斜め上の世界へ

 詰まるところ問題は「どこに行けばいいのか」ってことなんだ。

 もちろん人類が二本足で立って以来、常に問題はつきまとっていた。 まるでつきまとって欲しくて立ち上がったみたいだ。問題から逃げるた めに立ち上がったんじゃなくてね。

 だからその答もこれまでに三百億人くらいが言っているし、書き残し ている。新しい答なんかどこにもない。今さら誰も気にしやしない。

 それでも人はみんな誰でも気にするんだ、自分はどこに行けばいいの かってそればかり、ずっと悩んで、悩みながら朽ち果てていくんだ。

 赤ん坊が生まれてしばらくして《はいはい》を始める、そのときから もう、どこに行けばいいのか悩み始めているのさ。

 もちろんどこに行ったって問題はつきまとう。まるで問題と一緒に暮 らしていくのが人間だ、なんて言われているみたいに。そんなこともも う四百億人くらいの人が言っている。つまりは何もかも陳腐だってこと さ。

 陳腐だからって何もしないでいていいってわけじゃないし、何もせず にいることはできない気がして、とりあえず歩き出す。

 でも歩き出した途端、もうどこにも行くところがないと思ってカンガ ルーは立ちすくんでしまう。

 誰も彼もがあそこに行け、いやここに行けと言う。それでいて、新し い場所などどこにもない。どこに行っても同じ。どこに行ってもありき たり。もう足もとは数え切れないくらいの足跡で汚されている。遥か彼 方見渡す限りまで見たことのある足跡たちに覆われてどこにも足の踏み 場がない。それなのに、いったいどこに行けというのか。

 「古ぼけた足跡なんて、きみが踏み消して行けばいいんだよ」と、彼 女は言う。そんなものかも知れない。でもそんなことをして怒られない かな?

 「怒られたらどうだっていうの」彼女は笑った。

 夜のない盛り場からちょっと外れた、深夜の裏通り。手持ち無沙汰で 脳天気な街頭と、誘蛾灯のように妖しい光を振り撒いている自動販売機、 それだけが辺りを賑やかしている。

 そうか、ここは夜を忘れた街からちょっと離れた裏通りだったのか。 しかも深夜だ。その通り、深夜の街にはカンガルーの影が似合うし、カ ンガルーは都会の深夜に潜んでいてこそカンガルーだ。

 なんとなく納得して、カンガルーはとりあえず、近くの自動販売機で ミネラルウォーターを買って飲んだ。もちろん、お金はお腹のポケット から出した。

 どらえもんの「なんでもポケット」(だったっけ?)が有名だけれど、 カンガルーのポケットもなかなかのものだ。

 空っぽの考えを抱えたままミネラルウォーターの瓶を、その中で揺れ る透明な波を見つめていると、

 「何を黙りこくってんの」

 彼女が覗き込んだ。その視線の先がカンガルーの顔なのか、ポケット の中なのか、ミネラルウォーターなのか、きみは知らない。右の眉をひょ いと上げて、

 「しばらく間を空けちゃったからね」カンガルーは答える。

 「楽屋落ち?」

 「とんでもない。行間にすればたった一行空いただけでも、その間に 悠久の時が流れることだってあるさ」

 「つまんないわね」

 「何の話だったっけ」

 「『カンガルーのポケットもなかなかのものだ』って話。ねえ、普通 の日本語の会話文だと、地の文をレベル0だとすると、同じレベル0の (つまり、地の文の中に出てくる)台詞って、一重の鈎括弧で括るわね、 わたしのこの台詞みたいに」

 「そうだね」

 「レベル1、つまり台詞の中に台詞が出てくると、たとえば今あなた は『そうだね』って言った、なんて言う時は、二重の鈎括弧を使うわね。 つまり、台詞が入れ子になるにつれ、鈎括弧も重なる感じ。でもこれって おかしいとわたしは思うのです」

 「どういうこと?」

 「台詞の中の台詞っていうのは、もとの台詞の外側をさらに台詞で囲 んだと言えるわけだから、入れ子にされたもとの台詞(レベル1)はそ のまま一重の鈎括弧で括って、外側の台詞(レベル0)を二重括弧にす るべきだと思うの」

