カンガルーはおかまバーから這い出す

 午前五時。

 夏ならばもうまっ黄色の太陽が恨みでもあるかのように地上を睨みつ けている。冬ならばまだ空は知らん顔で眠り込んでいる。どちらとも判 らないアイマイな灰色の空の下に、扉を開けて、カンガルーは這うよう に出てきた。

 通りまで出ると、街はもうもぞもぞと朝の胎動を始めていた。不思議 に思えた。どうしてこんなに朝早くからこんなにたくさんの人間、たく さんの車が活動していられるのか。街はまだ眠り込んでいた。昨夜の乱 痴気騒ぎを忘れようとするかのように静まり返っていた。

 その眠りもほんの一瞬なんだけどさ。

 カンガルーはこれが最初で最後とでも言いたげに扉を振り返った。

 何の変哲もない合板製の――いやもしかしたら合板を装ったプラスチッ ク製かも知れない――ドア。黒っぽい焦げ茶色が重々しい。ノッカーま でついている。

 それは紛れもなくおかまバーの扉だった。ついさっきまで、おかまバー の中で悪夢のような夜を過ごしていた。少なくともそのような気分だっ た。

 「『お花をあげましょ ぼんぼりに』って歌があるだろ」

 「……何か間違ってない?」

 「間違ってなんかないよ。『灯をつけましょ 桃の花』って、続くん だ」

 「逆だってば」

 「逆じゃないさ。あの『ぼんぼり』って、何のことだか知ってる」

 「〈あんどん〉のことでしょ」

 「違うね。エスペラント語にbonvoliという動詞がある。『好意を持っ て〜する』という意味から、副詞形や命令形で『どうぞ〜してください』 という形で使われることが多いんじゃが……すなわちこれは、『どうか お花をあげてください』とか、『どうぞ明かりを灯してください』とい う意味だ」

 「違うよ」

 「そうかね。この歌が成立したのは十九世紀末のことだ」

 「そうなの?」

 「その頃、港町にはボンボリーニというイタリア人が来ていた。つま りこの歌は、ボンボリーニさん、暗くなってきたから灯をつけて差し上 げましょう、という意味だ。まぁそういう状況の歌じゃな。このふたり の関係がどんなものか判ろうというものじゃ。ちなみにこのボンボリー ニは、例の赤い靴を履いていた女の子を拉致した悪徳異人と同一人物と みて相違ない」

 「じゃあ、『桃の花』は?」

 「もっと簡単だ。やはり十九世紀末に、伝説的な英雄がいた」

 「伝説的な英雄?」

 「さよう。桃の花という関取だ。すなわちこの詞は、『桃の花さま、 お花を貰ってください』という意味だ。もちろん、『お花』は本当の花 ではないな。お花という名の芸妓じゃったと考えるのが妥当な解釈とい うものじゃよ、ワトソンくん。もちろん、女中だったかも知れんし、実 の娘を貢ごうとしていたのかも知れん。あくどい奴よのぅ」

 「なんかそれ、落語の『ちはやふる』みたいじゃない?」

 「とんでもない。ここには犯罪の匂いがぷんぷんしているのが判らん かね、ヘイスティングズ。贈収賄、不義密通、人身売買、人身御供、とー ぜん背後には連続殺人が控えていよう。落語だなんてとんでもありませ ん、等々力警部。だいたい、わしは落語の素養がないのだ」

 こんな話が夜どおしされていたのだ。気が狂いそうにならなかったら どうかしている。

 おかまバーにはおかまはいなかった。いるのはおかまもどきだけだっ た。最悪だ。なぜなら、

「おかまバーにおかまもどきしかいないのだったら、それは『おかまバー』 とは呼べないのではないか。それは『おかまバーもどき』と呼ばれるべ きか、『おかまもどきバー』と呼ばれるべきか」

