判ってて言っているのか?

*もくじ*
世の中にお調子者は多い
判ってない人たちのいい気な言説
こういうところが品性下劣というんだよ
こちらも発言者に見合った品性で
ふと気づくと

世の中にお調子者は多い

 ワールドカップ韓日大会が終わって五ヶ月以上が経ってしまった。

 週刊サッカーマガジンがワールドカップ総括号を出してくれるとうれ しかったのだが、出ずじまいである。それで自分なりの「総括」もでき ないでいる。もっとも、「総括」なんてしなくてもいいのかも知れない し、そもそもできるほどサッカーを知ってるのかよという疑いもあるし、 でもそもそも「サッカーを知っている」ってどういうことなんだよとい う根源的な問いかけもあるし、ひとことで言えば「対トルコ戦はひどかっ た。やはり一次リーグ突破で満足とまでは言わないまでも気持に一段落 ついてしまったように見えたし、それを除いても監督の采配は理解でき なかったし、監督自身第二ラウンド以降は未知の領域だからパニックし ていたのかなとも思うし、それを除いても選手のプレーは情けなかった。 同じような判断ミスやミスパスを最後まで繰り返していた。日本代表が 負けるときの典型的なパターンで、あれでは十六強どまりが精一杯、要 するに実力どおりの結果ってことだろう。そのほかの国国や全体につい て論評するほど詳しくはないけれど、セネガルのサッカーは面白かった し、アイルランドも好きだった。イタリアの十六強敗退は試合運びが思 うほどうまくない点で意外だったしイングランドも八強敗退は妥当って ところか」ということで、まったくひとことになっていないわけだが、 敢えて一言で言うなら 「俊輔、名波を観たかった」 に尽きる。

 巷ではワールドカップへの便乗商売は露骨だったようだ。サッカーに は殆ど関係ない(と思われる)「純文学雑誌」までがサッカー/ワール ドカップ特集をしたり、このヒトこれまでサッカーを語ったことなどあっ たっけ?という人がサッカーを論じたりした。

 「ユリイカ」という月刊誌があって、これも六月号でサッカー特集を やった。「詩と批評」というのがこの雑誌のサブタイトルだが、ぼくに は《思想》系の雑誌という印象が強い(大間違いだったらごめんなさ い)。このサッカー特集の中の「サッカー・プロレタリアート宣言!」 というのが、数あるサッカー便乗ネタの中で最も有識 者に嘲り嗤われた(と思われる)噴飯ものである。ぼくでさえ発 売当初にちらりと立ち読みして食べてもいない飯を噴いてしまったほど だ。そのまま忘れていたら、最近あるサッカー雑誌の編集長がこれを批 判していたので ()、 それなら買って読んでみるかと思い、あちこち探してバックナンバーを 手に入れた。 対談の一方は渡部直己。 相手は蓮実重彦(蓮実の実は 本当は「旧字体」のようだが、面倒なんでこのままにする)。

 読んでみた。

 ひとことで感想を言えば、この雑誌は「詩と批評」が柱なのだと思う が、問題の対談は批評にも詩にもなっていない、正視に堪えない感情的 な罵倒の羅列に過ぎない。先のサッカー雑誌編集長は「サッカーの常識 を持たない人間の暴論」と断じていたが、ぼくもこれに同意する。いや、 久久に胸がむかむかした。このひどさは《辛口屋》以上だ。《辛口屋》 はサッカーを語るのにまだしもサッカーの見方とサッカーのことばを使 うが、こいつらはそうですらないからだ。

 なお、対談された両氏のことを本文中でこき下ろすように扱ったり軽 蔑的な物言いをしたりすることがあるが、他意はない。ご本人たちも (後で挙げるように)サッカー選手や「中産階級」「プロレタリアート」 に対して侮蔑的な物言いをしているのだから、自分たちがそうされて怒る には当たるまい。