 『つまりきみは「もとの台詞はそのまま一重の鈎括弧で括って、外側 の台詞を二重括弧にするべきだと思うの」って言いたいの、こんな風に?』

 「そぉそぉ。そんな感じ。美しいわ」

 「そうかな? まぁ、それはそれで筋が通っているけど」

 カンガルーはミネラルウォーターを飲み干すと、適当に放り投げた。 空のペットボトルは屑籠の底にぶつかって鈍く虚ろな音を立てた。

 お腹のポケットから煙草を出して吸いつけた。彼女は言った。

 「カンガルーのポケットもなかなかのものね」

 「まあね」

 「ひとつ気になることがあるんだけど」

 「なに」

 「カンガルーのポケットって、育児嚢でしょう。♂にはないものなん じゃないの」

 「ぼくが♀じゃないなんて、どこに書いてある?」

 彼女は後ろを振り返り、ことばに詰まった。

 「それにそんなことを言ったら、ポケットからお金が出てきたり煙草 が出てきたりするのはナンセンスだってことになるぜ。理が勝つからっ ていいことばかりじゃないよ」本当に?

 「そうだね」彼女は珍しく素直に答えた。珍しく? どうしてそんな 感じがするのか、もちろんきみには判らない。

 「なかなかのものだ、だけで、充分だよね」

 「そう、ここにはいろんなものをしまっておけて、さまざまなものを 取り出すことができる……役に立つものは殆どないけど」

 「そう?」

 「そうさ。『どこでもドア』なんか絶対に出て来ないんだ」

 どらえもんは幸せだ。どんな時でも、どんな場所にいようと、望みさ えすればそこから出て行くことができる。「どこでもドア」は、どこに でも行けるドアじゃない。本当は、どこにいてもそこから出て行け る扉なのだ。

 そういえば、「どこだよドア」は有名な話だ。

 どらえもんの世界にもいいどらえもんと悪いどらえもんがいて、悪い どらえもんは、「どこだよドア」を使ってのびたたちを世界の果てのど こでもないところに飛ばしてしまうのだ。

 「お〜い、どらえもぉぉぉん。ここ、どこだよ〜〜」「どこなんだよ〜」 「どらえもぉぉぉぉん」「どらえもぉぉぉぉぉぉ おおおん!」

 邪悪などらえもん。

 「いいどらえもん」が、植物状態になったのびたが見ている夢の登場 人物なのだとしたら、邪悪などらえもんは一体誰の夢なのだろう。

 世界の果ての何処でもないところ? そこに行けばいいのか? でも、 「どこだよドア」もないのにどうやって。

 それに、世界の果ての何処でもないところに行って、そこもやっぱり 足跡だらけなのだとしたら。きみはどうすればいいのか?

 「またしても陳腐な悩みだね」彼女が口を挟んだ。

 『ありもしないことをぐにぐに考えこね回して、けっきょく何もでき ない。だいたい「どこだよドア」なんてどこにも実在しないんだから、 悩むだけ無駄でしょう』

 「しかし……」

 「行ってみればいいじゃないの。何処にも行けないくせして、行った 先のことで悩むなんて、ゼイタクを通り越して、どうかしてるって言う んだってさ」

 「誰に教わったんだい、そんなこと」

 「学校の先生」

 「きみはまだ学校の先生の言うことなんか信じてるのか」

 珍しいね、と言おうとして、カンガルーは止めた。別にいいじゃない か、学校の先生を信じたって。「学校の先生」も、このところ悪役ばか りですっかり印象が悪くなってしまったけれど、彼らにも信じてもらえ る権利はある。少なくともその権利を持つ学校の先生だっている。

 「学校の先生、わたし好きだよ。嘘ばっかり言うから」

 「嘘ばっかり言うから?」

 『そうだよ。なんだか「かよわき大人の代弁者」って感じがありあり。 だから好き』

 「きみは、大人なんだな」

 「コドモだよ。歴然としたコドモ。でも、そーゆう人の方が信じられ るじゃない?」

 そうかも知れない。

 人なら誰だって別の誰かしら何かしらを信じなければやっていけない。 信じられるものがあるというのは、それだけで素敵なことだ。たとえそ れにいつかまた騙されるのだとしても。

 きみはふと、自分は何を信じているのだろうと考え、ちょっと戸惑う。

 「何の話だったっけ」

 「行ってみればいいじゃないって話」

 「それも学校の先生が言ってたのかい」

 彼女は首を振る。「学校の先生がそんなこと言うわけないでしょ」

 それもそうだ。そんなことは間違っても嘘でも口にしないから、だか ら学校の先生なのだ。本当に?

