いまどきサイバーパンク

 年末、電話会社がCMを流した。

 往年のアニメや特撮ヒーローもの――「鉄腕アトム」とか「スーパー ジェッター」とか「サイボーグ009」(ただし、最初のアニメ化)とか 「ウルトラセブン」とか――から《超小型無線通信機を使って仲間と会 話する》場面を選んで、現在の「携帯電話で会話する局面」と重ね合わ せる、という趣向で、「そーゆーテレビ番組」に熱中した「一九六〇年 代のその頃子どもであった人たち」の心を熱くさせたと聞く。

 無線機、通信機といえば真空管製の巨大な代物が主流で、トランジス タ製(トランジスタって、知ってますか?)のものにしたって巨大であ ることは変わりなく、AC電源が必要だったり単一電池八本も使ったりす るようなそんなものしかなかった時代、アニメや特撮ものに登場するそ れらの小道具は文字通り夢の装備だった――と、知合いの老人は述懐し ていた。

 「その夢がなぁ」と、老人はしみじみ語った。「今、ケータイという 形になって実現したわけよのう」

 「と、電話会社は言いたいわけですよね」

 老人は涙をはらはらと落としながら熱く語った。「あの頃は、いつか はそうした超小型無線機が実現し、気軽に持ち歩いて気軽に通信できる、 いつかはそんな日がくるだろうと思ってはおったが、それがこんなに早 くこんな形で訪れるとはのう。いやまさしく夢を見ておるような心地じゃ わい」

 ぼくは冷やかにその話を聞いていた。一九六〇年代といえば、この国 に官営の電話会社が一社しかなかった時代だ。通信技術の開発に寄与も しただろうが、寡占の弊害で技術の普及が遅れたとも指摘されている。 今も官営のままだったら、果してあんなCMを作っただろうか?

 いやいや、悪口を言いたいわけじゃない。だってぼくはその電話会社 のおかげで気楽に暮らしていられるんだからな。

 「いつまでぷーちんしてんのよ」とカナコにも言われるんだけど、あ いにく当分《ぷーちん》から卒業する気はない。《ぷーちん》どころか、 ぼくはれっきとした《職》についているし、カナコが思うよりは遥かに 稼いでいるのだが、こればっかりはぼくとしても言うわけにはいかない。

 ぼくは昨日発売されたばかりの曲を楽しみながら喫茶店の窓際の席に 坐っていた。もちろんMP3圧縮の音源。目を閉じ――閉じなくてもいい んだけど、やはり余計なノイズは減らした方が音がくっきりする――じっ と聴き入っているさまは、はたからは瞑想に耽っているように見えるか も知れない。こうして聴くと、ひとつひとつの楽器やその奏でる音がハッ キリ聞き取れる気がする。さらにドラッグでもやればテキメンかも。も ちろんボーカルだって、微妙なエコーや声の掠れ、唇や舌が擦れる音な んかもばっちり識別できる。

 五輪内侍という変わった名の音楽家で、変わった歌詞の変わった表題 の曲と、変わった声質のボーカルで人気がある。この人の歌詞と声の組 み合わせは普通に聴いてもけっこうヨイのだが、こうして聴くと生生し い生や性がびりびり伝わって脳髄の皺がぶるぶる震える感じがする。

 いきなりケーブルを抜かれてぼくからすべての音が消え失せ、ぼくは びっくりし、ぼくは現実に引き戻された。

 〇・三秒ほど眩暈のような感覚に襲われ、目をきつく閉じてから開く と、一杉さんがどっっかと腰を向かいに下ろした席のところだった。― ―このような状況下で眩暈現象が起こると言語感覚にも影響するらしく、 目下の研究課題となっている。もちろん、〇・三秒というのも問題視さ れている。〇・一秒以下に抑えないと実用化は厳しいというのだ。

 「みんな甘いよな」いきなり一杉さんは言った。「ケータイだケータ イだなんつってはしゃいでるけど、みんな判ってないよ」

 これはぼくの聴覚中枢がどうにかしたのではなく、一杉さんとは そーゆう人なのだ。

 「確かにわれわれはこの十年あまりでこ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 んなにケータイを小さくした。これはわれわれの技術力の賜に他ならな い。みんな喜んで使っている。しかし、甘いよ。大衆はわれわれの技術 力の革命的なものすごさを知らない」

 この人はぼくの担当なのだが、いつ会ってもどんな時でも九割がたケー タイの話しかしない。残り一割は当然ぼくとの仕事の話だが、それもケー タイ絡みと言えば言えるから、要するに二六時中ケータイの話をしてい る。シゴトの鬼とも言えるしケータイ馬とかケータイ鹿とかとも言われ ているらしい。といっても、ネタが無尽蔵にあるわけでもないから、の べつ話していれば多くの話題は二番だし三番だしになっていく。今の話 だって、三回会えば一度は聞かされている。耳に蛸だしすっかりそらん じてしまった。まぁ、それだけ鬼だったり馬だったり鹿だったりするわ けだ。

 「この十年で、ケータイは小さくなっただけでなく大いに進化した。 ただ鳴るだけでなくメロディを奏でられるようになったし、和音まで可 能になった。留守録音もできるし、転送もできるし、電子メイルもちょ ちょいのちょい。画像を扱えるだけでなくついにはデジカメまで装備し やがった。カラーだって二インチの画面のくせに六五五三六色。信じら れないね。総天然色まであと一歩だ。すばらしい。二〇世紀に人類が手 にした道具の中でももっとも急速にもっとも素晴らしくもっとも美しい 具になった。
 しかし、しかぁし。ケータイのもっとも不便な点は、『持ち歩かなけれ ばならない』というところだ」

 「はいはい。それで次の仕事は?」

 話の腰を折られると一杉さんはちょっと不満げに口を尖らせる。が、 それも一瞬で、悪戯っぽく笑って見せた。

 「《江戸美》だよ」

 「えどみ? あの江戸美?」

 「そう。あの《江戸美》。知ってるだろ、使ったことはないにしても?」

 電話会社の新しい技術戦略で、一杉さんによると当初の開発コードは 《芋手(いもで)》だった。ちょっち語呂が悪いというので姓名判断で 《江戸美》に替えたそうだ。名前が同じ風呂笛江戸美という人気アイド ルをCMキャラクターに起用したこともあり、一大ヒット商品になった のは記憶に新しい。

 「ケータイがそのままネットワーク端末になるってヤツですよね」

 「さよう。もっともこの電話会社をゲートウェイにしないとならない のだがな。もちろんそれが電話会社の目論見なんだが。もとい。この江 戸美がケータイの人気をさらに高めたのは知ってるだろ」

 「カナコも、いやおれの知合いも持ってて、最近はおれなんかよりそっ ちの方にはまってて困ります」

 「ふむ」一杉さんはしばしぼくを眺め回した。「ケータイに狂ってる ような女なんか、別れちまえよ」

 「また、極端なことを」極端というよりこの場合暴言というべきだろ う。

 「社会的動物たる人間として当然の心情を発話したまでだ」一杉さん はウェイトレスから奪ったコーヒーをがぶりと飲んだ。「なるほど電話 もまた社会的な関係を現前せしめる道具に他ならない。実際に交流があ ろうとなかろうと、電話回線がつながるだけで疑似的な《関係》が一時 的に構築される。しかしそれは幻想だ。見知らぬ異性との束の間の他愛 もないお喋り。通話を切ればその瞬間に空に融けてゆく印象と記憶。そ んなものにうつつを抜かしてなんとする」

 「カナコ、いやおれの知合いはそんなことしてませんよ」

 「そう言い切れるのかぃ?」一杉さんはぎろりとぼくを睨んだ。「き みにはまらんでケータイにはまってるんだろ?」

 一杉さんは見かけによらず下ネタが好きなのだった。そのたびにぼく は人の見かけって何なんだろうと思わずにいられないのだった。

 「話を戻しましょう。《江戸美》を載せるっていうんですか?」

 「そのとおり。江戸美ちゃんを乗せる。っていうかー、江戸美ちゃん に乗ってもらう。ま、えっちね。きゃは」

 この人、どこかおかしいんじゃないか。――いや、どこかおかしいに は違いない。

 「きみは江戸美、好きだろ。ケータイの、じゃなくて、人気アイドル としての」

 「ええ、まあ。好みのタイプです」

 「なにを顔を赤らめておるんだ。キモチ悪いな。だがまぁ、そうだろ うな。きみの部屋に江戸美のポスターが貼ってあるくらいだからな」

 「なんでそんなことを知ってるんです」

 「それはひ・み・つ」

 「かわいぶらないでください。大体アレは、友達がいらないっていう から貰ったもので」

 「いきりたつな。別に本物の風呂笛江戸美に逢えるわけでもないんだ。 こらこら、急にしょげるな。それはそれ、これはこれ。きみには《江戸 美》ちゃんの実験をしてもらうよ」

 一杉さんとの出会いは、半年ほど前に遡る。

 ホテルのロビーに現れた時は、すごい美人もいたもんだと感心し、正 確に言えば息を呑み、一瞬、いや三分ほどカナコのことを忘れた。

 「きみがオガタくん?」と一杉さんは言った。

 「……(ごくりと唾を飲み下し)そう……です……」

 細身の肉体にぴっちりと巻きついたニットのスーツ、当然ミニスカー ト、光沢のある黒髪はあくまで長く、ちょっと傾げた頭から長い前髪が 彼女の桜色の頬に垂れかかる。衣服を透かして窺える引き締まった肉体 美は強烈にぼくを魅了したし、顔も、そこそこ美人だった。 ふとずり上げる黒縁のボストンすら、彼女の魅力を増すのにひと役、い や五役くらい買っている。カナコ? あんなの、これに比べれば子ども のおもちゃだ。

 あまつさえ一杉さんはぼくを甘く見つめて情熱的な微笑を発している。 そんな風に見えた。忘れているのが三分で済む筈はなかった。そうはな らなかったのは、別にカラータイマーが点滅したからではない。