判ってない人たちのいい気な言説

 どこから斬ろうか。

 読む前から疑問だったのは、「このヒトたちは 果たしてサッカーを知っているのかどうか、判っているのかどうか」 ということである。1993年Jリーグ開幕以前の日本ではサッカー はマイナースポーツであり、テレビ中継されるワールドカップを観る人 たちはいたにしても、よほど好きでない限りサッカーに入れ込むことは しなかっただろうからだ(まして日本サッカーを追いかけるなど、相当 の好き者だったようである)。本文を読むと、蓮実重彦は遅くとも1986 年メキシコ大会あたりからワールドカップを観ているらしいし、渡部直 己は「クライフ・ショック」なんて言っているから1974年大会から観て いるらしい。後付け焼き刃のポーズかも知れないけれど(この手の連中 はそのくらい平気でするものだ)、でもまあ一応知ってはいるし観ては いるようだ。ぼくは確実に「Jリーグ以降」なのでその点は敬意を払う に値する。

 しかし、ではサッカーが好きなのかというと、きっと好きではないの だろうと思う。詳しくもないだろうと思う。どうしてかというと、 サッカーの言説サッカーを巡る言説とを混同し、 履き違えた「批判」を平気でしてしまっているからである。これは対象 領域に詳しくない人間(つまり素人)が対象領域を外側から表面だけ眺 めた時に犯しやすい過ち(つまり恥の上塗り)だ。一例を挙げると、

蓮実 ……(一次リーグで対戦するロシアの選手を挙げて)…… だけど日本人に比べれば圧倒的に凄いじゃないですか。それにどうして 平気で勝てると思うのか。
渡部 スリーバックなんてやってていいのか。
(124ページ。ページ番号は「ユリイカ」2002年6月号のもの。以下同様)

 言うまでもなく、「平気で勝てると思っていた」のはせいぜい日本の スポーツマスコミであって、日本代表チームではない。それが蓮実の発 言ではあたかも日本代表チームがそう思っているかのような論調になっ ている。これは、無知でなければ詭弁である。またそれに渡部直巳が無 考えに迎合するから、しかも頓珍漢なことを言うからよけいにおかしな ことになっている。 (もちろん、日本代表チーム(の各構成員)が「平気で勝てると思って いた」可能性はある。でもそれはそうでない可能性に比べて限りなく低 いことは容易に想像できる)

 サッカーを好きではないのだろうなと思う二点目は、サッカー(界)の 仕組みをよく知らないように見えるところである。

蓮実 わたしがトルシエは決定的に駄目だと思うのは、三年 かけて馬鹿みたいなストライカーを一人も育てられなかったからです。
……(中略)……ストライカーを育てられなかったのは決定的です。
渡部 おっしゃるように、コーチの最大の責任は点を取る奴 をつくって残すことだから、トルシエの責任は重大ですね。
(111〜112ページ)

 国家代表チームの監督が人材の育成を責務とするかどうかはサッカー 協会との契約による。そして普通は、既にある人材を用いて国際試合を 戦うのが代表チーム監督の第一の仕事であって、人材育成など請け負う 義務はない。「コーチの最大の責任は点をとる奴を作ること」に至って は絶句もの。

蓮実 今回は韓国と日本との共催ということなんですが、な ぜFIFA World Cup KOREA/JAPANで、KOREAが先にあるのか。この説明が 公式ガイドブックのどこにも書いていない。これは単にFIFAの公式言語 がフランス語だからというだけなんです。CoreeとJapanだからCとJで、 フランス語のアルファベット順でこれでいいのだけれども、英語にする とKとJとなって、順序がおかしくなる。何故JがKよりも後になるのかと 変なところで日本人が屈辱感を持つことになるわけです。
(111ページ)

 大会の正式名称は、共催ともなれば確かに国民感情にも絡む厄介な問 題になり得る。それで、韓国と日本とFIFAとの間で「正式名称は KOREA/JAPANとする」という申し合わせがなされた。フランス語だから ではない。日本語でだって、正式名称は「ワールドカップ韓日大会」と 呼ぶのである(日本で「日韓ワールドカップ」という名称が使われてい るのを見て韓国からクレームがついたというニュースがあった)。だい たいFIFAの公用語はフランス語のみではない(筈である。この点ぼくも 正確に知らないが)。

 上の言説はそうとうにおかしくて、FIFAの公式言語がフランス語なら ば、公式ガイドブック日本語版で"FIFA World Cup KOREA/JAPAN"と英語 を使う理由が説明できない(日本人の英語好きを考慮したとでもいうの だろうか?)。単にアルファベット順の問題ならば、英語に置き換える ときに英語のアルファベットに直さなかったのはなぜかという疑問には どう答えるのだろうか。「J(日本)がK(韓国)よりも後になることで日本 人が屈辱感を持つ」というのも判るようで判らない。ぼくは違和感は感 じたが、屈辱というほどのことではない。屈辱と感じたのは蓮実重彦そ の人だったのではないか。

