ブロークン・ハート




 休み時間の教室といったら、それはもうすごい騒ぎなのだ。

 「昨日見たぁ?」

 「見た見た。ユージくんかわいかったー」

 「えーあたしはタッちゃんの方が好き」

 「ねぇねぇ聞いて。廊下でカレとすれ違っちゃったー♪」

 「まじ? いいなー」

 「見て見て。昨日駅前の文房具屋で見つけたの」

 「おーっかわいいじゃん」「あん。それあたし狙ってたのに」「早い もの勝ちだもん」「だもん」「もんもん」

 女子がそんな話に興じているなら、男子だって負けちゃいない。

 「ねみい(眠い)よぉぉ」

 「えーまじぃ? まじかょそれ」

 「風呂笛氷子いいよな。まじいいよな」

 「ゆうべのイタリア対ブラジル見ちゃったんだよ〜」

 「鬚鷲雫いいよな。まじいいよな」

 「ほんとだって。13面行ったんだから」

 「おれはさいきん日之牛愛子」

 「だめだよあんなの。いい子ぶってるだけじゃん」

 「あんなのがきじゃんがきじゃん」

 もちろん女子や男子がみんなそんな話をしているわけでもない。たと えばクミコは周りの見解によれば「がっちがちの固茹で」で、浮いた話 も聞かなければこんな雑談に乗っかってもこない。別に変人じゃなくて、 髪を束ねるゴムの色は毎日変えてくるし、それも同じ色を以前につけて たのがいつか誰も思い出せないくらいたくさんの色を持っている。制服 の襟元のリボンのいちばんかわいく見える結び方もきっちり崩さない。 こっそり眉を描いたり紅をさしてきたりするのに比べると穏やかな方で はあるけど、年頃相応の身だしなみには気を使っている。隣のクラスに はそんな神経まるでゼロ、ただ起きてそこら辺の服を体に巻きつけて来 ました、みたいな信じられない女子もいるそうなのだ。ちゃんと仲良し もいるしお昼はみんなと一緒に食べている。でも休み時間にはたいがい 分厚い本を広げてひとりで読み耽っている。輪に加わるときも人の話の 聞き役に徹している。まぁ、そんな子もいる。

 実のところ化粧には興味がないし、クミコやハルコたちのおしゃれへ の執着は理解できなかったし、どうしてみんながテレビタレントや学校 のセンパイのことできゃいきゃいするのか内心疑問だらけだった。回り からはしばしば「変わってる」とも言われる。それでも、男子から〈歩 くことばの速射砲軍団〉と渾名される(いつかシメてやる、とミユキは 怒っていた)女子仲間の一員に滑り込んでいた。嫌いじゃないんだ、こ ういう雰囲気。ユッコは〈中心メンバー〉ではないけど、むしろその雰 囲気の中でみそっかすみたいな感じだけど、みんなといると楽しい。ハ ルコがお姉さん格でグループを引っ張る役。話を切り出したり盛り上げ たりするのはミユキ。それに絡む感じでユカやサオリたちがいて、みん なでがやがややる。同じ歳なのにこういう〈役割の違い〉が出るのって 不思議で面白い。その傍らで、クミコは淡淡と分厚い本に没頭している。

 速射砲の撃ち合いはチャイムとともに先生が入ってきた時に終わる。 瞬時の和平条約、一時間の停戦。みんな大騒ぎで席につく。でも静かな 授業の裏側で秘かなゲリラ戦は休むことなく続いている。

 例によって秘密の回覧が回ってくる。白い小さなメモ用紙に色とりど りの細かい字がぎっしり書き足されて女子仲間の間を伝ってくる。発信 はミユキで、「放課後、K――に寄ってアイス食べよ」。それに賛成の 書き足しがいくつか。不参加も何人か。クミコはこういうときはつき合 いがよくって、「わたしも行くぅ」なんて書いている。

 ユッコはちょっと考え、断りの返事を書き入れて次に回した。

 五時間目の終了のチャイムはいつも自由の鐘みたいに聞こえる。友達 の顔がみんな開けっ広げになって見える。話し声が炸裂する。

 放課後は全校の生徒が校内で行き交う貴重な時間帯でもある。まぁ、 登校時もあるし授業の合間の休み時間も昼休みだってあるけれど、この 解放感の中での接近遭遇の緊張は、ほかの時間帯にはないものなんだな。 校門まではグループ行動なんだけど、それぞれお目当ての男子がいたり して、廊下ですれ違ったり下駄箱で見かけたりしようものならそれはも う大騒ぎなのだ。あたしにはできないなぁなんて思う。その証拠に――

 土足に履き替える時にこけてつんのめって簀の子板の上をとっとっと とケンケンみたいに跳ねてしまって上がり口で両手をついたら、ちょう どそのときケンスケくんが通りかかった。ユッコはそのままの姿勢で固 まった。早く体勢を立て直さなきゃなんて思いもよらない。

 (やばっ 見られた)

 ケンスケくんはユッコの姿をちらっと見やり、おっという感じで目を 瞠りかけて、しかしそのまま一緒にいた男子グループとのお喋りを続け ながら自分たちの下駄箱の方にさっさと行ってしまった。

 (見られちゃった……こんなとこ……)

 ユッコはピンク色の糸がこんがらがったような気持でいっぱいのまま ぼんやり立ち直り、それで、そんなことをほかの友だちみたいに「聞い てよー恥ずかしいカッコあたしのラブくんに見られちゃったよー」なん て、言えないのだ。ユッコは片足靴下のままケンスケくんの後ろ姿を見 送った。

 ぼーっとしすぎていたらしく、外に出たら友人たちの姿はもうなかっ た。ユッコは一人で家と正反対の方向に歩き出した。この方向にあるの はスポーツセンターと図書館くらいで、ほかの生徒たちは滅多に行かな い。ユッコは十分ほどの道をわざととろとろ回り道をした。 好奇心にかられた友人が後をつけてこないとも限らない。もし決定的な 瞬間を捉えられたら、次の日からクラスで何を言われるか判らない。用 心するに越したことはない。ちょっと真面目に考えすぎかな、とも思う けれど、友人たちの反応は予測不可能だし、実はユッコ自身、尾行をま きながら歩く自分に、正直のところドキドキものだったのだ。まるでテ レビドラマの一場面みたいに思えて楽しかった。

 とろとろ歩きながら、さっきのことを考えたりした。

 (ちらっとだけど、あたしを見てた……)

 そう思い出すだけでうなじの辺りに血が上ってくる感じがする。

 (恥ずかしいな。あたし、莫迦みたいだな)

 でも、あのときのケンスケくんはユッコを見て、表情を変えた。ユッ コという存在を認識しているような表情に、それは見えた。笑いかけた だけのように見えたし、声をかけようとしたようにも感じられた。

 (まさか、……でも、完全シカトくらったんでないだけ、ましかも)