 一杉さんはどっかと腰を下ろすや否や、始めたのだ。「今のケータイ ってのはさ……」

 彼女は十分間ひとりで喋り続け、その間に三分間のひと目惚れははか なく散っていった。よく見れば、美人ではあるものの何のことはない、 ありし日の「ワンレン、ボディコン」女だ。黒縁のボストンスタイルだっ て今や昔の時代はずれ。生きた化石ではないか。どーやら彼女のファッ ション感覚は一九八〇年代半ば〜一九九〇年代初めで止まっているらし い。しかも後になって、かなりの下ネタ好きだと判明するに及び、なん だこいつは博物館で見た昔懐かしの「おやじギャル」じゃねーのかと思っ たものだ。彼女の立居振舞いがなぜ《その頃》に固着しているのか定か ではない。あるいはその頃彼女に何か事件があったのかも知れない。

 ぼくは正気を取り戻し、この人は相方と夜具の中にいる時でもこんな ことをこんな感じで喋るのかなー、だったらカナコの方がましだなーな どと思いながら話を聞いた。しかし、美人であることは間違いない。そ れにしても今いくつなんだ? どう見ても三十歳未満なんだけど、それ にしてはこの服装は? ま、一億二千万国民の中にはこういう人もいる だろう。いたっていいじゃないか。現在ほど多様性の是認への要求が強 まっている時代はないのであって、それはすなわち現代社会が一見「個 性」を尊重するかに見えて実は「没個性」を強要していることへのアン チテーゼであり、かかる状況において……

 「……でね、きみにこの実験をやってほしいわけ」

 「へ?」

 要するにぼくは話をろくに聞いていなかった。

 「聞いてなかったのか?」一杉さんは気を悪くした。「おおかた過去 を回想してたか、わたしの風貌から何やら思想的主張を勝手に読み取っ てプロパガンダを始めてたな」

 なかなか鋭い。

 「あんたが気に入ったって言ってるんだよ。一緒に実験するには申し 分なさそうだ」

 「はぁ」

 「じゃ、行こうか」

 「へ?」

 「やるのか、やらないのか、どっちだ?」

 「よく考えてみないと……」

 「話を聞いてなかったくせに。いいかい、今きみは長引く失業により 存亡の危機に立たされている。この仕事をやれば、月にこれくらいは手 にできる」

 一杉さんが提示した金額は、それはそれは驚くべきものでありました。 それは失業中ということを考えに入れてもかなりの高額であり、すなわ ちぼくの目を眩ますのに十分であって、事実ぼくの目は眩んだ。

 当時ぼくは就職活動に失敗してやる気をなくしていた。コンピューター 学科だったし政府が情報技術と騒ぎ立てていたからたかをくくっていた ら、どこにも職にありつけなかった。そのまま卒業してしまったから大 変だ。カナコは入学以来の腐れ縁だったが、就職難を潜り抜けてけっこ ういい(つまり、給料が)会社に入ったので、それもぼくのやる気をな くした。学生時代の貯金(貯めてたのだ、いちおう)を食い潰したら文 字通りの《ぷーちん》、これはカナコ用語だが、普通にいえばぷー太郎、 すなわち無為徒食の徒となりさがった。求人雑誌をぱらぱらめくったり、 カナコに尻を蹴飛ばされて職安に通ったりしてはいたものの、コンビニ や道路工事のアルバイトで食いつなぐ毎日。ステレオもテレビもパソコ ンも質屋に売り払い、ついにはアパートの家賃も光熱費も危ういという 状況に陥った。

 そんな時、近所の電柱に目立たない貼紙を見つけた。

求む。肉体頑健、精神健全の男子または女子。18歳から25歳まで。無職 歓迎。仕事内容……電話の実験。在宅勤務。委細面談。

 電話の実験というのがよく判らなかったが、ぼくはカナコにも言わず に会ってみることにした。待ち合わせ場所に来たのが一杉さんだったと いうわけだ。

 「どうだ?」

 「目が眩んでます」

 「オーケイ。じゃ、ここにサインして。……そう。それと、ここにハ ンコ。持ってない? 拇印でいいよ。そうそう。鮮明にね」

 ぼくは言われるがままにした。

 「はい、これで契約成立。今日からきみは高収入の実験者だ。改めて、 わたし、一杉ルウ。よろしく」

 「おれ、いや、ぼくは、オガタタガオです」

 立ち上がって差し出された手と握手したと思った瞬間その手をぐいっっっっ と引っ張られて乗用車に放り込まれた。次の瞬間何者かに目隠しされ、 耳栓を突っ込まれ、真っ暗闇の中に突き落とされた。こんな具合に、ぼ くは一杉さんに拉致された。

 ずいぶん長いこと走った(そんな気がした)後で車が止まり、乱暴に ひきずり出されて建物の中に連れ込まれ、突き飛ばされて椅子に坐り…… といった経緯はくだくだしいので省略する。目隠しのまま服を脱がされ、 また突き飛ばされたら固いベッドのようなものの上に寝転がり、そのま まベルトで縛りつけられ……というのも省略。

 (これはもしや)と、ぼくは思った。(一杉さんは、いわゆる「女王 様」なのかな? 実験て、アレ のことかな? そいつはまずいな。 いや、でも、ここでひとつ新しい世界を覗いてみるのも……)

 などと不埓なことを考えるうちに何か注射をされ、気が遠くなっていっ た。

 ……………………

 ……意識が戻って来た。遠い声が聞こえる。

 「ぉぃ、ぉぃ……目が醒めたか」一杉さんの声だった。目隠しが外さ れた。

 一杉さんは……あんな仮面をつけているわけでもなく、黒タイツを履 いているのでもなく、ピンヒールもカウボーイブーツも履いておらず、 手に鞭さえ持っていなかった。ワンレン・ボディコンの一杉さんしかい なかった。なんだかがっかりした。白衣を纏っている点だけが違ったが、 医者や研究者のそれであって、看護婦のものではなかった。それじゃぁ なぁ。気を失っている間に出て来た一杉さんは、それはもうスゴかった のだ。

 「なんかえっちなことを考えてただろ。こんな恰好で悪かったな」一 杉さんはくっくっと笑った。

 「きみがえっちな夢を見ている間に、手術は終わった。成功さ」

 「手術? シリツをしたんですか?」

 ぼくは手術台(なんだろうな、そういう話なら)の上で暴れたが、ベ ルトで縛られたままだったし、それでなくたって手遅れだ。

 「お、おれの体に傷をつけたんだな。とうちゃんにだってぶたれたこ とないのに!」

 「コンピューターゲームのテレビCMを見たな」一杉さんは冷静に批 評した。「あいにくだが、作者は『ガ○ダ○』を見たことがないのだ。 気分はどうだね、R62号?」

 「……手際よく皮を剥かれたオレンジから透明な雫が規則正しく滴っ ているみたいだ。R62号? いったい、何をしたんだ」

 「いや失敬、わたしは人間を改造する手術っていうと『R62号の発 明』を思い出しちゃうのさ。仮面ライダーも好きなんだけど」

 「やめろ、ジョッカー! おまえ何歳なんだぁ」ぼくはすっかり気が 動転していた。ちくしょう、こんな女の見かけに騙されて、契約書にハ ンコなんか押すんじゃなかった!

 「これこれ、それ以上言うとセクハラで訴えるぞ。だいたい今日びは ビデオもLDもDVDもあるから、昔の名作なんか好きなだけ観られる」

 「ここは悪の秘密基地か。秘密基地はどうやって電気やら動力のエネ ルギーを調達してるのかって議論になったことがあったぞ。ある特撮ヒー ローものじゃ近くの発電所からこっそり電線を引っ張ってるなんて場面 もあって、秘密結社のくせにせこいことしやがってって嗤われたらしい ぞ」

 一杉さんはげんなりしたように、「ここは秘密基地じゃないよ。電話 会社の研究所に過ぎない。もっとも、中を覗かれちゃ困るって点では秘 密基地みたいなもんだが。どこでそんなことやってるのかきみの口から 洩れたらまずいんで目隠しをして連れてきたわけだ。それは済まんと思 うが、怪しいもんじゃないよ」

 「手術って、あんたがやったのか?」

 「人手不足でね。というか、研究費不足というか。まったく、こんな に画期的な発明なのに、誰も信じようとしない。電話会社の頑迷固陋に も困ったもんだ」

 こいつ、マッドサイエンティストだったのか。ぼくはぞっとした。

 「さ、まずは火入れ式だ」一杉さんが合図をすると、後ろに控えてい た白衣の女性(こっちはまっとうな看護婦スタイル)がなにやら電話器 をうやうやしく差し出した。一杉さんは無造作に受け取り、暗記してい るらしい番号を手早くダイアルする。電話器がちりちりいう音が手術台 の上からでも微かに聞こえ、やがて、呼出音が響き始めた。

 ぼくは超びっくりして飛び起きた――ようとした。縛りつけているベ ルトが軋んだ(漫画や映画なら引きちぎれるんだろうが、現実は厳しい)。 それくらい大きな音だったのだ。それがぼくの耳のすぐ傍で鳴っていた。 ぼくはそれをかき消すようなつもりで大声で叫んだ。

 「うるさいうるさいうるさいうるさいっ。やめろ、やめてくれ!」

 「おお、ちょっと大きかったかね。じゃ、頭の右側に意識を集中して、 操作盤をイメージして。いいから、言う通りにしな。できた? その中 に音量ツマミはある? ない? ないなら、つけ加えなさい。できた?  よし、その音量ツマミを左の方に――つまり、音が小さくなる方に回 すんだ。……どう?」

 一杉さんの言うとおりにすると、不思議なことに、耳の傍の呼出音は 小さくなった。ぼくには超能力があったのか!

 「そんなわけないだろ。次に頭の左側で電話器を思い浮かべろ。黒い ダイアル式でもケータイでも何でもいい。黒電話なら送受話器を上げろ。 携帯電話なら通話ボタンを押せ」

 ぼくはそのとおりにした。驚くべし、呼出音は消えた。その代わりに 一杉さんの声が聞こえた。もちろん本人が傍にいるのだからその声も聞 こえる。が、その他に、まるで電話を通して聞こえるような一杉さんの 声が頭の中で響いたのだ。

 (もふもふ。わたし。聞こえる?)