 もうひとつ例を挙げる。

蓮実 もし、私がサッカー協会のトップにいたとしたら…… (中略)……それに合わせて、いまの一七歳から二〇歳くらいの連中を 育てるくらいのことはしないと駄目ですよ。
(122ページ)

 何をかいわんやとはこのこと。

 この程度の見識の人間がふたり揃って、自分たちは何のリスクも負わ ずに言いたいことを言うわけである。これが噴飯ものにならなかったら その方がどうかしている。

 そして、対談を通して強く感じるのは、両氏のどうしようもない品性 の低さだ。これは飯を噴くどころか吐気を催す。

こういうところが品性下劣というんだよ

 112ページ中段。トルシエ監督について。

渡部 そうすると翌日、ほら、あのスケコマシ風な通訳がい ますでしょ、彼が記事を全部読んで聞かせるらしい。

 113ページ中段。1994年アメリカ大会予選最終予選最終戦(対イラク 戦)、かの「ドーハの悲劇」について。

渡部 それに、これはまさに「国辱」という言葉に値すると 思うけれども、あの予選で彼らの何人かは表彰選手に選ばれているにも かかわらず、ロッカールームでびいびい泣いて表彰式にも来ないわけで す(笑)。動物に化けられなかった挙げ句、他国の表彰選手たちへの無礼 も省みず、ひたすら最低級の人間ドラマに浸ってしまう。
蓮見 犬が泣くかってんだ(笑)。

 同じく113ページ、下段。

蓮実 ラモスはさすがで、泣かないでみんなを起こしていた わけですが、ああいう振る舞いを帰化したとは言え、外国人にやられた というのは、本当に恥と言うほかない。

 115ページ下段。1998年フランス大会、岡田監督(当時)が最終メンバー から三浦和良を外したことに寄せて。

蓮見 あれが岡田という結婚詐欺師みたいな人の限界なんですね。

 話はだんだんサッカーから逸れていく。117ページ下段。

蓮見 つまり、国家とか国旗とか国歌とは違うかたちで「国 民の期待」を背負ってしまうということがあるわけです。それは本来で あれば、プロレタリアートの力だと思う。そのプロレタリアートの力が 日本にはないわけです。あるのは中産階級の無力感ですね。しかし、中 産階級はサッカーには向いていない。連中には巨人の勝利で充分なわけ で、その日本の「ナショナル・チーム」というものが私にとっては謎と いうか、そもそも語義矛盾と思われて仕方がない。

 118ページ上段〜下段。今度はサポーターに斬りかかる。

蓮見 前回のワールドカップなんかを見ると、会場でゴミ掃 除をやってきた馬鹿どもがいる(笑)。
渡部 (日本が優勝したら)抱き合ってピーピー泣く程度で しょう。

 何というのか、自分たちこそはサッカーを、フットボールというスポー ツを根底から理解している世界でたったの二人だ、という立場に立って いるのだろう。本当にそうであるかどうかは別にして、そういう「高み」 から下界を見下ろす、という設定で語っているのだろう。でなければこ の傲慢さは想像できない。……しかし、それにしてはこのサッカーへの 理解の低さはどうだ。

こちらも発言者に見合った品性で

 改めて、サッカーに興味を持って十年間いろいろな言説に出くわして きたがこれほどひどいものは初めて見た。ふたつの意味でひどい。ひと つは、サッカーを大して知らないくせに知ったかぶって偉そうなことを しゃべり、その結果自分の無知をさらけ出している。「大して」という のはプロのサッカーライターに比べてということではなく、専門メディ アに登場する「サッカー好きの芸能人や物書き」レベルに比べて、であ る。もちろん、サッカーを「知っている」とはどういう状態を指すのか という根源的な問いはあるわけだが、サッカーを論じるための知識・ 常識の最低線は自ずとあるだろう。無知なら無知でいい(ぼくも 無知だ)。「詳しくないなりに好きであり、愛している」というならそ れもいい。そういう人が「間違った」ことを言っても目くじらを立てや しない。しかしこいつらは自分が無知であることを知らないか、無視し ている。そして自分たちはよく知っているという前提でサッカーを論じ たつもりになっている。それがひどく醜い。無知を曝して恥をかくのは 本人だからいいじゃないか、ということはない。 この醜さには読む方も不愉快に なるのだ。