 落ち込んだりちょっとうれしくなってみたり、落ち着かない気持は、 目指す建物に辿り着いていちおう消えていった。

 ミユキたちに言わせれば、ケンスケくんは「そんなに悪くない」。ク ラスは離れていても女子の情報網は完璧だから知りたいことは大概判る。 ぽーっとしていて穏やかで、はしゃぎ回ることはなく、よく見れば有名 なサッカー選手に似ているが体育でも勉強でも目立たない。でも人が嫌 がることを進んでやるし、女子に意地悪もしない。クラス内偏差値61、 校内偏差値55、「案外いいとこあるよ」というのが同じクラスにいるミ ユキの友だちの評価。「でも、今のところ対象外」というのもみんなの 正直な評価。それぞれ既に意中の男子がいたりするから。

 ユッコが彼を知ったのは三ヶ月くらい前だった。図書館にいすぎて帰 りが遅くなった。ところどころ小走りになりながら急いで帰る途中、坂 道で派手にすっ転んだ。パンツが見えちゃいそうなほどスカートがめく れて、膝が擦りむけてて恥ずかしくて鞄の中身は飛び散ってやりきれな くてどうしようもなかった時、スーパーマンのように現れたのだ。

 ありふれた話。その少年は、茫然としているユッコをよそに知らん顔 で荷物を集めて泥を払って鞄に詰め、ずでっとしたままのユッコを腕を とって引き上げて立たせるとその胸に鞄を押しつけ、「気をつけろよ」 と言うとニッコリ笑って嵐のように去って行った。茫然としながらもユッ コの高精細カメラの目は彼の制服と襟章から同じ学校の生徒であること を確認していた。

 気になり始めてみると、仕種のひとつひとつ、表情のひとつひとつが、 かわいいというのか、カッコいいというのか、なんというのか、何とも 言えないのだった。いっときもう相手がいるという噂が秘かに流れた。 その時は顔を見るのが辛い気がした。後でそれは嘘だという情報が入っ た。なんだかスキップしながら帰りたい気分になった。じきに女子には 興味がないらしいという説が流れ、ケンスケくんは一気に「謎の男子」 になった。

 あの「出会い」がユッコが彼を知ったはじめであり、同時に彼を意識 してしまうはじめだった。あれ以来学校ですれ違うたびにユッコは俯い てしまうのだ。まして何でもいいからきっかけをつかまえて(あるいは つくって)話しかけるなんて芸当はユッコには荷が重すぎた。ケンスケ くんは知ってか知らずか、ユッコを見てもいつもさしたる反応を示さず 通りすぎる。一度も彼とは口を聞いたことがない。クラスが違うから手 も足も出ない。その分ことばにならない想いが募る。ただユッコには、 それを何と言うのか判らなかった。

 図書館はものごころついた頃からユッコの好きな場所だった。なぜか は思い出せない。

 ロビーは例によってひっそりしている。

 今では図書館を利用する人間自体がそうたくさんはいない。図書館は もはや「過去の遺物」扱いされていて、フツウの人の近寄らない場所に なり果てているのだそうだ。今でも残っているのは、骨董的な値打ちと、 付属の設備が何かのイベントの時に使えるから程度の理由なのだそうだ。 「図書館なんて壊してしまえ。跡地を緑地公園や親水公園にしよう」な どと声高に主張する大人もいるのだそうだ。昔の本などというものはも う誰も有難がらないのだそうだ。何十年も前にみんなコンピューターに 入力されたからだそうだ。だから今図書館には最近の本はない。ユッコ はそうしたことを図書室の奥でよく会う白鬚の老人から聞いた。

 ロビーを右手に曲がると大きな両開きの扉があって、いつも片方の扉 が開いている。一歩踏み入ると黴臭いというのか、紙臭いというのか、 インク臭いというのか……「本のにおい」が鼻を打つ。この図書館は棚 に並ぶ本を自分で探すことができる「開架式」というのだと、何かの本 で知った。そうでなければ「本のにおい」はこんなにしないのだ。中に は例によって人影も疎らで、カウンターで司書のおねえさんが手持ち無 沙汰のような感じで椅子に坐っていた。よくまあこんな人の少ないとこ ろに毎日いられるものだと思う。退屈しちゃわないのかな。

 おねえさんは入って来たユッコに気づき、ちょっと微笑んだ。ユッコ もお辞儀を返した。司書のおねえさんはほっそりとして背が高く、黒髪 はわざとらしいほど長くまっすぐで艶やかで(眠る時どーしてんだろ?)、 細面で美形で、歳はまだ若いみたいなのに大人の雰囲気たっぷりだった。 ようするに、ユッコはなんだか憧れていた。よっぽど暇なのか、おねえ さんは小声で話しかけた――人は殆どいないのだから物音を気にする必 要はないのだけれど、それだけにちょっとした声でも部屋中に響いて聞 こえそうなのだ。

 「よく来るわね」

 「ええ、まあ」おねえさんが声をかけてくるのは初めてだ。ユッコは はにかんだ。

 「本、好きなのね」

 覗き込むような微笑に、ユッコは俯いてしまった。耳がぽっぽと火照っ ている。おねえさんはさらに小声になって、

 「変な目で見られない?」

 「変な目?」

 ユッコは〈噂〉を思い出した。「図書館って、やっぱり来ちゃいけな いところなんですか」

 おねえさんは意外そうに目を瞠り、笑った。

 「そんなことはないわ。本は、楽しいでしょう?」

 ユッコは頷いた。

 「面白くって、止まらないよね。わたしも本が好き。でも、さいきん はそんな人はめっきり減ったみたい。あなたみたいな人が来ることも滅 多にないから、つい、気になったの。ごめんね」

 ユッコはまた自分の耳の辺りが熱くなるのを感じた。真っ赤になって なきゃいいけどな、と思った。

 「誰にも知られないようにしているから、だいじょうぶ」

 「そう?」おねえさんは左の眉をちょっとだけ動かした。「ならいい けど。そう、誰も知らないんだ」

 「あのう……こんなところによく来てるってのを、知られたら、あた しどうなっちゃうんですか?」

 おねえさんは微笑んだ。「妙な噂を聞いたのね。嘘よ。来ちゃいけな いなんてことはないし、通ってるからってどうってことないの」

 「ケーサツにツーホーされてホドーされちゃうとかってことは……」

 「そんなことしません」ユッコの目に怯えを見て、おねえさんの微笑 が苦笑に変わった。「安心しなさい……わたしはそんなことをしないこ とになってるの。さ、今日も読みたい本があるんでしょ。行きなさい」

 ユッコは促されて頷いてカウンターから離れた。自分を待ち構えてい る本の森を目にしたら、ケーサツもホドーもきれいにふっ飛んだ。

 ユッコはときどき想像するのだけれど、サンドイッチをたくさん作っ て、水筒にお茶を詰めて、ここに一週間も泊り込んだらどんなに楽しい だろう。眠くなるまで本を読んで、目醒めたらまた本を貪り読むのだ。 一週間だって読み切らない。一ヶ月だって無理だろう。いっそのことこ こに台所を作って、ベッドなんかも持ち込めたらいいのに。