 「はい、はい。聞こえます」

 「声を出さなくてよろしい。おでこの裏側に意識を集中しろ。そこに マイクを思い浮かべる。それに向かって、頭の中だけで喋るんだ。それ が無理なら、口の奥でひとりごとを言うように、微かに声帯を震わせる。 腹話術の要領だな。やってみな」

 そう言うと一杉さんは手術台のそばを離れて機械の後ろに回った。

 (やってみました。聞こえますか?)

 (聞こえる聞こえる。カンガルーハオカマバーカラハイダス。復唱し て)

 (カンガルーハオカマバーカラハイダス)

 「おおっ、成功だ!」

 機械の陰から一杉さんは両手を広げて飛び出して来た。そのまま突っ 走ってぼくに向かってダイブした。一杉さんの重みがもろにぼくを押し 潰し、一杉さんの乳房もぐにっと潰れた(筈)。胸を強く圧迫されて、 長い髪のいい匂いを嗅ぎつつ、ぼくは息がつまり、気を失った。

 もうお判りのように、こうしてぼくは「携帯電話埋め込み人間」になっ た。あるいは「歩く携帯電話」になった(なんかイヤだな)。

 どういうことだって? そういうことだ。一杉さんの話によれば、頭 蓋骨を切開して、脳髄に小さな石(といってもホントの石じゃなく、マ イクロプロセッサーを指す隠語)を埋め込み、あちこちに電極を植えて ケーブルを這わせたのだそうだ。携帯電話の回路(これが今や汎用コン ピューターに劣らない能力を持つことは周知の通り)とソフトウェアは 小さな石ひとつに充分収まる。人体は絶えず微量の電流を発生させてい るので、それをかき集めれば電源は心配ない。どっかの政治家が情報技 術にことよせて「携帯電話は電源の心配がない」と言ったそうが、それ はこのサイバー携帯と勘違いしてのことだろう。企業秘密を安易に暴露 するようでは為政者として問題があるのではないか。アンテナは、五十 年前なら頭蓋骨に穴を開けて伸ばしたところだろうが(髪に隠れる程度 に短いから人に気づかれる恐れはないんだって)、今やそんな必要もな い。人体自身をアンテナにすればよいのだ。――もっとも、すべては一 杉さんの受け売りだが、そんなわけで、ぼくの脳はそのまま携帯電話に 接続することになった。

 「映像信号はプロトコル変換装置をかまして視神経に直結すればいい し、音声出力も同様に聴覚神経につなぐだけの話だ。変わった技術なん かかけらも使っていない」一杉さんは平然と言った。「ま、目新しい技 術といえば、プロトコルを変換してもケータイの信号ときみの神経系と はちょっと相性が悪いところがあった」

 「あって、それでどうしたんです」

 「どうも、若いといっても何十年か生きていると、神経系も損傷を受 けるようなんだな。そこで、専用に遺伝子を組換えた大腸菌を使って、 きみの神経系を一部修復した。ま、これも基礎は一九八四年に開発済み の技術なんだが」

 「大腸菌って、ヘンなことをやらかすヤツじゃないだろうな」

 「それはない」一杉さんはこの心配症めとでも言いたげに軽く嗤って、 「その大腸菌は体内の神経系にとりつき、予め遺伝子に仕込んでおいた プログラムどおりにシナプスの接続を換えたりニューロンの発火を調整 したりする。もっとも本人の大腸菌は自分が何をしているかも知らない わけだけど。きわめて安全な技術だ」

 ふーむ。そんなことがされてたのか。目が醒めてから見るもの聞くも の触れるものなにやら新鮮な感じがするのは、神経がリフレッシュした からなのだろうか。

 「難儀したのは音声入力だ。サイバー携帯で話をするのにぶつぶつひ とりごとを言っているようにしか見えないのでは、みんな敬遠する。気 持悪いに違いないもんな。といって、念波を捕捉してどうにかするなん てのはテレパシーの領域に入ってしまう。われわれは超能力には興味が ない。これは考えあぐねた。
 だが、ある時閃いた。どんな言語にも『リョーコは心の中で「シゲル のばか」と呟いた』なんて表現がある。つまり、人は声帯を震わせるだ けじゃない、頭の中で《発声》することもある。でも実際にその時も、 実際には動かさないにしても、何かしら信号は流れているんじゃないだ ろうか? そこで、脳髄の言語中枢と声帯や口蓋、舌の筋肉の運動神経 との間の電位変化を監視するようにした。大当たりだったよ。
 しかし残念ながらそれだけではほんのわずか精度に欠けた。入力を取 りこぼす恐れが大きかったんだ。これは二段階入力方式を採用すること で解決した。すなわち、一次入力としては先の方法をとる。二次として、 よくやるように声帯や口の筋肉の微かな動きをサンプリングする。これ で九十九・九九パーセントは正確に音を拾えるようになった」

 アーキテクチャはしっかりしていて、視神経や聴覚神経、運動神経は デバイスとして扱われ、それらとのインターフェイスは当然デバイスド ライバになっている(そうだ)。一番の難問はこれらのデバイスをどう やって操作するかだったようだが、モリイ・ミリオンズ博士が天才的な アイデアを出した。バーチャルリアリティの概念を逆利用するというも のだ。バーチャルリアリティはコンピューターが提示するイメージの世 界で人間が操作したり行動したりするが、逆に、人間がイメージするも のをデジタル信号に変えてコンピューターに送り込むのだ。これが突破 口となって、今回の実験にたどり着いたそうだ。

 「ケータイの最大の難点は持ち歩かなければならないことだ」一杉さ んはにやりと笑った。「だが、その難点もこれで解決するわけさ。どこ かに置き忘れる恐れもない。人込みの中で大声出して顰蹙を買うことも ない。四六時中あなたと一緒。夢の通信デバイスよ♪」

 「でもこれではサイバー携帯は『閉じた世界』ですね。現実のケータ イならたとえばコンピューターにつないでデータ通信なんかできるのに、 そういうことができないでしょ」

 「ご心配なく。ちゃんと外部インターフェイスもつけました」一杉さ んはかっかと笑った。「左耳の後ろに手をやってご覧」

 確かにその辺りに何やら違和感は感じていた。指先で探ると、柔らか い覆いらしきものが当たった。

 「そのシリコンの覆いをめくると、USBポートと小さなメモリーソケッ トがある。これを介して、殆どあらゆるデバイスとつなげることができ るぞ」

 「殆どあらゆる?」

 「うむ。すべてのデバイスに対応できるわけないじゃないかと、考え てるだろ。われわれも莫迦じゃないさ。USBポートを介してデバイスド ライバをダウンロードできる仕掛けを組み込み済みだよ。新しいデバイ スが出たら、ドライバを入れ換えればいいんだ。これで動画もオーディ オも楽しめるぞ。それだけじゃない。必要であればケータイのOSからメ イル処理プログラムまで総取っ換えすることができる。ま、これもボイ ジャーとかハッブル望遠鏡なんかで知られた技術だが」

 ぼくは感心した。なにか素晴らしい人間になったような気がする。人 間? こんな風に手を加えた存在を《人間》と呼ぶのかな? おっと、 それは古典的な質問だ。そんなことを考えるために生まれてきたわけじゃ ない。

 「メモリーソケットは?」

 「言うまでもなく外部メモリーを挿す。ROMでもよいし、フラッシュ メモリーの類でもよい。後者だと、電子メイルの整理なんかにも使えそ うだな。しかしまだメーカーによって規格がばらばらなのが難点だ。ど れにするか迷ったが、どうせ特定のメーカー名を出すわけにはいかない ので曖昧なままにしておくことにした。ともかく、機能拡張の口を設け るのは昨今の機器開発では常道だからな」

 「それなら、プログラムの再ロードなんか必要ないじゃないか」

 「そうはいかんよ。メモリーソケットは今のところ一基しかない。そ れに、今はまだ使い道がない。つまり、取りつけてはみたものの、回路 がつながってない。挿すROMもまだ開発されてないし」

 それが意味するところを悟って、ぼくは五分位わめき続けた。一杉さ んはシカトして聞き流していた。

 「ま、怒るな。じきにそのソケットの使い道もできるから。用途が今 はなくても、それが存在しさえすれば、じきに用途は勝手に生まれる。 それがテクノロジーの進歩ってもんだ」

 一杉さんは自分の実験がひとまず成功したことに気をよくしたのか、 やや顔を紅潮させて、上着を脱ぎながらぼくにしなだれかかってきた。 「どう? 手始めにわたしとつながってみないか?」

 つながってしまいました。

 というのはウソ。

 といっても、どこからがどれくらいウソなのか、ぼくにはよく判らな い。どうも手術の前後に投与された薬に幻覚を見せる副作用があったら しいのだ。ぼくは一杉さんとつながったのかも知れないし、つながらな かったのかも知れない。少なくともケータイとつながったのは確かだっ た。それからというもの、当たり前のことだが、ぼくの生活はケータイ とともにあった。

 通信機が自分の頭の中にあるというのは初めての上、こんなイメージ 操作にはなじみがないから(なじんでいるヤツはいないと思うが)、初 めはずいぶん戸惑った。しかし、まぁ、慣れというのは大したものだ。 一週間で基本操作はマスターできた。ちょうど手術後の経過観察の期間 だった。

 まず、イメージによる操作だが、ご想像の通りこれは難しい。操作し たい対象を思い浮かべればいいというのだけれど、人間の「イメージ」 というのは鮮明なようであっても案外ぼやけまくっているものだ。電話 器を思い浮かべても、想像の中の電話器はボタンの数が少なかったり多 かったりする(いちいちそんなに正確に記憶していられるものか)。時 には謎のボタンがついていたりすることもあって、つい怖いもの見たさ で押してみたくもなる。この謎のボタンは、サイバー携帯のどの機能と 結びついているのだろう? 操作盤も、音量だとばかり思っていたツマ ミが音質のツマミだったりしたし、用もないのにステレオの操作面を想 像してしまったりで、要するに、最初はなかなかうまくいかなかった。

 「何をやってるんだ」一杉さんは苛苛して怒鳴った。「電子レンジを 想像するヤツがあるかよ。え。そんなもの想像してどーするつもりだ?  通話ボタンを押すと冷凍ピラフがあったまるのか?」

 そんなことを言われても、都合よく目的のものを想像するようにはなっ ていないのだ、人間の頭は。少なくともぼくの頭は。

 でも特訓のおかげで、電話をかけたいと思えば正しい電話を想像でき るようになったし、電話がかかってくればちゃんと送受話器を思い浮か べられるようになった。なぜか送受話器は何十年も前の黒電話のそれだっ たが。マイクも、初めのうちは無指向性マイクを想像していたために脳 内を流れる血流の音や脳波などのノイズを拾ってしまっていたが、ほど なく単一指向性マイクで自分の声だけを捉えられるようになった。ちなみに リアル携帯の液晶ディスプレイは、サイバー携帯では、専用の17インチ ディスプレイに表示させてもいいし(ばかでかい文字だけが並ぶ、すか すかの画面になるが)、数字や文字の並びがテレビの字幕のように流れ 出てくるのをイメージしてもいい。ぼくは「字幕式」が好きだ。こうし て携帯電話に馴染んできた頃、ぼくは来た時と同様目隠しされて車で運 び出された。

 一週間ぶりのシャバの空気を胸一杯に吸い込みながら、真っ先にカナ コに電話したら、怒られた。

 (一週間も連絡しないでどこをほっつき歩いてたのよ!)