 「行ってみなさいよ」彼女はその時だけ妙に大人らしい顔つきで囁いた。

 「行ってみてあてが外れてたら、また別のところに行けばいいんだから」

 ずいぶん簡単に言うな、と、きみは思うだろう。しかも、ずいぶんあ りきたりのことを。

 でもまあ、〈真実〉なんてそんなものかも知れない。天が下に新しき ものなし。最初に言い当てたヤツは偉い。二番目からは人真似と言われ る。でも「最初に言った」ヤツだって、既に他の誰かが言ったことを別 のオブラートにくるんで言い直しただけなのかも知れない。人間が五千 年経ってもそんなに変わらないのだとしたら、〈真実〉ってヤツだって そうそう目新しいことなんて出てきやしないに違いない。

 ましてもう四百億人くらいの人が、言うべきことは言い尽くしてしまっ た。それから逃げたくて歩き出そうとしても、だから、逃げようとする こと自体にもう意味がない。

 それでも、きみが自分の目と耳と手と心で再発見するのは自由だ。再 び発見することまで禁じられたわけじゃない。その〈発見〉を声高に言 うことはできないのだとしても。逃げようとすることに意味がないなら、 どこに行ってもかまわないわけだ。

 どこにも行けないってことは、どこにでも行けるってこと。

 カンガルーは笑った。なんてことだ。これさえも腐り果てて風に散っ てしまうほどありふれてる。もっと他の言い方はないのか?

 「何がおかしいの?」彼女は怪訝そうに訊ねた。

 「おかしくはないさ」カンガルーは笑ったまま答えた。「ただ、アンマリ ありきたりなんで」

 彼女も微笑んだ。「判ってきたみたいね」

 「判ってきた? ぼくが?」

 「そうよ。あなたがよ」

 きみはちょっと気が軽くなった。だからといって解き放たれたとも思 わないけれど、一歩、踏み出すことは楽にできそうな気がする。

 「古ぼけた足跡なんて、きみが踏み消して行けばいいんだよ」と、彼 女は言う。

 これだってありふれている。そうだ、「言うべきこと」だけじゃなく、 「言い方」さえも使い潰されて色褪せてありふれてしまった。世界中の ありとあらゆる「言い方」が、数え切れないくらいの足跡で汚されてい る。せめて「新しい言い方」だけでも発見できれば、それはとても幸せ なことなのかも知れない。

 「ぼくはもう行くことにするよ」

 「そう」彼女は微笑んだだけで、それ以上何も言わなかった。

 「ひとつだけ、訊いてもいいかな。もし知っていたら、答えて欲しい んだけど」

 「もし知っていたら、答えてあげるけど?」

 「この短いお話に、いったい何の意味があったんだろう?」

 彼女は小さな声を立てて笑った。「意味が欲しいの」

 「欲しいね。ぼくにはきっと意味が必要なんだと思う」

 彼女はしばらく地面を見下ろし、ついで街灯を見上げ、そして言った。

 「意味が欲しいなら、新聞を読みなさい。テレビを見なさい。ラジオ を聞きなさい。音楽を聞きなさい。特に『Jポップ』なんかいいよ。意 味が溢れてる。その中から気に入った意味をとれば」

 なるほど。

 カンガルーはもう一度言った。「ぼくはもう行くことにするよ」

 「うん」

 きみはふとカンガルーのポケットを覗き込んだ。

 色とりどりの包装紙にくるまれて、いろんなかなしみといろんなまよ い、数え切れないくらいの問題が詰まっていた。

 ああそうだったっけ、と、きみはまるで初めて気がついたかのように、 それで悟ったかのように呟く。それだからなんだ。

 「ちょっと待って」

 彼女はひょいひょいと問題をいくつか手にとって、カンガルーのポケッ トに詰め込んだ。ポケットはさらにすこし重たくなった。

 「どうして?」

 「判ってるくせに」

 「そうだね」

 カンガルーはポケットの重さに見合う笑顔を浮かべた。

 「気をつけてね」

 彼女はそう言うと姿を消した。

 最初からいなかったのかも知れない。そう考えたって間違ってはいな い。すべては自問自答だったのかも。

 この先ポケットが軽くなることはないかも知れない。いつか(きっと なんでもないことで)急に、あるいは時間をかけて、軽くなるかも知れ ない。でもそれ自体は大して重要じゃないなと、カンガルーは思った。

 ポケットに手を入れて、バランスがよくなるように整えると、カンガ ルーはあっちに向かって飛んだ。

(おわり -- 2000.09.14)

この物語は虚構です。登場する、あるいは引用/言及される個人、団体、 事件等はすべて架空のものです。現実世界との関連性を想起させる要素 があったとすれば、それは偶然の一致であり、作者の意図するところで はありません。
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