 最近はまっているのは〈数学〉の本。難しいことは判らない。簡単そ うな本を手にとったら、面白いことがいっぱい書かれていて、ついのめ り込んだ。

 スゴイと思うのは、簡単そうなことが、次第にすごく難しいことに切 れ目なくつながっている――ユッコにはそんな風に感じられるところ。 初等整数論なんて分野がある。整数という、誰もが幼稚園の頃から使っ ているようななじみの深い数の性質を調べるのだそうだ。読んでみたら、 そんなありきたりの数にもいろいろな面白いことがあるのだと知った。 その数自身を除いた約数全部を足すとその数自身になる、そんな数を 「完全数」というのだそうだ。なんて不思議な名前なんだろう。そうか と思えば「友愛数」とか「婚約数」なんていうのもある。ただの数なの にどうして特別な名前がつくんだろう。どんな違いがあるんだろうと思っ たら、タンキュウシンが発動した。それ以来ユッコは数学情報収集ロボッ トと化した。

 「ほう、また〈数論〉か」声がした。白鬚の老人だった。何だかよく 判らない文字が表紙を飾っている古い洋書を抱えていた。ユッコはにっ こり笑って会釈した。

 老人はユッコの隣に腰を下ろしながら、「よっぽど好きなんだな。将 来は数学をやるのかね」

 ユッコは小声で、「トンデモナイ。あたし、スウガクなんか判らない よ。でも、見てると面白いの。数ってただの数の癖に不思議なもんなん だなぁって。それにあたしの知らないところでこんなものすごいことを 考えてる人がいるってのも、すごいことよね」

 「そうだな」老人は白鬚だらけの顔に微笑を刻んで、「自分が生きて いなかった頃から、いろんなことが考えられてきて、いろんなことが試 されてきて、その積み重ねが今をつくっている。自分はそれにまったく 関わっていないのに、本を通じてその営みに触れることができる。不思 議なことだし、素敵なことじゃな」

 ユッコは頷いた。何度も聞かされた話。でもぜんぜん聞き飽きない話。 その後には、ちかごろはだれもかれも……

 「近頃は誰も彼も昔の本を莫迦にする。時代遅れどころか四周半くら い遅れてるとな。もはや昔の本には今に役立つことは何も書かれてない とな。コンピューターでデータベースを検索すればたちどころに欲しい 情報が手に入るというわけだ。しかし、そんなものではないよ。昔に学 ぶことはたくさんある。それに、役に立つことだけがすべてではない。 世界をよくする考えもあれば世界を滅ぼす危険な思想もある。世の中の ためになる学問もあれば害を及ぼす行ないもある。それらをぜんぶ含め て人間なんだ。昔の本にはそれらが溢れていた。いい部分も悪い部分も ぜんぶ含めて、それで人間なのに……」

 ユッコは老人の話が始まると読みさしの本をおいて聴き入るのが常だ。 何だかとても憧れを掻き立てられるような気がする。

 「……それどころか、いまの本は紙屑同然じゃ。薄っぺらい思想もど きか、くだらない筋立ての話か、わけの判らないことばが渦巻いている ようなものしかない。そんなものしかなくなった。そんなものよりは、 昔の本を読む方がよっぽどためになると、わたしは思うよ」

 老人は話を終えると、ユッコの目を覗き込んだ。

 「きみは人間をよく知りたいようだな。なら、昔の本をうんとたくさ ん読むことだ。いっぱい読みなさい。〈いい〉本も〈悪い〉本も」

 ユッコは頷き、老人が謎の洋書を開くのを見て自分の本に戻った。

 老人はユッコが来る時は大抵いた。ユッコが初めてここに足を踏み入 れて以来、何度となく会ってきた。ユッコの知らないことも老人に聞け ば大概教えてもらえた。どんな本を読むといいかも助言してくれた。本 人は見たところ語学関係が好きらしく、よくユッコの全然知らない文字 ばかり載っている本を読んでいる。ちゃんと聞いたことはなかったけれ ど、どうやら一人暮らしらしい。あり余る時間を本とともに過ごすこと にしたのだろう。そんな風に好きなだけ図書館にいられる立場が羨まし い。

 ユッコのような〈子ども〉が図書館に通うのは〈禁止〉されている。 別に生徒手帳に書いてあるわけじゃないし誰もユッコの制服を見て咎め たことはないけれど、なぜだかそんな〈噂〉がある。

 六年生の頃のある日何人かで、卒業のこと、春から中学生になること ではしゃいだりしんみりしたり考え込んだりあれこれ話し込んでいた時 のことだったと思う。誰かが何かのついでに「トショカンって、中学生 が行っちゃいけないんだって」と話し出したのが、ユッコがそれを知っ た初めだった。「いけないって、どういうこと?」「どうなるの?」 「さあ? 知らないけど、いけないらしいよ」「セッカンされたりする のかなぁ」「ギャクタイされちゃうんじゃないの」「いやーん、お仕置 よぉ〜」その場では結局笑いに紛れたけれど、ユッコはちょっと穏やか じゃなかった。

 それがどういう類の〈禁止〉なのか、けっきょくユッコは知らない。 ナントカ法で決まっているのか、青少年育成条例とか(名前は聞いたこ とあるけどどんなものなんだろう)でそうなっているのか、PTAの申 し合わせなのか、ユッコや友人の親がたまたまそういう考えの持ち主な のか、学校によくある〈根も葉もない噂〉の一種なのか――大人の人た ちは「都市伝説」とかいう大げさな名前をつけてるけど、たあいもない、 「なんたらいうゲームを午前二時にやっていると画面にもやもやした人 影が映って、じっと見つめていると画面にひきずり込まれる」とか、そ ういった類の。

 知らないから、ユッコは通い続けた。知っていても通ったかも知れな い。ユッコは本も図書館も大好きだったのだ。

 「はい、胸を開いて」

 湯島博士は無頓着にそう言って、ユッコが胸を開くのを待った。

 湯島博士というのは、もう六十を過ぎているんだろうか、小柄で、太っ ていて、頭はてっぺんが禿げていて、でも両脇には白い毛がもじゃもじゃ していて、鼻が大きくて目も大きい、人なつっこい先生だ。何度も何度 も会って話もしている。この先生のことを決して嫌いじゃない。でも、 この場所にはユッコはなじめなかった。

 ユッコの家から電車で五つ目の大きな駅の近くにある、大きな建物だ。 いつ行っても薬品と金属の臭いがする。その臭いが好きじゃなかった。 それに、静かすぎる。耳を澄ましていると頭の中にきーーんという音が 聞こえてくるくらい静かだ。それに窓のない廊下や部屋の蛍光灯が白白 しい。ものごころついてから何度も来ている場所なのに、ぜんぜん好き になれない。この日は行きも帰りも、ママもユッコも無口になってしま う。それも厭だった。

 大人たちは「定期検診」ということばを操っていた。ユッコのほかに どれくらいの子どもが検診を受けているのか知らないのだけれど、だい たい月に一度は訪れて、あちこちを調べられる。何のためにそんなこと をするのか未だに知らない。