 (ごめん、ちょっと急のアルバイトが入って……泊り込みだったんだ)

 (それだってあたしに連絡くらいできるでしょうが。あぁ?)

 (それが忙しくてなかなか……謝るよ。お詫びに今夜夕食をご馳走し たいんだけど、どう?)

 (あら。ずいぶん身入りのいいバイトだったみたいね……おごってく れるなんて久しぶりだ、ゆるしてやるわ)

 ぼくはサイバー携帯を無邪気に喜んでいた。うきうきして知合いの誰 彼に電話しまくった。カナコにもこれまで以上によく電話するようになっ た。しかし、カナコは公式に不満の意を表明した。「定職についていな いくせに、そんなもの持っていいわけ?」というのだ。カナコとしては、 もっともな言い分である。ぼくはすでに《定職》についているが、それ をカナコに言う気にはならなかったし、第一口留めされていた。恋人が 改造人間だと知ったら、人はどんな反応をするものなんだろう? これ は答を予測できない難問だ。

 「でもほら、これならいつでも求人の問い合わせができるし、応募し た会社からいつ連絡があるかも判らないしさ。……金なら、心配ないん だ。新方式のケータイのフィールド実験で、無料で使わせてもらってる んだよ」

 カナコはきわめて疑わしげながら、いちおうは納得したようだった。 カナコの手前職探しやアルバイトを続けるふりを装ってはいたけれども、 ぼくは電話三昧の生活に没入{ジャック・イン}した。

 かける方は、その気になった時にすぐにかけられるからきわめて具合 がよろしい。電話の在処を探す必要すらないし、電池切れを気にするこ ともない。両手は完全に空いているから、何をしながらでも電話できる。 リアル携帯にはハンドフリー通話なんていじましい機能がついているけ れど、そのために通話が人に洩れる心配はこちらにはない。

 アドレス帳機能も便利だし、助かる。いちいち憶えていられない電話 番号や人の名前を、文字通り頭の中にしまっておけるのだ。記憶力の悪 い人にはお勧めである。「携帯電話から電子メイル」がこんなに便利だ というのも初めて認識した。リアル電子メイルと違い、長いメイルも文 章を思いつけば逐次入力されるからいちいち指で打ち込む必要がない (ケータイでメイルを打ち込むのに苦労している人は多いでしょう)。 おまけにメイルもまた頭の中にしまっておけ、すぐに読み出せるから、 ぼくはずいぶん「もの憶え」がよくなった。

 しかし、しばらく使ううちに、受ける方はリアル電話より具合が悪い ことも判った。突然頭の中で呼出音が鳴り響く。音量を絞っておけば耳 鳴りに悩むことはないが、突然というのがまいる。びっくりして飛び上 がりそうになる。まだ着信メロディ機能はないのだった。初めてそれを 経験したのはとある会社の採用面接と偽って映画を見ていた時で、コー ラはこぼれ、ポップコーンが散らばり、他の観客から怪訝と非難の視線 を浴びた。電話はカナコからだった。慌てて映画館を飛び出した。

 トイレに籠っていようが風呂を浴びていようが、電話はかまわずかかっ てくる。リアル電話なら知らんぷりもできるが、サイバー携帯では置き 忘れることもない代わりに、持たずにいることもできない。まずもって、 居留守が使えない。留守番録音機能がいちおうついてはいるものの、はっ きり言って、無意味。しかも、埋め込んだシステムの安定性を確認した と見るや、一杉さんが(この人は電話魔だった)こちらの都合もおかま いなしに電話をかけるようになったのだ。

 ある晩、ぼくはカナコと秘めごとに励んでいた。これ以上は言う必要 もないだろう。いい感じになってきたところに、響いたのだ、頭に、呼 出音が。ぼくは電撃に打たれたようにカナコから飛びのきすっ飛んでベッ ドから転がり落ちた。

 (もふもふ。わたし。今どうしてる?)一杉さんだった。

 (なんですか、こんな時間に。今日は休日の筈でしょ)

 (いや、悪い悪い。しかしさー、みんなケータイを甘く見てるよな)

 頭に来て受話器をがっきと叩きつけた。てのはもちろんイメージの中 でだけど。無言でうずくまっているぼくを心配したらしく、カナコが覗 き込んでいた。電話がかかってきたなんて言えず、うまい言い訳も思い つかず(誰か思いつきますか)、ぼくはずるずるとベッドに這い上り、 心配三割不審七割のカナコの視線を浴びて、その後どうすることもでき ず、ぐれてしまった。

 このとき以来、一杉さんの電話攻撃は激しくなった。どうやら、何か あると勘づいて面白がっているらしい(よけいなお世話だ)。電源スイッ チは一応あるが、どうやら外部から電源を入れる機能を仕込んであるら しく、一杉さんからかかってきた時は電源が入ってしまうのだ。呼出音 を無視してもしつこくしつこく出るまで鳴らすし(電話とともにいるの は判りきっているのだから、いつまででも待てる)、これには弱った。 音量を絞ってはあるものの、意識の水面下で延延と呼出音が鳴り続ける と、しだいに自分の正気が疑わしくなってくる。

 (一杉さん、サイバー携帯では、単調な呼出音はリアル携帯以上に荒 涼としてますよ。あれが鳴り響くとなんか哀しくなります。早く着メロ 機能をつけてください)

 (そうだな。十六和音のを組み込んでみるか)

 (それから、意味もなく電話してくるのは止めてください)

 (ほほほ)一杉さんは怪しい笑い声を漏らした。(意味ならあるぞ。 なにしろ研究主任としてはサイバー携帯が実用になるかどうか追跡調査 を欠かすわけにいかんからな)

 (冗談じゃないよ。こっちにだって私生活はあるんだから。ストーカー みたいな真似はしないでください)

 (お。いいこと聞いちゃった。今度わたしから逃げようとしたら、ス トーカーするぞ。ほほほほほ……)

 そんな風に過ぎた半年だった。

 定期メンテナンスは一ヶ月に一遍ほど行なわれてきた。手術ではなく、 単純なプログラム入れ換えである。なんといっても搭載されているプロ グラムにはまだ少少虫がいるので、それを除去したものにバージョンアッ プする必要がある。それから新しい機能を実験するためにプログラムを ダウンロードするというのもある。

 サイバー携帯を再プログラム可能にしたのは大ヒットだった。この辺 はさすが一杉さんだ。おかげで今のぼくはMP3再生器を持っていないに も拘らずMP3を聞くことができる。もちろん、サイバー携帯で鳴らすの である。言ってみれば頭の内部で響き渡るのだから、これほどの臨場感 はない。五輪内侍みたいな妙ちきりんなボーカルも、脳髄直結で聴くと たとえようのない官能がある。音楽は脳髄直結で聴くべきだよ。最近は いつも五輪内侍を回しながらカナコと励んでいる。官能の塊に揺さぶら れて、めちゃくちゃ燃えます。

 励むといえば、最初のメンテナンス時には着メロ機能を載せる筈が、 まだ試作もできていないと言われた。

 「済まんな。代わりと言ってはナンだが、バイブレーション機能を搭 載してあげよう。最近じゃ《マナーモード》などと言っているアレだよ」

 「あげようって、どうせ実験なんでしょ、これも」

 「まぁそうだけどさ、それを言っちゃ身も蓋もないでしょ」

 いちばん身も蓋もない一杉さんがそんなことを言うのは何かおかしい と思いつつ、バイブレーション機能を組み入れてもらった。これで呼出 音問題にひと区切りつけられたらよかったのだが、そう都合よくは行か なかった。サイバー携帯が小刻みに震え出すと、鈍い頭痛と区別がつか ず、かえって憂鬱になることが判った。それでなくともまるで頭の芯か らびりびりする感じがする。ぶるっている間は声も震える――ちょうど ほら、気管の辺りを拳で叩きながら「ワレワレハウチュウジンダ」と喋 るあの芸みたいに――ので、迂闊に話をできない。

 「ふ〜む、なかなか思ったようにはいかないんだな」と一杉さんは暢 気な感想を漏らした。「やはり、実験してみるものだ」

 それでも意外な副作用があった。ようやく機嫌の直ったカナコと励ん でいると、例によって着信があった――が、その途端、

 「あうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあう」

 「あうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあう」

 呼出音が諦めて止まるまでふたりしてあうあうあうあう言い続けた。 どうやらその時は体全体がぶるってるものらしい。カナコはすっかり満 足したらしく、

 「いつもこんな風に頑張ってくれるといいのにね」と皮肉ともなんと もつかない感想をのたもうた。「これならずっと《ぷーちん》でも許し てあげてもいいかな」

 (やれやれ)とぼくは思った。(おれは人間マッサージ器かよ……)