 ふたつめは、サッカーとは関係ない部分での不必要な暴言(「スケコ マシ」だの「結婚詐欺師」だの言うことがここで必要だとはとても思え ない)。本人たちは毒舌のつもりなのかも知れないが、毒舌になってい ない。少なくとも読み手をして「不快を感じながらも深く頷かざるを得 ない」気分にさせる冴えた毒舌にはなり得ていない。読み手の心に湧く のは不快感のみだ。毒舌を売り物にしながら人気が出ず、焦って先鋭化 してますます売れなくなった漫才コンビのようだ。この売れない漫才コ ンビは以前にプロ野球を題材にして暴言を吐き散らしたことがあるらし いが、それに味をしめて今回サッカー界に乗り込んだものらしい。先の サッカー雑誌編集長はいみじくも、「前提となるサッカーの常識がない くせに暴論をぶつけているものだからなんの効果もなくて、つまりただ の暴論なわけです」と言っている。的を射まくった指摘である。そして 当の漫才コンビがただの暴論であることに気づいていないからよけいに 醜い。

 どんな「前提となるサッカーの常識」がないか。ぼくなりに記すと、

  1. サッカーの歴史を知らない。
  2. 日本サッカーの歴史を知らない。
  3. サッカー界の仕組み(システム)を知らない。
  4. 日本サッカー界の人材育成システムを知らない。
  5. クラブチーム(のサッカー)と国家代表チーム(のサッカー)の違 いを知らない。
  6. なぜかというと、サッカーというスポーツを知らない。と言って悪 ければ、サッカーというスポーツを思想やらイデオロギーやらと結 びつけた形でしか知らない。
  7. スポーツ新聞に代表されるメディアの言説(ぼくの言う「サッカー を巡る言説」)とサッカーの言説を愚かにも混同してい る。けっきょくこの人たちにはスポーツ新聞を通して得た知識と興 味しかない。

 もちろん、何を言っても本人の勝手である。トルシエ監督の通訳を務 めたダバディ氏をスケコマシといおうが、岡田武史氏を「結婚詐欺師の ようだ」といおうが好きに言えばいい。名誉毀損で訴えられた時にうろ たえずに受けて立てばいい。

 蓮実重彦という毒舌(になり得ていない毒舌)芸人は、東京大学の総 長を務めた経歴の持ち主らしい。大学総長に威厳が求められるべきかど うかは議論の余地があるけれども、ここまで品格のない人間を総長にす る大学というのも困ったものだし、こんな人間に総長をやられた学生に は気の毒というしかない。だいたい人の風貌をあれこれ言えるような顔 じゃないじゃないか。また渡部直巳という評論家だ(ったと思う)が、 対談の中でプラッターFIFA会長が「茶坊主」と言われているけれど、こ の対談の中では渡部直巳はまさに茶坊主だ。蓮実重彦の発言にそれこそ 犬のように尻尾を振って迎合するばかりで、自分の視点などないかのよ うである。(あ、犬差別しちゃった)

 ダバディ氏がスケコマシ風であり、岡田武史氏が結婚詐欺師のようで あり、オフト氏が箸にも棒にもかからぬ指導者であるならば、こいつら はサッカーにたかるダニといえよう。(あ、ダニ差別しちゃった)

 誰か駆除剤を撒いてくれ。頼むよ。

ふと気づくと

 これまで《サッカーを巡る言説》の批判ばかりしてきて、サッカーそ のものの話はしていないことに気づいた。そろそろしたくなってきたか な?(いや、まだまだだろう)

 最後に、この対談が載っている雑誌「ユリイカ」の情報を挙げておく。

ユリイカ2002年6月号、特集「フットボール宣言」、青土社、1300円

 大きな書店にはバックナンバーが置いてあることもあるので、一度ぱ らぱらめくってみることをお勧めする。「サッカーを知らない」人でも、 めちゃくちゃを言っていることがお判りと思う。 

 それにしても、「サッカーを知っている」とはどういうことなのか(笑)

  1. スポーツナビ『Web版サッカー批評 Vol.6』 半田雄一編集長インタビュー (聞き手・後藤勝、2002.06.15〜2002.06.29)

(2002.12.09)

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