 この場所に比べれば、検診自体は、以前はまったく厭なことではなかっ た。湯島博士は例によってつまらない駄洒落を言いながらユッコの体を あちこち覗いたり触ったりして調べた。以前はそんな駄洒落に素直に笑 えたし気も和んだものなのに。いまユッコはひたすら身を硬くして「診 察」に堪えている。ママは外で待っている。孤立無縁だ。いや、ママが いたって。

 湯島博士は聴診器を置くと、ユッコに言った。

 「大きくなったね」

 そう言われてもユッコには何もことばを返せない。返す気にならない。 ユッコは俯いたまま無言でいた。

 「何も心配ないよ。どこも悪いところはない。ちょっとそこで休んで おいで」

 湯島博士はそう言ってユッコにカーテンの陰にある寝台を示し、ユッ コをが立ち上がるのを待って看護婦に合図した。ユッコは扉が開く音と ママの足音を聞きながら、力なく横たわった。ママの挨拶。たったカー テン一枚向こうなのに、ずいぶん遠くのように聞こえる。ユッコは目を 閉じた。

 「……ユッコくんは順調ですな……」湯島博士の遠い声がした。ママ が何か言っている。

 湯島博士の笑い声がした。「それは気にし過ぎでしょう……」またマ マの声。湯島博士が「ただどうやら図書館に……知識欲というものが……」 さらにママ。湯島博士はまた笑った。「……もちろん経過観察は……ご 主人はまだ単身赴任で? そうですか……いや、なにぶん微妙な時期で すから……あなたがたご夫婦の理解と協力も……」

 ママはあたしの何が心配なんだろう、ユッコは薄ぼんやりと思いを巡 らせる。やっぱり図書館は行っちゃいけないんだろうか……

 帰りには駅前のデパートでお昼を食べる。もっと幼い頃は休みの日に パパやママに連れられて、ここでご馳走を食べて、屋上で遊んで帰るの が好きだったのに。人も車も込んでいる休日の街を見下ろしながらテー ブルを挟むのは変わらないけれど、今はふたりして黙黙と鳥ソバをすすっ たり、白身魚のフライを突っつき回したり、ストロベリーパフェをかき 混ぜたりする。気まずい。

 今日のお勧めのカルボナーラも喉を通らず、ユッコは思い切って聞い てみた。「ねえママ、あたし、どこかおかしいの?」

 ママはきのことチーズのリゾットから顔を上げた。目の辺りに一瞬戸 惑いが走った。「そんなことないわよ」

 「……なんであたし、〈定期検診〉受けてるの?」

 「…………必要な検査だからでしょ。ママもよく知らないの」

 ママは嘘をついてる。自分たちの子どものことなのに、月に一度、けっ こう時間もとられるのに、知らない筈がない。

 「でも、友だちにはこんな検診受けてる子いないよ。あたし聞いてみ たもん」ユッコも嘘をついた。

 ママの目がちょっと恐くなったように見えた。「あんた友だちに言っ たの、検査のこと?」

 「ううん……」言えるわけがない。

 「そう」ママは少し口調を和らげて、「言うんじゃないのよ」

 ユッコはフォークにスパゲッティをぐるぐるぐるぐる巻きつけた。で も、じゃあ、あたしはやっぱり何かあって検査を受けてるってことじゃ ないのかしら?

 「食べないの?」

 「うぅん……ねえ、あたし、どこか悪いんじゃないの? 体のどこか か、それとも……」

 「莫迦なこと言うんじゃありません」

 きつい声。たしなめる声。前にママのこういう声を聞いたのは、いつ だったっけ……ユッコはうろたえた。

 「じゃあ、なんで……?」

 「ちょっと、体が弱かったんだって」ママは皿から目を上げると深め の息をついて、「赤ん坊の頃のことで、もう大丈夫のハズなんだけど、 念のために検査は続けましょうっていうから……湯島先生がね。それで よ」

 ママはコップの水を見たりテーブルクロスを見たりしながら、まるで 途切れることを心配しているかのようにゆっくりとことばを続けた。

 「もう完全によくなってるんだけど、成人するまではって……用心す るに越したことはないって言ってくださってるから」

 嘘だ、とユッコは思った。湯島博士の部屋で洩れ聞こえた会話とちょっ と違ってる。心配してるのはパパやママの方なんだ。それに……「弱かっ たんだって」? そのことばに、別の新たな疑問が生まれてきた。まさ かあたし、本当はパパとママの子どもじゃないんじゃ……

 それは昔からときどきほんのりとユッコの心を染めた疑問ではあった。 でも人は誰でも子どもの頃はそんな疑いを持つものだと図書館で読んだ 本に書いてあった時、ユッコは笑ってその色を消した。でも、今のママ の言い方って、何だか……

 「ママ……あの……」

 フォークに巻きつけたためらいを少しほどいて話そうとしたら、ママ のことばがユッコの頬っぺたを打った。

 「お料理、食べちゃいなさい」

 「うん……」

 ユッコはぐるぐる巻きのフォークを取り上げた。もともとなかった食 欲はさらになくなっていた。

 帰ってからも何もする気にならず、ずっと部屋で閉じこもって過ごし た。

 あたし、ホントのとこ、どうなんだろ。なんでいつもいつも〈検診〉 受けなくちゃいけないんだろ。ホントにあたしはパパとママの子どもな んだろうか。図書館に通うのはやっぱりいけないことなのかしら。あた しはどうなっちゃうんだろ。やっぱりあたしは変なのかな。……こんな んじゃあたし、ケンスケくんに嫌われちゃうかな。ユッコはなんとなく そんなことを思った。なかなか寝つけなかった。

 グループにはしっとり融け込んでいるにもかかわらず、読書中のクミ コの様子は人を寄せつけないものがある。みんなで騒いでいる時には雰 囲気が違うし、だからこれまでクミコに本の話をしたことがなかった。

 いつもの仲間がばらけていた昼休み、クミコの抱えている本がたまた まユッコも知っているものだったのを見て、ユッコは意を決してどきど きしながらクミコの隣に坐った。クミコはちらと顔を上げて、ユッコに 気づくと(なに?)と言いたげに首を傾げた。

 「その本……あたしも読んだことある」

 クミコが読んでいるのは白鬚の老人が顔を顰めそうな今どきの本だけ れど、ユッコは今どきの本も決して嫌いではなかった。

 「そう? ……面白いよね、この作者。ユッコも好きなの?」

 ユッコが頷くのを見て、クミコは意外そうに目を瞠り

 「ふーん、ユッコにも判るんだ。こういう面白さ」

 見透かされたような気がして、ちょっと顔が熱くなった。気色の悪い 夢のような場面が続く話を書くかと思えば、まるでただの思いつきの羅 列のような軽い軽すぎる話もあったりする、いったいどんな〈作風〉な のかよく判らないヘンな小説家で、実はユッコにはなじめなかったのだ。