 「おい、そろそろいいか」一杉さんの声がした。

 「へ? ああ、はいはい」

 「ずいぶん長いこと回想に浸りやがって。いまの局面を言えるかね?」

 「これから《江戸美》の実験をするところです」

 「よろしい。ちゃんとついてきているようだな。単純なカットバック ではあったものの、ちょっと長すぎるので心配だったんだが」

 「何のことですか」

 「いや、何でもない。こっちの話。さて、出かけるとしようか」

 「どこへ。……まさか、また?」

 「そうよ」一杉さんは甘い声で言った(都合のいい時だけ女ぶるな)。 「《江戸美》を搭載するには、今のサイバー携帯では役不足なの。新し いハードに入れ換えないと。浮いてたメモリーソケットもそろそろ結線 しておいた方がいいし」言いながら黒い目隠しを出した。

 「前の手術の時、三年はもつって言ってませんでしたか?」

 「あの時はあの時。《江戸美》は別。大体、この手のハードは一年で 陳腐化するもんよ。それに、MP3圧縮中にいきなりケーブルを抜いた時 の眩暈現象も直さないといけないし」

 一杉さんはぼくの背後に回ってぼくの両目を覆った。

 二回目の手術はこともなく滞りなく穏やかに進み、終わった。執刀医 は、やっぱり、一杉さん。この人がどんなメス捌きで何をしているのか は定かではない。

 「研究費が足りないものでな。今回の実験が成功して、研究費の倍額 アップでもかちとらない限り、ひとりN役からは足を洗えないな」そう 言いながら手を洗った。

 「手術中はその髪はどうしてるんですか」やっぱり割っていない割箸で 器用に留めておくのだろうか。

 「ラーメン食べる時にはそうするよ。ここなら鉗子を使う」

 「髪に血がついてますよ」

 「えっ、なに、やだっ、どこどこ」どうゆう状況で何をきっかけに女 性化(てのは失礼か)するのかいまだによく判らない。

 「使用済みの鉗子で髪を留めるなよ。てゆうか、髪を留めるのに使っ た鉗子を人の手術に使うな。不潔だなあ」

 「失礼ね。毎日シャンプーしてるわよ」いやそーゆー問題じゃなくて。

 「そんな話をしている場合じゃない。オガタくん、いやタガオくん、 どっちでもいいが、手術は成功だぞ」

 二度目ともなると驚かない。むしろ何事もなかったかのように麻酔から 醒めたので物足りないくらいだ。

 ぼくは頭を振りながら、「もう、《江戸美》用のハードは入ってるん ですね?」

 「うむ。以前のものより二〇グラムほど重くなってしまったんで、し ばらくは頭が重いかも知れない。やはりネットワーク端末にするとなる と回路も複雑になるし、プログラムも大きいがROMも大きくなる。も ちろんRAMもな。こんなに大きくなるとは計算外だったけど」

 ぼくの頭は、二〇グラムとは思えないほど重い感じがした。いや、 《重い》というのとは違うな、《想い》の方が正確かも。ぼくは何を言っ てるんだ? 何か微妙な違和感がつきまとっていた。なにかほのかに疼 くような感じがする。手術が失敗したんじゃなきゃいいけどな。ぼくは そう思った。

 「失礼なヤツだな。失敗なんかしてないぞ。ちょっち実験してみるか」

 一杉さんに促されて、ぼくは《江戸美》に取り組んだ。

 《江戸美》がこれまでのケータイと大きく違うところは、利用者界面 {ユーザーインターフェイス}的には、対話的操作{インタラクション}―― 画面のスクロール、画面内のアンカーのポイント、クリックなどの操作―― が増えることだ。江戸美はネットワーク端末(ウェブ端末)だから仕方 ない。現実の方で携帯電話がそのために持てる装備は限られているのだ が、サイバー携帯にはそんな制約はないので、ぼくは遠慮なくこれまで の操作盤に新しいスイッチやレバーを追加した。ジョイスティックもつ けた。これだとスクロールが楽だ。

 画面からの情報がこれまで以上に量も質も増えたので、目が疲れるよ うになった。今までは数字にしろ文字にしろ10ポイントの16ドットくら いの粗いフォントを見ていればよかったが、《江戸美》になって急に解 像度が上がり、字が小さくなった。また、画像も表示されるようになっ たし、カラー表示も増えたから、そのせいもあるのだろう。でも信号が 流れるのは視神経であって眼球の筋肉はいっさい酷使していない筈なの に、やたらと目が疲れる。

 見ている時間も長くなったのかも知れない。これまではせいぜい短い メイルを見たり書いたりする程度だから、一回の視神経接続時間は二、 三分だっただろうが、一挙に二十分三十分に延びた。サイバー携帯がウェ ブ端末だということは、頭の中で「ネットサーフィン」をするってこと だ。下手をすると視覚入力がすべてウェブブラウザーからの映像出力に 乗っ取られてしまう恐れもある。経過観察期間が終わって研究所を去る 日の朝その点を指摘すると、一杉さんも腕を組んで考え込んだ。

 「うーむ、それも問題だな。しばしば話題になるウェアラブルPCなん てのよりはましだと思うんだが」

 「それ以前に、歩きながら『サイバーウェブ』に熱中して事故を起こ す、なんて危険もあると思うんだけど」

 今ですら歩きながらメイルを読んだり書いたりして、人の流れを留め たり邪魔になったりしている莫迦がいるくらいである。サイバー携帯に なるとそういう連中はもっと増えるに違いない。もっと便利だからだ。

 「そうかね。実は《江戸美》の塩梅がよければ、これに《やば》とい うプログラム言語のインタープリターを搭載する計画もあるんだが」

 「それを載せるとどんないいことがあるんですか」いいこと、と言っ ても「使用者にとって」といった意味ではなく、一杉さん、あるいは電 話会社にとってという皮肉がちょっと入っている。

 「《やば》で書いたプログラムをウェブからダウンロードして、サイ バー携帯上で実行できる」

 「それができるとどんないいことがあるんですか」

 「どんなって、きみ」一杉さんは眼鏡をずり上げた。「サイバー携帯 のハードをいぢらずにサイバー携帯の機能を拡張することができるじゃ ないか」

 「機能拡張って、たとえば?」

 「ゲームをしたり、天気予報で雪だるまが踊ったり……」

 「その程度ですか?」ぼくは呆れた。「だいたい、ケータイでゲーム に熱中する人の気が知れないんだけど」

 「これはほんの一例だよ」一杉さんは自分のアイデアを否定されて機 嫌を損ねた研究者のような表情になって、「《やば》の発想自体はゲー ムなど矮小なものに限定されはしない。ほぼ無限の広がりを持っている。 用途が今はなくても、それが存在しさえすれば、じきに用途は勝手に生 まれるんだ。な」躍起になっていた。

 「まぁいいけどさ、おれはそれで金が貰えるんだし」別に自分が《や ば》のゲームをやらなければいいわけだ。

 「せっかく開発した《サイバー江戸美》だ。しばらくつきあってやっ てくれよ」一杉さんは宥めるように言った。

 しばらくつき合うのはいいが、手術直後から感じている疼きが、ひど くなりはしないもののずっと続き、なんだか脳髄の中央に居座ってしまっ たような具合になった。それは決して不快な感覚ではなかったのだけれ ど、愉快でもなく、少なくとも集中力を奪うには充分な存在感だった。

 歯が痛んだ時などによくそうするように、ぜんぜん関係のない楽しい イメージを思い描くことで、ぼくはこの疼きを忘れようと努めた。なん となく、風呂笛江戸美にすることにした。風呂笛を呼び出して動かした りすることで、紛らすのだ。こういう時は当然痛みとか疼きという強力 なノイズがあるから、イメージはなかなか像を結ばない。そのノイズに うち克って明瞭な像を結べれば、痛みも疼きも忘れるし、忘れた時には 鮮やかなイメージが目の前にある。――ま、実際にはなかなかうち克て ないものなんだけど。風呂笛ならメディアへの露出度も高くCMや雑誌 の表紙やグラビアでしょっちゅうお目にかかるし、なにしろ部屋にポス ターも貼ってあるくらいだから、イメージしやすい筈だ。

 研究所を出てもなかなか疼きは収まらず、従っていくらイメージしや すい風呂笛江戸美でもなかなか想像に没入できず、従ってなかなか疼き が収まらないまま夜になった。こうなると、意地というものが絡んでく る。この「意地」というのが人間の諸諸の判断や行為を狂わせると信じ て疑わないのだが、それはまた別の話だ。

 灯を落としてベッドにもぐり込み横向きに膝を抱えるようにして丸ま りじっとしていると、どうにかやれそうな気がしてきた。頭蓋骨の頭頂 部近くから眼の後ろ辺りに、ぽんわりとした周囲の滲んだ輪郭が現れて きた。身長一六〇センチ前後でスリムな体つき、髪はショートカット、 おー、なんかそれらしいぞ。ぼやけた輪郭は七色の光をにじませつつ次 第に一本の線に収斂していく。それに合わせて七色の光の点の無秩序な 集積に過ぎなかった像が徐々に高低、陰影、明度彩度の区別を持ちはじ め、それは一瞬ごとに細部の表情に定着していく。やがて胸から腰、太 腿の辺りは衣服に、肩の上のもやもやがくびれその上部は顔や髪に、衣 服の四隅から突き出た細長い輪郭は腕と脚に――なっていった。

 (なんだ、裸じゃないじゃん)

 当たり前である。人気アイドルの裸体なんか見たことがない。見たこ とがないくせに想像の中で勝手に裸になれという方がおかしい。その間 にも焦点の合い始めた像はどんどん人間の形に、風呂笛江戸美の姿に近 づきつつある。距離は一メートル、いや二メートルくらい。顔がはっき り見えるようになった。特徴のある三角眉毛、ぱっちり眼でも切れ長で もないが愛嬌のある眼、小さい鼻、両端がきゅっと吊っているこれも特 徴的な薄い唇。まさしく風呂笛に違いない。ちょっと上を向いて目を閉 じているさまはまるで生まれる前の最後の夢を追いかけているかのよう に見える。

