“らしさ”とは? ――あとがき気分で


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「エスペラントにはエスペラントらしい文というものがある」らしい
たとえば、日本語の話
“らしさ”に怯えなくてもいいじゃないか
文法って難しい
初学者の思うこと



 最後の章は、エスペラントの紹介ではなく、筆者がこの言語を勉強して これまでの間に感じたことごとを綴ります。ほかの随筆とは重複しないと 思います。



「エスペラントにはエスペラントらしい文というものがある」らしい

 「中級者」向けと思える本を読むと、「(この文は)エスペラントら しい」とか「らしくない」とかいう文章に出逢います。

 これは初心者には判らないとしかいいようがない領域です。ほのかに 「そういうことはあるかも知れない」と思いますし、「こういうのが “らしい”文なんだな」と感じないこともない文もありますが、自分が そういうものを作れるかと言われれば作れないに決まっていて、要する に、判っていません。

 しかしこの「らしさ」とは、一体何なのでしょう。判っていない負け 惜しみをいうつもりはありませんが、「らしさ」が強調される度に、不 思議な感じがします。

たとえば、日本語の話

 ある文を見て、「この文は日本語らしい」「日本語らしくない」と判 断することはかなり難しいと思われます。

  1. 日本語を母語としない人が日本語を習い始めたとして、そういう人 が書く文を日本語を母語とする人が見て「日本語らしい」「日本語 らしくない」と判断するのは、おそらくたやすいことです。
    しかし、「日本語らしくない」と判断できたとして、だからどうだ というのでしょう?
  2. 同じ日本語と言っても、時代によってスタイルが変わります。いま、 明治時代のことばづかいをしたとして、それを「日本語らしい」と 言っていいのかどうか、筆者には何とも言えません。

 1番目の場合ですが、あるテレビ番組の趣向で、毎回テーマを決めて、 街を歩く日本人をつかまえて体験談を聞き(ここは日本語)、それを英 語で言わせる、といったものがあります。その番組全体はそんなに嫌い ではないからちょくちょく見ますが、そのコーナーは気分が悪いので、 普段はそこだけチャンネルを変えてしまいます。人の「外国語のできな さ加減」を見て笑おうというのが、なんか、厭です(確かに、見ていて 「そりゃないだろー、おまえ」と言いたくなる「英語」もあるにしても)。

 最近は、この裏返しで街を行く外国人に日本語で体験を語らせるとい う趣向もあるようですが、それが「日本語らしくない」日本語、日本人 が聞くと(ちょっと)おかしく感じる日本語だったとして、どうして笑う のでしょう。ことばづかいや文の組み立てがヘンだから? 確かに、お かしいと感じることもあります。でも、「日本人が話す日本語」が常に 「日本語らしい」と言っていいのかどうかというと、筆者はけっこうア ヤシイものだと感じています。

 2番目の場合はもっと微妙だと思えます。明治時代の日本文学を学ん でいて、それ以外に日本語は知らないる外国人(まあ、いたとして)が 日本に来て、自分が知っている日本語を使ったとしたら、接し た人は「この人の日本語はなんかヘンだ」と思うのではないでしょうか。 しかしその日本語は文法的な誤謬もなく極めて格調高いものだとしたら、 それは、「日本語らしい」と言っていいのでしょうか、それとも「らし くない」のでしょうか。

 もっとシンコクなのは、同時代の日本語であっても、「らしさ」の 異なるものがあるということです。

 小森陽一というひとが『小森陽一、ニホン語に出会う』という著書の 中で言っていますが、小学校の頃しばらく外国に行って帰ってきたら、 自分の日本語(母国語です)を聞いて級友がクスクス笑う。なぜかと思っ たら、外国暮らしの間に自分の話す日本語は「書きことばの日本語」に なっていて、「話しことばの日本語ではなかった」ということが明らか になる。……では、この場合、文章語としての日本語は「日本語らしく ない」のでしょうか?