 「わたしはカンガルーものが好き。カンガルーがあちこちをうろつき 回ったり飛び跳ねたりするのがサイコー。ユッコは?」

 「あたしは……カンガルーものはよく判んなくって」それだけ言うの が精いっぱいだった。クミコは確認するかのように頷くと、

 「わたしの見るところ、カンガルーものって『人間性の危機{ヒュー マン・クライシス}』がテーマだと思うの。つまり、カンガルーは袋小 路に追い詰められた人間、または人間性の象徴で、それが出くわす事件 や状況は、実は現代の終末的な状況を言語的に描出したものなのね。言 語的に描出って、すなわち、混乱は意味の混乱で表し、混迷は描写の混 迷で表すってことよ。まぁそれ自体が小説的な冒険でもあって、いつも 成功しているとは言えないし、理解もされにくいのは確かだけど。で、 そういう事件や状況から、彼または彼女はジャンプすることによってし か〈脱出〉できない。これは実は何の解決にもなっていないし、ジャン プした先でまた別の事件や状況にはまっちゃうんだけど、それでも、ジャ ンプするしかないんだ、という主張なんだと思うの」

 流れるように自説を展開した。このヒトやっぱりスゴイ、と、ユッコ は思った。

 「ユッコには、ちょっと判らないかもね」

 「そう……かしら?」ユッコはひやひやした。

 クミコは続けた。人間ならば誰でも感じる現実との乖離感、コミュニ ケーション・ギャップとそれらを解消するための〈スピリチュアルなジャ ンプ〉を描こうとしているんだ、あのポケットは絶望と哀しみのブラッ クホールなんだ、などなど……クミコはひとしきり話すとことばを止め て口を噤みユッコを見やって、やさしく微笑んだ。ユッコは返事に困っ た。

 「あたしカンガルーものがそんなに深いものだなんて知らなかったし…… その〈すぴりちゅあるなじゃんぷ〉ってのはちょっと……」

 判る気がしない。この歳になればそういうことばも聞くことはあるけ れど、どうにもぴんと来ない。

 文学少女は頷いた。「ユッコって変わってるからね」

 「へ? そう?」

 ユッコは呆気にとられた。クミコがそんなこと言うのは初めてだ。そ れに、クミコにそんなことを言われるのは、何か違う感じがする……

 「あたし、変わってる?」

 「うん……ちょっとね」

 またか、と、ユッコは思う。

 いつも何かやるたびに、「ユッコって変わってる」と言われたっけ。 何が変わってるのか、なんで変わってるのか、ユッコはついに判らない。 たった十何年かの記憶なのに、なにかそういうことばかりだったような 気もする。おかげで今では「いつものちょっとした違和感」程度、すっ かり仲良しになってしまった。変わってる、カワッテル――〈検診〉が 頭をよぎり、ケンスケくんが――

 何かを訊こうとしたら、クミコはふたたび本に目を落として、もう話 しかけるのが悪いような没頭ぶりだった。ユッコは仕方なくことばを呑 み込んだ。

 体育の時間はこの頃ちょっとしたセンセーションタイムだ。

 最初にその事実が明らかにされたのは一週間ほど前のこと、発見者は ミユキだった。走り高飛びの順番を待っている時に何の話からか胸の話 題になり、どういうわけかミユキは大きさを確認しようとサオリの胸を つかんだ。その途端、ミユキは放心したような表情になった。

 「なんか、すごく柔らかいんだけど?」

 「うん」サオリはあっけらかんと答えた。「してないもん」

 「ブラを?」

 「もちろん」

 「もちろんてことないでしょ。体育であんた、それはマズイって」

 「マズくないって。ブラなんて窮屈なだけだよ。それに、自由に放し 飼いにした方が育つってよ」

 「ほんと?」

 「ほんとほんと。してみなさいって。解放感いっぱい。気持いいから」

 かくして、歩くことばの速射砲軍団は歩く放牧軍団になり、体育の時 間になると――でなくてもその傾向があったけれど――互いに触って放 牧の有無を検査し、団結を確認するのだった。ユッコは内心大歓迎だっ た。ユッコはずっと胸をしめつけるあの下着をつけていないからだ。

 その日も触りっこが始まった。

 「お〜、やわい。やわいな〜」

 「病みつきになりそうだよ」

 「病みつくなよ」

 ユッコも意を決して参加することにした。

 「ねえ、あたしも触って」

 でもみんなの反応は期待していたものとちょっと違ってた。

 「ユッコのは……ちょっち、触れんわ」一番の触りたがりのミユキが 言った。

 「えー、どうして。みんな触りっこしてるじゃん」

 「でもー、いいよ」「あたしも」ユカもサオリも棄権した。

 「なんでえ? 遠慮しなくったっていいよぅ。あたしも平気だよ」

 「いいよう」

 みんなしてユッコの胸の辺りを困惑の目で見つめていた。ハルコが言っ た。

 「だって……あんた、ひときわでっかいんだもん」

 気がつけば、確かに、ユッコの胸は他のみんなのよりも大きいのだっ た。それもけっこう大きかった。ユッコは立ちすくみ、みんなはぎこち なく目を逸したりその場を離れたりした。

 やっぱりあたしは体が悪いんだろう、とユッコは思う。

 なんだか自分が自分の知らない別の何かに変わっていきつつあるよう で、ユッコはそんな自分の体が嫌いになっていた。それどころか、恐れ に似た気持を抱いていた。

 湯島博士のところに〈検診〉に行くのは、この体の「病気」のせいな んじゃないだろうか。この「病気」はいつ発症するか判らなくて、それ でずっと通ってたのでは? ママが言ってたのもこれのことなのかも知 れない。そしてそれが厭になり始めたのも、自分の体の変化と関係があ るんじゃないだろうか。

 半年くらい前からだろうか、目を醒ますと体が変わっている、みたい なことが断続的に続いている。

 ときどき、大して疲れてもないのに眠りがすごく深いことがある。そ れはぐっすり眠るどころではなく、本で知った言い回しで言うなら、泥 沼に落ち込んで行くように夢も見ず見じろぎひとつせずに睡眠の深みに はまるような感じ。そう感じるのは、意識のモニターディスプレイにも 何にも映ってないから。そんなときは眠った気がせず、寝覚めもあまり よくない。そしてそんな日に限って、朝着替える時に見ると胸が大きく なったような感じがする。スカートを履く時には腰が張ってるというか おしりが大きくなったような気がする。

 いつしかクラスの仲間よりも胸が大きくなってる! だとしたら、 「病気」はどんどん進行してるんじゃない! 〈検診〉なんて受けてる 場合じゃない。それとも……もう手遅れなの? そんなことを考えると なんだかどんどん憂鬱になってしまいそうで、学校をパスして早く本の 森に駆け込みたくなる。

 たぶんそうとう暗い顔をしてたんだろう、おねえさんは「具合悪いな ら言ってね、奥の部屋で横になれるから」と言ってくれた。好きな本を 読んでいれば気も紛れるし楽になるかと思ったらそんなことはなかった。 憂鬱そうな感じが伝わったのか、白鬚の老人がたまりかねたように話し かけてきた。