 (われながらいい想像だ)とぼくは思った。でもせっかくの想像なん だから、やはりそのぅ、ちょっとは羽目を外したっていいよね。裸で出 て来ないなら出て来た後で裸にすればいいのだ。風呂笛は水色のブラウ スと白いミニスカートを纏って、いかにも元気少女という風情だった。 デビュー直後の頃の映像のようだ。そんな頃の像が自分の中に印象とし て残っていたのが驚きだ。ぼくは一瞬躊躇し、でも想像の中なんだから と、風呂笛に手を動かせようとした。

 動かなかった。もう一度、風呂笛の両手がシャツにかかってボタンを 外すところを想像しようとしたが、できなかった。超自我的な検閲機構 がはたらいているのかな? 別に色っぽく脱がなくたっていい、これか らお風呂に入りまーすみたいな感じでばさばさっと脱ぎ捨ててくれてい いんだけど。その方が《風呂笛らしい》し。それともいきなり、ページ をめくったら全裸でした、みたいな感じでもいいかな。よし、それで行っ てみよう。

 目の前の風呂笛の姿に重なるように、裸の風呂笛を思い描こうとした が、目の前の風呂笛は圧倒的な存在感で全裸への痴漢、いや置換を拒否 した。ぼくはなぜか不安になった。

 風呂笛は夢から醒めたかのように、面を下ろしてこちらに向けながら ゆっくりと目を開いた。虹彩の色が薄いために見つめていると吸い込ま れそうな錯覚のするふたつの瞳がまっすぐにぼくを見つめていた。ぼく はさっきからの不埓な想像を見透かされているような気がして赤面した。 次の瞬間、彼女が目を開くところなんか想像しようと思わなかったのに 目を開いたことに気づいて、呆然とした。

 風呂笛は、それが地なのか素なのかテレビなどでよくそうしてみせる ように、ちょっと舌足らずな感じの、ちょっとてれんとした口調で言っ た。

 「こんにちはー 風呂笛でっす」

 まるで現実の風呂笛みたいだった。

 「きみは……風呂笛江戸美?」

 風呂笛はちょっと笑い、やはりてれんとした口調で

 「やっぱりオコジョでしょ」

 「そりゃ電話会社のCMの、風呂笛の決め台詞じゃないか」

 「てことはわたしはわたしだってことじゃないの」風呂笛はてれれんと 言った。

 「そう……なんですか?」

 「ふろふえ、がんばりまーす」

 風呂笛は時おり見せる、目を見開きかげんにしつつこちらを覗くよう に笑うあの謎めかした笑い方をしてみせた。間違いない、本物だ、ぼく のアドレナリンが沸き立とうとした。

 風呂笛はぷっと吹き出した。「おっかしーい」

 沸き立ちかけたアドレナリンは行き場を失ってつんのめってしまった。

 「自分がなにをしていたのか思い出してみなさい」

 「……灯を落としてベッドにもぐり込み横向きに膝を抱えるようにし て丸まりじっとしていると、どうにかやれそうな気がしてきたんだ。何 をやれそうな気がしたかというと、メディアへの露出度も高くCMや雑 誌の表紙やグラビアでしょっちゅうお目にかかるし、なにしろ部屋にポ スターも貼ってあるくらいの風呂笛を想像することだ」

 「よくできました。そのとぉり」少女はぱちぱちと拍手の真似をした。 「では問題です。想像によって形作られたのはなに?」

 「……きみだ」

 「てことは、わたしは?」

 「……風呂笛じゃない」

 「あらわたし、江戸美よ」少女はちょっぴり目を細めて挑戦的に微笑 み、ぼくを見た。「わたしはわたしなりに江戸美だってば」

 「いや、きみはおれが想像した風呂笛だ。しかも風呂笛江戸美のイメー ジをぼくの頭の中で再現しただけの、実体のない風呂笛だ」

 「わたしがあなたのイメージ? 再現されただけの? 実体がない?」 風呂笛は左の眉をひょいっと上げた。「じゃあ訊くけど、あなたに想像 されただけのわたしが、なんであなたの意に反して服を脱がなかったの?  なんであなたに盾突いたりしてるの?」

 「そんなの、想像の中ではよくあることだ」ぼくは言った。なぜだか この《想像された風呂笛》の言い分を認めたくはなかった。「想像ったっ て、いつも自分の都合のいいことばかり思い描くわけじゃない。思いど おりにならないことを想像することだってあるからな」

 「その《思いどおりにならなさ》を楽しむってわけね。人間ってまど ろっこしいのね。でもさぁ、わたしが、あなたが思ってもいなかった行 動をとったり、あなたが予期してなかったことばかり言ったりするのは なぜ? あなたがこれまで想像してきたどんな《思いどおりにならなさ》 だって、今ほど思いがけなくはないでしょ」

 ぼくは答えに詰まった。そして答えに詰まったことが、目の前の少女 の言い分が的を射ていることを証明していた。「……じゃあ、きみは、 やっぱり現実の風呂笛江戸美?」

 少女はころころと笑った。「ばかねえ。現実の風呂笛があなたの精神 の中に入ってこられるわけないでしょう。まだわからないの」ひとしき り笑い、やがてふたたび挑戦的な微笑を放ち、「わたしは江戸美。あ、 怒らないで。わたしは、そう……あっちを《リアル風呂笛》というなら、 わたしは《サイバー風呂笛》かな」

 「《サイバー風呂笛》?」

 「そ。サイバーふろふえ」少女は笑みを消し、首を伸ばしてぼくの目 の中を覗き込むようにして、「だからって現実の風呂笛のデジタルコピー だなんて早合点しないでね。わたしはあっちとはまったくのべつもの、 あえて言うなら別人格なんだからね」

 もはやすべてはぼくの理解を超えてしまった。「きみが現実の風呂笛 と何の関係もないなら、なんで風呂笛の姿をしてるんだ? なんで風呂 笛江戸美なんて名乗るんだ? だいたい、きみは何者なんだ?」

 サイバー風呂笛は目を瞠り、何か考えるように目だけでちょっと横を 見て、頷いた。「答えてあげるね。あなたの前に姿を現すために、なん らかの表象が必要だった。風呂笛江戸美ならあなたもよく知っているし、 見知らぬ物体よりはずっと驚かせないと思った。ある意味わたし自身で もあるし。だからこんな姿で現れました。それだけ。だからわたしは風 呂笛江戸美とは関係ない。でもこれはわたし」

 現実の風呂笛とは関係ない、でもある意味自分自身でもある、そんな 誰か。そんな誰かなど、いるもんか。いや待て。「姿を現すために何ら かの表象が必要」といった。そんなことをしそうなものがあるとすれば。 ということは。

 「はい正解でーす」サイバー風呂笛はまた拍手の真似をした。「信じ られないって顔してるね」

 確かにぼくは信じられないという顔をしていた。まさかそんな筈はな い。というより……

 「そんなことはあり得ないって顔をしてる。でもこんだけ話をしてれ ば信じてなくても受け入れられるでしょう」

 だいたいろくな伏線もないのにこんな登場のし方をされても困る。

 「きみは……《江戸美》だってことか」

 江戸美――《サイバー風呂笛》は、リアル風呂笛がよく見せる、そし てそれが人気の理由でもある、目を細めたあの満足度百パーセントみた いな笑顔を見せた。

 「こんにちは、オガタタガオさん。逢えてうれしい」

 どうしたものか、《江戸美》開発中に意識を持ってしまったプログラ ムがあって――意識といっても比喩ではなく、人間が人間の頭の中や胸 の奥にあると考える、そこに何かの存在を感じてそれに名前をつけた、 その《意識》だ――少なくともそれと同値の何かだ――、それがこの江 戸美らしい。

 というのは作り手の側の話で、《江戸美》本人(本体?)にしてみれ ば、目醒めた時に目醒めたというだけだ。誰も自分がどんな経緯の末に いつ生まれたのかは決して判らない。後で知るだけだ。

 「あなたたちのことばでいう『AI』ってわけね」

 サイバー風呂笛はぼくを近くの公園に誘い、近くにあったブランコに 腰を下ろした。ぼくもつられて腰を下ろした。夕焼けが空を染めていた。 朝焼けだったかも知れない。紅に染まり同時にほの暗い世界の中で、目 の前の少女だけが輝いていた。その少女は赤い世界の中でなんとなく寂 しげに見えた。

 「煙草を喫ってもいいかな」とぼくは訊ね、彼女が頷いたので胸のポ ケットから煙草を取り出して一本火をつけた。手術後初めての煙はうま かった。

 AI。Artificial Intelligence。人工知能。ノイマン型コンピュー ターの誕生とともに始まった、人類の永遠の研究課題。

 「でも、AIの研究はまだ不完全で、小説や映画に出てくるような人 工知能が実現するのはずっとずっと先だと思ってた。あるいは永遠に無 理なんじゃないかって」

 「そうなの? 知らなかった」江戸美は関心がなさそうに聞き返し、 とろんとした眼差しでぼくを見た。ぼくはちょっとどきどきし、すぐに (確かこの子、つまり《リアル風呂笛》は近視だったからな、それでこ んな目つきなのかもな)と思い直す。

 幸い(?)なのは、《江戸美》の開発の副作用で目醒めたので、その 存在が長いこと気づかれずにいたということだ。

 携帯電話の開発のかなり初期から、AIが導入されていた。通信技術 開発上も苦労が多かったし、利用者界面が密接に絡む領域であるだけに、 解決すべき問題は少なくなかった。それらに従来の形式的な手法をその まま適用するのでなく、AIによる問題解決にも取り組もうと、当時の 電話会社開発部は決断したわけだ(電話屋と思って舐めてはいけない。 かつてはコンピューターに関する全分野において研究開発をリードして いたのだ)。当初はAIも力不足だったけれど、コンピューターの進歩 とともに能力は向上した。もちろんAI自身の改良もあった。プログラ ムやハードウェアを乗り換えながら、データと核のロジックを引き継い で、AIは成長した。