ふにふに

 エスペラントについて「らしい」「らしくない」と言われる時は、書 きことばか話しことばかという違いを取り沙汰しているのではないと思 います。また、「時代による違い」でもないようです。とすると、そこで 問題にされている「らしさ」とはなんなのでしょうか?  「“らしさ”とはなにか?」が内包している問題としては見過ごせない ものだと思います。

 でもそういう意味で「エスペラントらしい」「らしくない」と言われ るのだとすると、ちょっとおかしな気もします。エスペラントを母語と する人はいません。いるという話もありますが、どう考えても第二言語 でしかあり得ない筈で、そういう立場で言われる「らしさ」って、いったい、 何なんでしょう。何を根拠としているのかな、というのがひとつ。

“らしさ”に怯えなくてもいいじゃないか

 どうせ外国語なんだから、「らしく」なくてもいいじゃないか。

 日本人なんだから、「日本語みたいな」エスペラントでもいいと思う のです。

 構文規則を満たしており、意味解釈上も差し支えがないのなら、どん な表現の仕方をしたっていい筈で、イギリス人ならイギリス英語みたい なエスペラントでいいと思うし、フランス人ならフランス語的な語法で もいいと思うし、中国風エスペラントや韓国語の味が出ているエスペラ ントなどがあってもいいと思うのは、異様な考えでしょうか。

文法って難しい

 『まるごとエスペラント文法』 という本を読んで感じたのは、自然言語の文法だけあってあちこち に未整理の(というか、正確に言えば「整理のつかない」)部分がある なということでした。そのうちのいくつかについて、著者の藤巻謙一さ んに電子メイルで質問したところ、丁寧なお答えをいただいて感動しま した。

 そのとき、「こういう本も読んでみた方がいい」と勧められた本を、 「のほほん」の大半を書き上げてから読んでみました。

 そういう経緯なので参考文献には挙げていませんが、『文法の散歩道』 (小西岳、日本エスペラント図書刊行会(JEL))というのも重要な指摘 を含んだ“必読書”のひとつです。この本には「この言語の副詞という のは品詞のゴミ箱のようなもので、説明のつかないものはみな副詞に入 れているように見える」といった記述があります。「ゴミ箱」というの は副詞にかわいそうな気がしますが、用途や役割の広さからすれば、何 でも屋としてさまざまな局面で顔を出すのは当然と思えます。またこの 本には「動詞不定型の対格」といった刺激的な指摘もあちこちにありま す。早めに読んでおけばよかったかも知れません。

初学者の思うこと

 2001年4月現在で、まだ一年にもならない「超初心者」です。たとえ て言うなら、ことばを憶え始めた3歳児が面白がって手当たり次第にこ とばを撒き散らすようなもので、カタコトの、とても「らしい」とはい えないエスペラントしか操れません。

 三歳児が母語の文法を整理しようなどと思わないのと同じで、一年未 満の学習者がエスペラントの文法をまとめてみようと思うのは無謀のキ ワミでしょう。にもかかわらずやってみたかったのは、筆者の「癖」じゃ ないのかなと思わないでもないです。あいにく筆者は三歳児ではないし、 これは母語ではないし、ほかの民族語に触れた経験も皆無ではないので、 どうしても「比較」したり「分析」したり「再構成」したりという発想 が出てきてしまいます。

 そういうわけで、ひととおり構文と語彙を学んだら(少なくとも「ひ ととおりは学んだな」と思えたら)、自分が学んだことを整理してみた くなって、こういうことをしてみました。すべては自分がこの言語を学 びながら感心したり疑問に思ったことを記したものです。

 こういうことをしようと思うと、自分の中であやふやなところがハッ キリしてきて、今まで読んだ本をもういちどひっくり返したりしなけれ ばならず、ずいぶん勉強になりました。これから学ぼうかと考えている 人も、いま勉強中の人も、どこかで区切りをつけて(ひと休みして、と いってもいいです)、自分の勉強の成果をまとめてみるといいと思いま す。別にこの言語に限ったことではありません。どんな勉強でもそうい うことをしてみるといいんじゃないかと思っています。

 この文章を読んでいる人は当然コンピューターを持っていてワールド ワイドウェブを覗ける人だと思いますが、筆者のようにそのまとめを自 分のウェブページに掲載するのもいいでしょう。それを読んだ人がまた この言語に興味を持ってくれたら素敵じゃありませんか。

 もちろん、「よく判ってもいない学習者」がすることですから、熟練 者によるものとは質の面で雲泥の差でしょう。が、雲は雲でいていい代 わりに、泥は泥なりにいたってかまわないのがウェブという世界です。 昔はこういうことをしても自分の手元に手書き原稿が残るくらいでした が、今やそれを「発表」して、自分以外の多くの人に見てもらえるんで す。少なくともそうなる可能性があると思えば、まとめの作業にも張り が出るでしょう。


(2001.xx.xx)




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