 「きみ……大丈夫かね。ひどく塞いだ顔をしているが」

 ユッコは切なそうな目を老人に向ける。「ありがとう。だいじょぶ、 です……」

 「大丈夫じゃないじゃないか」老人は辺りを見回した。どうせろくに 人もいないから気にする必要はないのだが、あまりにも静かな室内では そうなってしまうのだろう。

 「何か心配事があるなら言ってみてはどうかな。わたしには何もでき ないが、話すだけで楽になることというのもあるもんじゃよ」

 ユッコはしばらくためらった。でも、老人の言う通りだと思った。ひ とりで抱えているのはなんだか辛い気がしたし、老人になら話してもよ さそうに思えた。

 ふたりは閲覧室を出てロビーの隅の長椅子に坐った。老人が飲物を勧 めた。ユッコは礼を言って受け取り、口を湿らせると、自分の体に起こっ ている〈異常〉のことを話した。

 白鬚の老人は興味深げにユッコの話を聞いていた。聞き終えると、

 「目が醒めるごとに体が変わっている、か……さて、そういう話を何 かの本で読んだことがあったような」鬚を撫でながら考え込んだ。

 「……あたし、どうなっちゃうんでしょうか」

 老人はやさしくユッコを見つめて、ことばを選びながら、「安心しな さい。きみは病気でそうなるのではないよ」

 老人は持っていたポーチからパイプを取り出し、ユッコの許可を求め、 煙草を火皿に詰めると長いライターで吸いつけた。

 「きみはいくつかな……ほう、そうか。でもずっと前からそんな背丈 だったわけじゃないじゃろう? これまでにも、背が伸びてきたわけだ。 それと同じようなことだよ」

 「背が高くなるのも不思議だったけど……でもこれは、背が高くなる のと全然別でしょ? 体のかたちが変わってくなんて……」

 老人は紙コップをくしゃくしゃに握りしめるユッコの姿をいたわるよ うに眺めた。

 「きみのママを思い出してごらん。そうなるんだよ」

 「あたしがママみたいに?」

 それはユッコにはとても信じ難いことだった。ユッコはユッコで、マ マはママで、なんか別のもので、自分はこのままずっと大きく なるんだろうと思っていた。どんどん変化して、ママみたいな体になっ ちゃうなんて予測していなかった。そんなユッコを慰めるように、

 「信じられない、か……そうかも知れんな。だとしてもきみのせいじゃ ない。気にしなくても大丈夫だ。少なくともきみは病気ではないよ」

 「ほんと……ですか」ユッコは信じられなかった。

 「ほんとだとも」老人は静かに答えた。

 ユッコはしばらくためらい、やがて思い切って訊ねた。

 「あたし……あたし、変ですか?」

 老人は思いがけない問いに虚をつかれてしばらくユッコを見つめた。

 「自分ではよく判らないんだけど――あたし、いろんなところが変な のかも。あたし、変じゃありませんか?」

 老人の目に深い優しさが満ちてきた。老人は言った。

 「変ではないよ。わたしにはとても普通に見えるよ。ちっとも変では ない。きみは病気じゃないし、変わっているわけでもない。もう少し大 きくなれば判る」

 まるでことばで優しくユッコの心を撫でるかのように老人は言った。

 ある日の帰り道、いろんなことをゆっくり考えたくて、ユッコは遠回 りをした上とろとろと歩いていた。

 図書館通いは駄目だと言われたとしても止められない。チシキをキュ ウシュウするのは楽しい……でも、変わっていると言われる原因がそれ にもあるのだとしたら、控えた方がいいのかも知れない……カワッテル、 か。カワッテルってどういうことを言うんだろう。変と言えばあたしの 体も……白鬚の老人はぜんぜん変じゃないって言ってくれたけど……胸 が大きすぎる? やっぱり何かの病気なんじゃないかしら……ケンスケ くん……

 あの思い出の坂道を歩いている時、夕闇の中で問題のケンスケくんの 存在を感知した。ケンスケくんは塾の帰りか何かか、横道から現れて坂 を上ってくるところだった。気づくや否やユッコは木の陰に隠れた―― ようとしたけれど、隠れられる木がなかった。自分が木になった。

 ケンスケくんは俯き加減に歩いていて、近くまで来ると人の気配を感 じたらしく顔を上げた。同じ学校の制服だってことは判ったようだ。おっ というような表情で、でも、固まっているユッコの前を平然と通り過ぎ ていった。

 (そうだよね)とユッコは思った。(そりゃそうだよ)

 その瞬間、声変りしつつある男の子の声がした。

 「なあ、ちょっと」

 五十センチくらい飛び上がったんじゃないかと思った。首をすくめ、 肩を縮こまらせた。その肩に声が続いて降りかかる。

 「おまえ、3組の……ユッコってヤツだろ」

 声をかけられた! 不思議な気持とうれしい気持が一挙に混合し、心 臓部に噴出した気がした。しかもいつの間にかあたしの名前とクラス、 なんで知ってるんだろう! こわごわ振り返ると、ケンスケくんがぶっ きらぼうを人の形にしたような恰好で立っている。

 「なあ、そうだろ?」

 「はぃ……」

 夕暮れの中にケンスケくんとユッコは相対していた。ケンスケくんは 鞄を片手で肩に担いでいて、ユッコは鞄を両手で前に下げていて、俯い ていて……こんな場面、どこかで見たことがあるような……。突然のこ とに、ユッコの感覚器官も思考回路もパニックを起こしていた。ケンス ケくんは何であたしの名前を知ってるんだろう。いつかのあの日のこと を憶えてるだろうか。ケンスケくんはあたしのパンツを見たんだろうか。 あたしはニンシキされてるんだ。

 「こんなところで何してるんだよ」

 「……」ことばが出てこなかった。

 ケンスケくんはユッコをじろじろ眺めた。

 「……おまえ、図書館通ってるんだって?」

 「はぁ……」

 なんと答えたものか判らない。いくらケンスケくんの前でも、素直に はいとは言いかねた。でも、

 「ほんとうか?」

 重ねて訊かれたら、隠すことはできなかった。

 「えぇ、まぁ……」

 「今日も図書館帰りか、もしかして」

 「そう……です……」

 「ふーん」ケンスケくんはなんだかいやな目つきでユッコを眺めた。 なんで? トショカンって、そんなにいけないところなの?