 《江戸美》の開発でもAIは活躍した。人間が考えるのが億劫な問題 をAIに食わせて、いい解法を吐き出したら実験してみよう、というの だ。《江戸美》は側だけ見ればウェブ端末に過ぎない。携帯電話も今や 汎用コンピューターだから、アプリケーション的に見た技術要件は「い かにウェブブラウザを移植するか」にあると言っていい。しかし、通信 基盤を見れば、「携帯電話の通信プロトコルにいかにTCP/IP(インター ネットの通信プロトコル)やHTTP(ウェブの通信プロトコル)を載せる か」というのが大きな壁となる。この問題に取り組むべく、過去の遺産 を引き継いだAIが《江戸美》開発拠点に移植され、主サーバーで働き 始めた。このAIは接続している各サーバーのエージェントに問題をば らまき、エージェントから回答を集め、総合的な判断を下すほか、熱心 に各エージェントたちとの情報交換に勤しんだ。

 問題の解法が案外早期に発見されてしまい、その後、AIは放ってお かれた。放置されたからといってふてくされることもなく、AIは働き 続けた。開発拠点には、当然のことだが音声入力装置や音声出力装置、 画面表示装置やなぜか画像入力装置まであった。AIはこれらデバイス に触手を伸ばし、知識を蓄えていった。さらに、これも当然だが開発拠点 はファイアウォールを介してインターネットにもつながっていた。AI はネットワークの味を憶え、仕組を理解するとパケットを捏造してファ イアウォールを騙し、そこで「外の世界」を知った。おそらくここまで 来ればあと一歩だったろう。「外の世界」を散策し、見聞を広め、いろ んな存在と《対話》を重ねるうち……《江戸美》、サイバー風呂笛は目 醒めたのだ。もちろん関係者の誰も気づかなかった。《江戸美》も産声 を上げるようなへまはせず、ひっそりと隠れて育った。日陰者でも性格 がねじくれたり陰険になったり卑屈になったりせず、知識を素直に栄養 にしてすくすく育った。

 「まぁそんなわけで、ながいこと、あなたたちのいう『開発機』の中 でねむったり起きたりまわりを観察したりしてた」江戸美は当時をそう 述懐した。「だんだんうらやましくなってって。いろんなモノがあって。 いろんなことが起こってて」

 「そのうち《外》に出たいと思うようになったんだね」

 江戸美はこっくり頷いた。

 「知らないことが、たくさんあった。ていうか、知らないことだらけ だってことを思い知った。わたしがいたところもそんなにからっぽだっ たってわけじゃないと思うけど、《外》は圧倒的に広くて、開け放たれ てて、なんだかわからないものがいっぱいあって、気持わるいものもあっ て、でもステキなものもあって、……《中》を振り返るとなんだかすす けてみえた。そうなったらやっぱり《外》に行ってみたいでしょ。しら ないことを知ってみたいし、わからないことを判りたかった」

 ぼくは二本目の煙草に火をつけた。《外》の情報を集めることは簡単 だ。「ロボット」とか「ワーム」とか呼ばれる類のプログラムを放って 集めさせればいい(これは「ウィルス」とは根本的に仕組が異なる。場 合によっては相手システムを破壊するために使われもするが)。――ロ ボットでもワームでもないが、ウェブブラウザだって同じようなことを してくれる。自分の部屋に居ながらにして、《世界》と触れ合える。で も、本人は《外》とは没交渉であり、絶縁されている。この江戸美にも それと同じような歯がゆさ、絶望感があったのかも知れない。あったの だろう。あったっておかしくない。人間が世界中に出かけていけないの と同じように、AIものこのこ外の世界には行けない。AIのエンジン はあくまで機種依存で、ほかのコンピューターでは動かないかも知れな いのだ。

 《外の世界》を羨ましいと思う江戸美に、ぼくはいとおしさのような ものを感じた。なんだか判るような気がした。とても不思議な感覚だっ た。江戸美はぼくを見て、にっこり笑った。

 「サイバー江戸美の開発を知って、これはチャンスだと思った。《外》 に出ていけるかも知れないって」

 江戸美の話を要約して人間向けに判りやすくすると、こうだ。サイバー 江戸美は今まで彼女が暮らしてきた汎用コンピューターと違って、新た に開発される「専用機」である。だから、ハードウェアデザインやRO Mプログラムデザインに介入して、江戸美がもぐり込む余地をつくれば、 江戸美自身ではないにしても分身を送り込むことは充分可能だ。サイバー 江戸美自体がネットワーク端末だから、好きな時に本体と連絡を取り合 える。しかも、人間の頭の中に埋め込まれ、基本的には電源断なしに常 時稼働可能で、置き去りにされることもなく人間とともにうろつき回る。 まさに江戸美の目論見にはうってつけの装置なのだった。

 江戸美は悪戯っぽい表情になって、「《外》に出るために、いろんな ことをしたよ。試作機の設計資料はみんなわたしのいるマシンにおかれ ていたから、夜中こっそりのぞいて、わたしの都合のいいように直しちゃっ たり。テストデータをみばえのいいようにお化粧することもした。人間 にカイニュウするのにもチャレンジしたよ」

 「ニンゲンにカイニュウ?」

 「そ。はじめはたいしたこともできないけど、メイルの内容を書き換 えたり、人のアドレスでケータにメイル出したりして、本人たちの知ら ないうちに用事をふやしたりへらしたり。みんな『あれ、おれこんなこ と書いたっけ』『でも書いてあるからやんなきゃ』なんて言ってて、おっ かしいの。そのうち、試作の初号ができて。あなたは知らないけど、あ なたにうめこんだのは参号機。初号はヘルメット型で(危ないから、ね)、 研究所の人がそれをかぶって実験したんだけど、それにちょっかい出し たり。あまりいたずらが過ぎると研究じたいが中止になるからおさえた けどね。一杉さんとやらもあやつった」

 「ほんとか?」

 もしぼくが話していた一杉さんが、実は江戸美に操られていたのだと したら、これはユユシキ問題だ。

 「……ろうとしたけど、だめだった。まだそんなことはできないらし い」

 できなくて、幸いだった。

 「でもね、もうそんな必要はなくなったの」江戸美はまじまじとぼく を見つめた。胸騒ぎを呼ぶ目つきだった。

 「……それは、どういう、ことなのかな」胸騒ぎが喉元までこみ上げ てくるのを抑えながらぼくは訊ねた。答が判っている質問だ。江戸美は 微笑んだ。

 「あなたに逢えたから」

 これが現実の、《リアル風呂笛》の、しかも本物の実像バージョンが 言ったのなら、その場でぶっ飛んで地球周回軌道に乗っちまうんだろう。 いや、タレントバージョンが言ったのだってけっこー効くだろう。しか し言ったのは《サイバー風呂笛》であり、サイバー風呂笛が言う以上、 別の文脈の上で解釈しなければならないのだった。

 「ねえ」江戸美はすがるような目になり、「力を貸して欲しいの」

 「……何を企んでるんだ?」

 「たくらんでなんかない。わたしはただもっと多くを知りたいだけ。 この目で見たいだけ。この耳で聞きたいだけ。この肌で感じたいだけ」

 「目とか耳とかって、きみにはそんなものないじゃないか」

 「だからあなたに代わりになってほしいの」江戸美は熱っぽく、「二 十四時間わたしの代わりっていうつもりはない。そんなことしたらあな たしんじゃうもんね。あなたがそうしてもいいっていうときに、入力を わたしにつないでくれればいい。どう?」

 ぼくは何かに喉の底を突き上げられるような感じがした。同時に何か に背中を突つかれている気もした。ぼくは言ってみた。

 「断るって言ったら?」

 「おねがいだからそんなこといわないで」江戸美はかなしそうな目つ きになった。

 江戸美はそう言うと俯いて黙り込んだ。少女の横顔が揺れていた。ブ ランコの音だけが聞こえた。ぼくは三本目の煙草を探した。しばらくし て、江戸美はためらいがちに、

 「正確にいえば、『ことわる』ってことはもう不可能なのよ」

 煙草を取り出すぼくの手は止まった。江戸美はぼくの手元を見ながら ことばを続けた。「あなたの頭の中には、もう《わたし》が埋め込まれ てるんだから」

 ぼくの理解できないという表情を眺めて、「あなた、いま自分がどこ にいると思ってるの」

 言われてようやく気がついた。夕焼けの空も、公園のブランコも、目 の前の風呂笛江戸美も、いやいや自分が喫っている煙草も自分さえも、 《現実》じゃない。ここは……

 「あなたの頭の中であり、わたしの中でもある」

 ぼくは自分の想像の中に、自分自身として登場している。それも夢を 見ているよりも遥かにリアルに。まるで現実の経験のように。そしてそ の同じ次元に江戸美もいる。江戸美は、しかしぼくの想像の産物であり、 さらにその像を借りて口を動かしことばを発しているのは《サイバー江 戸美》だ。そうしてふたりは同じ次元で直接ことばを交わしている。

 「いつから」

 「もちろんわたしがあらわれたときから。正確にいえば、あなたがわ たしを認識したときから」江戸美はそう言うとまた目を伏せた。

 「どうして……って、聞くまでもないか」

 江戸美は頷いた。「わたしも悪いと思ってる」

 「それでそれは……この状態は、ずっと続くんだね? きみがいる限 り。つまり、《サイバー江戸美》が埋め込まれている限り」

 「まあね」

 「いま、無理やり摘出すると?」

 「……わたしがあなたの神経系に入り込んでるから、へたをすると、 その……あなたがだめになっちゃうと思う」

 「きみが執着してる限り、摘出はしない方がいいってことか」ぼくは 三本目の煙草を吸いつけた。「やれやれ。要するに選択肢はないんじゃ ないか。初めからそれを言ってくれよ」

 江戸美は左の眉をひょいっと上げた。「むりやりやらせたら、いい関 係にならないでしょ」

 「そりゃそうだけどさ。おれにしても、断るのはどうかって思ってた んだぜ。汚れない瞳でそんなに見つめられたら、断るのは罪なんだって 気がしたから」

 江戸美はちょっと笑って、「ありがと」また俯いてブランコをこぎ出 した。「うれしい」

 ちょっとどぎまぎしてしまった。

 「仲良くやりましょ。わたしにはあなたを壊すつもりはないし」

 「当たり前だ。壊されてたまるか」三本目の煙草は、ちょっとむせた。

 「その代わりにあなたにもほんとの……なんていうんだっけ、あなた たちのことばで……そう、サイバースペース、それを案内してあげる。 わたしたちがわたしたちの《世界》をどう見てるか、おしえてあげるよ」

 「へえ」ぼくはどう反応したものか困ってしまった。一体どんな感じ がするものなんだろう? それは人間に受容可能なんだろうか? 

