

 で、その〈辛口批評〉。

 聞き手が皮肉な口調で「善戦を讃える声も聞こえるが」と問いかける と、答えて曰く、「世界チャンピオンにぶつかっていく挑戦者の姿勢が 感じられなかった。ゴールに向かう気迫がなかった」「特に前半は相手 を怖がっていた」。

 「挑戦者の姿勢」とは何だろうか。しゃにむに攻めて点をとりに行く ことだろうか。だが明らかに力に差がある場合、それは自殺行為ではな いだろうか。冷静に、彼我の力の差――個個の体力、技術に始まり、戦 術理解度、戦術そのもの、果ては経験の蓄積などまで――を冷静に見極 め、その上で「活路」を見つけるのは悪いことだろうか。それともそれ は潔くないことなのだろうか。日本はそういうサッカーをするべきでは ない、というのが〈辛口〉氏の考える日本サッカー像なのだろうか。ぼ くには、もししゃにむに攻めに出てカウンターを食らって失点を重ねた 時に「守備を軽視している」とかなんとか言う〈辛口〉氏の姿が見える のだが。

 フランスのような強国の攻撃をいかにして無力化するか、そして自分 たちの得点の可能性をいかにして10パーセントから20パーセントに、20 パーセントから40パーセントに増やすか、が、日本クラス(世界ランク 40位前後)のサッカー小国のとるべき戦略だろう。その結果、「守りを 厚くして敵の攻撃を早めに摘みとる」という戦術を立てたのなら、それ 自体は評価できると思うがどうか。

 「小野は左サイドでは通用しないのは実証ずみなのに、また使った」 とも言っている。が、小野が機能したと見る向きもあり、これは見解の 相違ということか。しかし、ではどうすればいいのかということは、 〈辛口〉氏は絶対に言わないのだ。名波、中村を怪我で欠き、中田はチー ムを離脱した状態で、どんな布陣がよいかくらい書いて欲しい。

「辛口」は何のために?

 日本代表(A代表)がFIFA(国際サッカー連盟)主催の国際大会で準決 勝にまで残ったのは初めてだという。それが日本サッカーの実力という わけだ。コンフェデレーションズカップは大したことのない大会かも知 れないけれど、これは快挙だ。もう後は「おまけ、ご褒美」でいいんじゃ ないだろうか(もちろん、一年後のためのテスト、情報収集、フィード バックはしっかりやるとして)。この事実を「辛口」で貶める輩は、日 本のサッカーを愛していないんじゃないかと思う。

 彼らは何のために「苦言」を呈し続けるのだろうか。何のために「辛 口」を弄するのだろうか。

 ある人は言う。「メディアが莫迦騒ぎをするからだ」。莫迦騒ぎを鎮 めるための冷却剤として、「辛口」を発するのだと。それは確かに一理 ある。日本にはまともなスポーツジャーナリズムはないに等しい(一部 を除く)から、ちょっと勝てばすべてうまくいくかのように大騒ぎし、 ちょっと敗けただけですべて終わりかのようにまた大騒ぎする。鎮静剤 として「辛口」を効かせるというのはいい理屈だ。しかし、「辛口」で なければならない理由はない。必要なのは冷静な論評だと思う。

 ある人は言う。「日本サッカーへの提言だ」。日本サッカーにはもっ と上を目指して欲しいから、敢えて厳しいことを言うのだと。しかし、 それにしては、今回ウォッチした〈辛口〉氏の発言は場当たり的でその 場凌ぎくさくて一貫性が感じられない。いくら一言ひとことはいいこと を言っても、それを支えるビジョンを示してくれないのでは、信頼して いいのかどうか迷う。小野の左サイドは通用しないという。では、今回 のメンバーで、左サイドの適任は誰だったのか? あるいは誰がメンバー に選出されるべきだったのか? 「半端な起用」と批判するのはたやす い。では半端でない起用を示してもらいたい。彼らは「提言」と称して 「耳に痛い」ことを言うのだから、「おれの提言どおりにすれば問題な い。試しにやってみろ。それでダメならおれは頭を丸める」くらいは言っ て欲しい。それくらいのリスク(ですらないよね、現場で体張ってる監 督や選手に比べれば)は背負ったっていいだろう。安全な場所からぬく ぬくと発する「辛口」なんて、誰も聞きたくないよ。

 思うに、〈辛口批評家〉が「辛口」を続けるのは、「辛口」を続ける より他にないからだろう。〈辛口批評家〉でなくなったら、存在理由を 喪うからだろう。〈辛口批評家〉であり続けるために〈辛口批評家〉を 続けているようなものなのだろう。いわば、自己目的化しているのだろ う。

 たとえ日本がワールドカップ本大会で優勝するようなことがあっても、 〈辛口批評家〉たちは〈辛口批評〉を寄せるだろう。勝ったのは幸運だ、 対戦相手に恵まれた、対戦国はどこも調子を落としていた、こんな勝ち 方ではダメだ、「真の王者」はもっといいサッカーをしなければいけな い、などなどなど……

 しかし、そんな「辛口」に、いったい何の意味があるのだろうか。

 サッカーは現実のスポーツであり、実在するサッカー協会が動き、現 実の監督が指揮をとり、現実の選手が現実に体を動かし、現実の条件の 中で現実の対戦相手と闘っている。幸運もあれば不運もあるし、追い風 もあれば向かい風もあるけれど、勝っても敗けてもそれが現実だ。それ ぞれの現実を批判することは必要だ(特にサッカー協会)。が、現実を を蹴飛ばして現実でないものを求めて、〈辛口批評家〉はたちは何を望 んでいるのだろうか。


(おわり ―― 2001.06.12)





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