 ケンスケくんはからかいとも威嚇ともつかない口調で言った。

 「人間だって寄りつかないトショカンなんてところに入りびたって、 何をしてるんだ」

 「は?」

 ユッコは理解できなかった。

 「そんなに人間のことを知りたいのか? 本をたくさん読めば人間に なれるとでも思ってんのか」

 「……あの……それは、どうゆう……??」

 「だってお前、人間じゃないだろ」

 「え……?」

 「みんな言ってるぜ。3組のユッコってやつ、人間じゃないって。ア ンドロイドだって」

 「アンドロイドって……なに?」

 「おまえ自分がアンドロイドのくせにアンドロイドのこと知らないの か」

 ケンスケくんは嘲るような表情を見せた。

 「アンドロイドってのはな、簡単に言えば、ロボットだよ。これなら 聞いたことがあるだろ?」

 「……」

 「ロボットの中でも人間そっくりにできてるのをアンドロイドって言 うんだってよ。なんでそんなものができたのか知んないけど、いい気な もんだよな、人間と同じに学校なんか通って」

 「…………」

 「どうしたって人間になんかなれっこないのにさ。人間なんかじゃあ り得ないのに。見ていておっかしいって、みんな言ってるぜ。お前のク ラスの男子も、女子も」

 「……あたし……は……人間じゃない……?」ユッコの唇から弱弱し い音が洩れた。まるで発声回路が故障したかのようだった。

 「そうだよ」ケンスケくんは挑戦するように言った。

 「それともお前、知らなかったのか? 自分が人間じゃないって?  そんなこと、自分で判らなかったのか?」

 「…………」

 「そういやこの間お前、下駄箱のところでこけてただろ。あれ、おっ かしかったなぁ。人間だったらもうちょっときれいにこけるぜ」

 ユッコは兎のように駆け出していた。

 どこに向かって走ってるのか知らなかった。パニックした頭の中で、 家のイメージが浮かんでいた。ユッコの脚が勝手に高速に動いていた。 急激に感度を増したユッコの耳がクラスの仲間たちのひそひそ話を捉え た――ような気がした。

 ――別にユッコなんて仲間に入れたいなんて思ったことないんだよ

 ――ただなんとなく、始業式の後で一緒になってたから、ね

 ――そうそう。何するでもないし、何か言うわけでもないし。みんな の後ついてくるだけでさ

 ――そのくせ何か用事ありげにひとりでどこか行ったりするし

 ――だいたいアイツさぁ……

 ――アンドロイド、だもんね

 ――人間じゃないもんね

 ――キモいよねぇ

 ――胸でかいしさ

 ――アンドロイドとしても、どっっかおかしいんじゃないの?

 ――そうだよ。きっと壊れてるよ

 ――そうそう。壊れてる、コワレテル

 机の上の電話が鳴った。

 報告を続けていた相手はことばを切った。湯島博士は少し待っている ように片手で合図をして席を立ち、机に戻って送受話器を取った。

 「はい、湯島研究室。おや、これはこれは。……なんですと。ユッコ くんが? 帰ってきたけど話しかけても反応を示さない。部屋に閉じ籠っ てしまった。そうですか……」

 湯島博士は椅子に深く坐り直し、目まぐるしい頭の回転につられるか のように視線をあちこち激しく動かしながら、口調だけはのんびりと答 えた。

 「落ち着いてください。こんなときの応急処置を教えますから、その とおりにしてください……」

 電話を終えて送受話器を置くと、湯島博士はソファに坐る女性に目を やった。

 「ヒロコくん、きみから報告のあった通りになったようだ」

 「過剰反応が起こりましたか」

 ヒロコ――図書館の司書は博士に訊ねた。

 「そうだ。ついに、来るべき時が来たようだ」

 湯島博士は抽斗を探り、少し古くなったファイルを取り出した。ファ イルの中には何冊かの書類と、十数枚の写真が入っていた。それらを選 り分けては眺めながら、湯島博士は記憶を確かめるかのように喋り始め た。

 「二足歩行式自律型ロボット――ヒト型ロボットは、技術的には、今 世紀に入るか入らないかの頃にブレイクスルーを得ていた。が、『アン ドロイド』にはまだほど遠かった。知能、思考、推論、感情をプログラ ムするには人間は知らないことが多すぎたからな。初めてのアンドロイ ドが生まれたのがやっと二十年前、普及型が生まれたのが十年前、そし て、人間と同じように〈成長〉する自己発展型アンドロイドの試作機が でき、モニターを募ったのが六年前のことだ」

 「憶えてます」ヒロコは微笑をほんのり浮かべて頷いた。「わたしは 先生の研究室の学生でしたし」

 湯島博士は女の子の写真を何葉か手にとり、眺めながら

 「アンドロイドを欲しがる人の中には、子どもができない夫婦もたく さんいた。しかし、子どもが永遠に子どものままでいることはできんか らな。〈成長〉できないとならない。赤ん坊から〈成長させる〉のはさ すがに当時は難しかったが、七歳くらいの子どもからなら人間と同じよ うに〈育つ〉ように、人工知能の成長曲線をプログラムすることはでき た。ただしそれは知能であって、問題は〈体〉だ」

 「自律的に〈成長〉する〈肉体〉は、やっとその頃から研究が始まっ たんでしたね」

 「そうだ。なにしろ、〈人間に似たもの〉ではあっても、生物じゃな いからな。バイオテクノロジーをそのまま適用することもできない。仕 方がないから、折を見てその子のシステムを一時停止{サスペンド}し、 ソフトウェアを新しい筐体に移し替えるということをした。まさに子ど もだましだが、いつまで経っても七歳の姿でいるよりはましだ。七歳の 体に不相応の意識を載せておくよりはな。しかしそれにも問題はあった。 そのように〈肉体〉が変化することで、本人の自己同一性が保てるかど うか」

 「で、私たちを随所に派遣されて、彼女をケアするように命じられた」

 「よくやってくれた」

 ヒロコは謙遜するようにちょっと俯いて、

 「しかし……ほんとうに自己同一性の危機に直面しているんでしょう か。見たところ、体に違和感はあったようですけど、悩んでいたとすれば それとは別のことだったように思えるんです」

 「かも知れないな。もしそうなら、予測の範囲外だ……どうなるか判 らん」

 また電話が鳴った。湯島博士は眉間に皺を寄せて送受話器をとった。

 「湯島です。……なに。ユッコくんが家からいなくなった?」

 あたしはヘンなんだ。あたしは人間じゃない。あたしは「あんどろい ど」。あんどろいどッテナニ?

 わかんない。ソンナことばドコカデキイタコトアルケド。

 ユッコは学校に来ていた。なんでこんなところに来たのか判らなかっ た。ここがどこなのかもあまりよく判っていなかった。ただある一念が ユッコをつき動かしていた。

 はっきりしてるのは――

 ケンスケくんに言われた。ケンスケくんがあたしをあんな目で見てた。 ケンスケくん――

 あたし、人間じゃないんだ。

 ニンゲンじゃないって、どういうことなの? ニンゲンじゃないと、 どうなるの?