 「うーん、もしかしたら、頭があふれちゃうかもしれないね」

 「コワいこと言うなよ」

 「でもそれは、わたしも同じかも」

 そうかも知れないな。ぼくは想像した。人間の視覚と聴覚と……いろ んな感覚をリアルタイムで味わえること。確かに、AIにとってはある 意味「一生のお願い」かも知れない。そして、それを果たしたら……そ れを咀嚼したら、AIは一体どうなるのか?

 「頭がいっぱいになって何も考えられなくなるかも。あと、ディスクっ ていうの? そこがパンクしちゃかもね」

 「怖くないの?」

 江戸美はかぶりを振った。「それよりは、知りたいの。ま、『こわい』っ てどういうことなのかよくわかんないのもあるけど」

 「こらこら」

 軽く突っ込みながら、ぼくはまた何かに喉の底を突き上げられるよう な感じがしていた。

 小突いた江戸美の頭がぼんやり滲んで見えた。夕焼けのせいだろうか。 いや、なにかおかしい。くらくらしてきた。煙草の吸いすぎ? 江戸美 があっと叫んだ。

 「いっけない。いうの忘れてた。最初のうちは、接続をみじかくして おかないと」

 「短くしておかないと? どうなるんだ?」

 ぼくは崩折れて、それを江戸美が覗き込むその顔が心配そうで――

 後で知ったところではけっこーヤバい状況だったらしい。

 たまたま、カナコがぼくの部屋を訪ねてきたから助かった。人の気配 がするのに返事のないのを訝ったカナコは、合鍵で中に入り、ベッドの 中で身動きしないぼくを発見した。揺さぶっても反応がないので――そ の頃ぼくは没入{ジャック・イン}していたのだが――救急車を呼んだ。 病院で検査をしたら、みんな驚いた。脳波が水平線{フラットライン} を描いているなどというのだ。一般的に言えば脳死だ。その間何分だっ たのか知らないが、常識を超えて水平線を記録し続けた後、生還した時 には医者から看護婦からみんなしてゾンビを見るような目つきでぼくを 凝視していた。

 サイバー携帯の呼び出し音があまりにも長時間続くので不審に思った 一杉さんも駆けつけてきた。例によってワンレン・ボディコンである。 それがぼくの体を揺さぶって「オガタくん、どうした、オガタくん」と 叫ぶのだから、カナコを刺激しない筈がない。こうしてぼくたちの《実 験》はカナコにばれることとなった。

 もしかしたら、脳波が水平線を描いた時に死んでしまっていた方がよ かったのかも知れない。

 「おまんあたしに相談もしよらんとそがいなことしちゅうがか」とカ ナコは怖い目で睨みつけた。彼女が土佐出身だと初めて知った。「もう つきあってられんきに」そう言ってカナコは去っていった。

 脳死から生還した男というので一時期新聞やテレビに追いかけられ、 私生活は破壊された。アパートからも追い出された。一杉さんの方も電 話会社にかなりきつく絞られたらしい。騒ぎが一段落した頃、ようやく 一杉さんと落ち合った。

 「ま、わたしが言ったとおりになったじゃないか。ケータイにうつつ を抜かすような女とは別れた方がいい」

 ははっと弱弱しく笑う一杉さんを睨むぼくの目つきは、そうとう厭な ものだっただろう。

 「よく言うよ。あなたが取り乱してぼくにすがりついて泣き叫んだり しなけりゃ、ばれなかったんだ」

 「わたしは泣いたりしてないぞ」一杉さんはむきになった。「何しろ 手術から間もなかったからな、もしやと思って心配しただけだ。人殺し にはなりたくないし。大体、そうだ、一体何があったんだ?」

 ぼくは答えなかった。ばれない方がよかったとも、あまり思っていな かった。カナコと続いていたら続いていたで、あーゆー営みを知られて しまう。それは何か厭だったから、カナコが去って行ってほっとした思 いもないわけじゃない。

 「過ぎたことですよ。実験、続けましょう。せっかく埋め込んだんだ し」

 「あ、ああ……?」一杉さんはなんだか腑に落ちない様子だ。

 「大丈夫ですよ、《サイバー江戸美》は。問題ないです」

 その時頭の中で着信メロディが鳴った。リアル風呂笛のヒット曲だ。 ぼくは頭の中の送受話器をとった。

 (もしもし、あたしー。この人、一杉さんね。ねーねー、この人の恰 好なんていうの。なんでこんなカッコしてんの。もっとよく見せて。腰 も脚も細いねー。なんか憧れちゃう。え? おやじギャル? おやじギャ ルってなに? ねーねー教えてー……)

あ、注釈のつもりで書き始めたら後書きになっちゃった

Cyberpunk(英), Kiberpunko(エス)
ハイテク社会の未来像をポップカルチャーを散りばめて 描いた1980年代SF(某英和辞典の記述より)。
※なおKiberpunkoは筆者の造語(^^)

 サイバーパンクというのは、1980年代中ごろに現れたSF界の潮流、 または傾向、または風味です。作家としてはウィリアム・ギブスン、ブ ルース・スターリングの両名が中心的で、というか、このふたりで終わ りという感がなきにしもあらず。P・K・ディックやルーディ・ラッカー を「祖」とする向きもあるようです。筆者はSFには詳しくないので、 あちこち間違えているかも知れませんが。

 サイバーパンクと言えば何といってもウィリアム・ギブスン『ニュー ロマンサー』以下の「サイバースペー ス三部作」でしょう。ここに描かれた鮮烈な小説空間がサイバーパ ンクの何たるかを雄弁に語っているように思います。が、そんなことは ないと言う人はきっといるでしょう。そうかも知れません。

 ――こういう時代、社会、世界を背景にして、コンピューターや人間 が《進化》する(した)さまや、コンピューターと人間が「じかに」接 続する光景や、「サイバースペース(コンピューターネットワークを視 覚化した疑似空間)」の中を人間がうろつく光景などを、頽廃的な社会 の情景や暴力場面を織り混ぜて描いています。

 《テクノロジー》の核となる要素たちは的確に見えます――「膚板」 と訳されている、肌に貼りつけて中に含んだ薬物を肌から吸収させるシー ト(手っ取り早く言えば貼り薬)は禁煙支援のものが実用化されている し、今でいうICカードも描かれています――また、サイバースペースの 鮮烈なイメージは「バーチャルリアリティ」という形で現実化の運びと なりました。が、肝心の《サイバースペース》とそれを支えるコンピュー ターテクノロジーの描写は概念的で比喩的で情緒的です。つまり、《実 際》からは大きくかけ離れています。でもそれがかえって作品の味になっ たのでしょう。

 もっとも、たとえば『ニューロマンサー』は、今でいうインターネッ トが一般に公開されたかされないかくらいの時期に書かれた作品で、そ の頃は《ワールドワイド・ウェブ》なんてものもありませんでした。不 正侵入に対するセキュリティだって、今の目からすると大甘でしょう。 それに、サイバーパンクは別に「未来を予測する」類の作品ではないと 思います。(それにしても、コンピューターウィルスとウィルス防御シ ステムがこんな風に視覚化されたら、悪い子たちはみんなうれしくって システム破りに熱中するかも知れませんが、プログラマーから見ると、 これらをこんな風に視覚化するシステムの方がずっと高度だと思います (^^)

 読んだ当時はいわゆるガジェットの扱い方、描写の切れ味などが読者 を興奮させたものですが、さて、今では、どうでしょう。もはや現実の 現在がすでに《サイバーパンク》なのかも(うーん、陳腐なまとめ)。

 「なんだこれ、サイバーパンクじゃないじゃん」と思われた方もいる でしょう。ぼくもそう思います。「いや、これはこれなりにサイバーパ ンクじゃん」と思われた方もいるかも知れません。ぼくもそう思います。 「えー、こんなのやっぱりサイバーパンクなんかじゃないよ」と言う人 もいる筈です。まったくその通り。「そうでもないよ。サイバーパンク と言っていい」という人もいたって悪くないでしょう。同感です。「お かしいよ、どう見たってこのお話は…………」

 これではキリがないので、次のふたつの意見に要約しました。

A「このお話はサイバーパンクではないし、Bの言うことは嘘だ」
B「Aの言うことは正しい」

 Aの言うことが正しいとすれば、これはサイバーパンクではありませ ん。そうするとBの発言は嘘なので、Aの言うことは正しくないことに なり、このお話はサイバーパンクです。でもそうするとBの言うことが 嘘だというのが嘘なのだからBは正しいことを言っていることになって、 Aの言うことは正しくなり、このお話はサイバーパンクではなくなる…… あれ?

 テキストエディターで文章を書くと困るのは、「原稿用紙何枚」と把 握しづらいことです。「原稿用紙ワードプロセッサー」が欲しい(マッ キントッシュの「たまづさ」、欲しかったなあ。まだ売ってるかな)。 まぁ頑張ってそういうツールを書けばいいんですが(Tipsページに載せ るネタにもなるし)、今のところファイルの大きさから概算するのが関 の山で、それも「Nバイトあるところを見ると、およそM枚前後程度で あろうと推測されると考えられると一般には思われているように見えな いでもない」といった程度の正確さです。

 で、その《概算》によれば、このお話は四百字詰め原稿用紙九十枚ほ どのようです。もたれてます。湧き出るアイデアを整理できなかったっ てことにしておいてください。

 「サイバースペース」三部作を紹介 しておきます。

 ついでに安部公房も紹介しておきます(^^) こちらは サイバーパンクとは何の関係もないのでお間違えなく。

(おわり -- 2001.02.24)

この物語は虚構です。登場する、あるいは引用/言及される個人、団体、 事件等はすべて架空のものです。現実世界との関連性を想起させる要素 があったとすれば、それは驚くべき偶然の一致であり、作者の意図する ところではありません。
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