 ああなるんだ。あのケンスケくんにあんなこと言われちゃうんだ――

 ユッコの目から透明な熱い液体がどくどくと流れ出した。何なのか判 らなかった。そんなものが流れてくるのは初めてだ。どうすればいいの か判らなかった。

 その液体で霞む視界の中に、ユッコはすべてを見た。今まで判らなかっ たことをぜんぶ、誤りなく記録した二次記憶から呼び出し、その超高速 のCPUと広大な主記憶空間を使い、最尖端の推論エンジンを最高の優先 度で動かして、ユッコはすべてを完璧に理解した。

 あたし、人間じゃなかったんだ。

 あたしはみんなと同じじゃなかったんだ。

 だからみんな、あんな風に。

 湯島博士――ママ――ハルコもクミコも――ケンスケくん――

 液体の流出が止まった。

 ユッコはシャツを脱ぐと、静かに胸を開いた。

 いつも〈検診〉で、湯島博士はこうして胸の中を覗いてた。ユッコは 開いた胸の中に自分の腕を挿し入れて、中を探った。

 あたし、人間じゃなかったんだ。

 ユッコの手は鼓動を刻む自分の心臓を探り当てた。何度かやさしく撫 でてから、無造作に握りしめた。一瞬、頭の中をノイズが走り、視界が 揺らいだ。

 ユッコは壊れた心臓をゆっくり引き抜いた。


(おわり -- 2001.07.07)

この物語は虚構です。登場する、あるいは引用/言及される個人、団体、 事件等はすべて架空のものです。現実世界との関連性を想起させる要素 があったとすれば、それは驚くべき偶然の一致であり、作者の意図する ところではありません。





注釈のつもりがあとがきになっちゃった

 このお話ではほんの彩り、エキストラ程度の役割ですが、数論(整数 論)は面白いです。たかが整数と侮ってはいけません。本格的(?)な数 論ともなると、世界でも最高の頭脳がしのぎを削る世界です。その水準 になるともはや「数」は姿を現さず、完全な概念操作の世界になってい る――に違いないと作者は睨んでいます。ちなみに、整数論の成果は暗 号などに応用されています。

 そんな、見かけ以上に凄い学問なのですが、初等整数論の玄関の上が りカマチの前のタタキあたりでごろごろしている分には、素人でもじゅ うぶん(少なくとも何の話をしているか判るという点で)楽しめます。

 完全数は知っている人も多いと思います。6や28が有名ですね。

6 = 1 + 2 + 3
28 = 1 + 2 + 4 + 7 + 14

 「友愛数」なるものを知ったのは、ずいぶん昔、『匣{はこ}の中の失 楽』(竹本健治)という探偵小説を読んだときでした。探偵小説にはし ばしば見かける、ずいぶんとペダンティックなお話でしたが、それに出 て来たのが出会い。ただし、そのことばが引かれているだけで、どうい う数なのかの説明はなかったと思います。それだけで作者に印象づけた わけで、やっぱり大した数です(笑)。ちなみに囲碁って面白そうだなと 思ったのもこの時です。ペダンティックな小説のいいところはこういう 〈出会い〉をもたらしてくれることですね。といっても作者が数学に興 味を持ったのはずっと後ですが。

 後で紹介する吉永良正さんの本によれば、 友愛数とは、次の条件を満たす数の対(a, b)を言います。

 実例としては、(220, 284)、(1184, 1210)などだそうです。暇な人は 計算してみてください。

 また、婚約数とは、次の条件を満たす数の対(a, b)を言います。

 実例としては、(48, 75)、(140, 195)などだそうです。

 どれも他愛のない数のように見えますが、これだけでもけっこうな 〈謎〉を秘めているそうです。たとえばこれらの数が無限にあるのかど うかはまだ判っていないそうですし、奇数の完全数は見つかっていない という話です。また、これまで判っている友愛数はみな偶数どうしか奇 数どうしかのいずれで偶数と奇数の対はなく、逆に婚約数は奇数と偶数 の対のみしか見つかっていないそうです(種本が少少古いので最新の情 報では違っているかも知れません)。偶数、奇数を女と男になぞらえる と、……ね、フシギでしょ。

 それだけでなく、こうした数の性質を調べていくと、もっと難しい問 題に行き当たったり、高度な理論に通底していたりするらしく、なんだ かチンピラと思って莫迦にしていたら実は親戚がヤクザの親分だったと か、ちょっとたとえは悪いですが、そんな感じで、「単なる数」といっ ちゃいけないって気がしてきます。まぁ、それくらい数学ってのは奥が 深いわけで、逆に学生時代数学に興味を持たなくて(持てなくて)ヨカッ タ、などつくづく思ったりもします。どうしてかって? ほかにも熱中 したいことがたくさんあるのに、この上数学までできるわけないじゃあ りませんか。

 友愛数・婚約数をやさしく解説した読みもの、初等整数論をやさしく 案内している読みものを紹介しておきます。

 星里もちるの真似をして(^^)、「勝手にキャスティン グ」コーナー(2001年7月7日現在)。

 こういう配役をイメージして書いた、というわけでは決して ありません。書き終えた後のただの遊びでです。ですから、本編を読み 終えるまではこの部分はぜったいに読まないでください。

役名キャスト
ユッコよく知らないけど藤原ひとみ
ケンスケよく知らないけど山下智久
クミコよく知らないけど鈴木杏
ママなんとなく小泉きょんきょん
図書館のおねえさんなんとなく中谷美紀
白鬚の老人いかりや長介、かな
湯島博士伊藤四朗、ではどうかな

 ユッコには、気分としては鬚鷲……じゃない、池脇千鶴を配したいと ころですが、さすがに年齢的に無理かな、と。ぽえんとした雰囲気が欲 しいのでこうしてみました。

 中ほどで、この作者がしばしば使う裏技「(間接)暗示引用」ないし 「(間接)自己言及」が炸裂しちゃっております。これは、実在の小説家 を引合いに出すのは気が引けるし、といってわざわざそのために架空の 作家をでっちあげても鬱陶しいだけだと思ったからで、他意はありませ ん。また、そこで作中人物が展開している説はでたらめです(きっと)。 真に受けないように(たぶん)。

 裏技はまた禁じ手でもあります。よい子のみなさんは真似しないよう に(^^)

 いかんな。なんだかあとがきらしくなってきた(笑)。

 どうせだからあとがきにしちゃえ。

 このお話は、そもそも1987年〜1989年ごろに構想していたものです。 ず〜〜っとほったらかしておいてしまい、もう賞味期限も切れただろう ということで、今回ウェブ用にまったく新しく書きました。

 書き直しを始めてからも執筆が進まずに、別の文章を書いたりエスペ ラントに絡まっていたりサッカーに興じたりしていたら、なんとしたこ とか、日本で『メトロポリス』、アメリカ合衆国で『A.I.』という映画 が封切られてしまったではありませんか。でも、上に記したように、そ れらの真似をしたわけではありません。作者は1930年代ドイツ映画の 『メトロポリス』は観たことがありますが、手塚治虫の同名の作品は恐 らく読んだことがないと思います。アメリカの『A.I.』に至っては、テ レビの予告編を見る限りお得意のセンチメンタリズムが充満しているに 決まっていて、見る気も起こりません。(別にセンチメンタリズムが悪 いなんて言いませんが)

 執筆が進まなかったのは、筆者の筆力不足の他に、どうもこのお話自 体が根本的に成り立たないからじゃないのかと、思ったりしないでもな いこともないような気がします(どっちだ)。いちおう終わらせて、これ ほどすっきりしないお話も珍しいでふ。

 え〜と、テーマ曲は「(It's just a) SMILE」(レベッカ)だったか な。それとも「Tension living with muscle」(同じく)の方がいいか な。「トランジスタラジオ」(RCサクセション)なんかもいいかも知れ ないな。思い切って「愛のシステム」(佐野元春)なんかどうかな。み んな古いじゃないかって? そんなことないさ。




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