なんて議論が始まるからだった。そしてその議論はすぐに連想で連接さ れて連糸のように連鎖して行くのだった。

 議論は現に始まってしまっていた(それを議論と呼ぶならばだが)。

 「だいたい、『おかまもどき』ってなによ。この言い方、おかまもど きを差別してないぃ?」

 特に化粧の濃いおかまもどきが口を尖らせた。「差別だわ。差別だわ。 差別だわったら差別なんだもんね」

 「うっさいわね」

 「おかま自体がまだまだ差別されているってのに、『おかまもどき』 はさらに差別されてるんだわ。ひどいわん」

 「うっさいったら」

 「差別か、そうでないかはわたしには興味ないけど」薄化粧のおかま もどきが言った。「わたし、本名をオハマ・モトキって言うんだけど」

 「あらそう。あたしはカドマ・モキオ」

 別のおかまもどきが応酬し、薄化粧のおかまもどきは無視した。「子 どもん時から『おかまもどき』っていぢめられて」

 「まあ、憎らしい。無視しやがった」

 「本当におかまもどきになっちゃった。笑っちゃうわねん」

 「まあ、憎らしい。無視しやがった」

 「でも『おかまもどき』ってみんな一言で済ませてるけど、『おかまもどき』を 甘く見ないで欲しいものだら」

 「ちょっとー、いつまで無視してんのよこいつ。憎らしいったらない わ」

 「きいい」

 「うっさいなー。やめなさいよこんな時に」

 「きき、きいいきぃ」

 「うっせーから止めろって言ってんだよ判んねえのかこいつ」

 喧嘩が始まりグラスが砕け氷が飛び散りビール瓶が破片と化して飛散 しそうになった時、

 おかまもどきの一人がカンガルーに気づいた。

 「あら。あら。あらあらあらあららららあらああ。カンガルーじゃな いの」

 おかまもどきはカンガルーの顔を覗き込んだ。

 店の中は薄暗かった。霞がかかったようになっていた。煙草と酒と化 粧の匂いが濃かった。形ばかりのカウンターと形ばかりの酒棚。安っぽ い合成皮革ばりのボックス席が並び、おかまもどきが鈴なりになってい るそこに、カンガルーはいた。カンガルーは目をしばたたいた。

 おかまもどきどもがわっとカンガルーを取り囲んだ。「まーきゃわゆ いきゃわゆぅいわん」「わんわん」

 「どーしたの。まるで暗殺者に狙われてきわどくおかまばーに逃げ込 んだみたいな顔色であり、表情よ」

 「……ぼくが暗殺者に狙われているっていうの?」

 「やぁねぇただの比喩よ。そんなこというと、厭な顔をするわよ」

 「してみてよ」

 おかまもどきの一人は厭な顔をした。

 「……ホントに厭な顔だ」

 「イヤな奴ね、あんた。怖い顔をするわよ」

 「してみてよ」

 おかまもどきの一人は怖い顔をした。

 「こわいよー」

 「ふふふ。まいったか」

 「おぃおぃ、子どものカンガルー相手に勝ち誇んなさんな」

 「ぼくは子どもじゃないよ。ここはおかまバーなの」

 「そうよ。そういうことになってる」おかまもどきの一人が煙草の煙 を吐き出しながら言った。

 「おかまバーってなに」

 「おやおや。この子はおかまバーも知らないんだ」おかまもどきの一 人はわざとらしく呆れてみせた。「本当に迷い込んで来たみたいじゃん」

 「おかまバーってのはね、おかまがいる酒場のことよ。店の人間はみ んなおかま。それを売り物にしてるの。もっとも、ここにはおかまもど きしかいないってことになってるけど」

 喫煙おかまもどきがやさしく説明し、つけくわた。「おかまって何、 なんて訊くんじゃないよ、哀しくなるから」

 カンガルーは素直に頷いた。「じゃあ、訊かない。おねえさんたちは おかまもどきなの?」

 「そうよ。そういうことになってる」薄化粧のおかまもどきが退屈そ うに言った。「別に自分から名乗ってるわけじゃないけどね」

 「自分から名乗っているわけじゃないにもかかわらず、おかまもどき なんだね?」

 「『名づける』とはそういうことさ」薄化粧のおかまもどきは判った 風な口を聞いた。「回りの誰彼が〈変なヤツ〉と言い出すから〈変なヤ ツ〉になるのであって、自ら『私は変わっている。私を〈変な奴〉と呼 びたまえ』などとは誰も決して言わないのさ」

 中低音のちょっとかすれた声で言った。

 「じゃあ、ぼくは〈イヤな奴〉なのかな、さっきそう言われたから」

 おかまもどきたちはどっと笑った。空気がそよいだ。

 「そう呼んで欲しけりゃそう呼んであげるよ。でもあんたはカンガルー だ、わたしたちと同じに、自分から名乗っているわけじゃないにもかか わらず。そうだろ」

 カンガルーはちょっと考えて頷いた。「そりゃそうだ」

 おかまもどきたちはまたどっと笑った。空気がそよいだ。

 カンガルーは眉を顰めて鼻を鳴らした。「白粉(おしろい)くさい」

 「そりゃそうよお」小肥りのおかまもどきが応じた。「おかまバー、 ないしおかまもどきバー、ないしおかまバーもどきですもの。酒場です もの。その上おかまもどきですもの。すっぴんじゃ出られないに決まっ てるじゃーないの」

 「いい匂いじゃないな。胸が悪くなりそう」

 「あら。そんなこと言って。むっとするわよ」

 「してみてよ」

 おかまもどきはむっとした。

 「おお、むっとしてるむっとしてる。でも、ぼくは白粉の匂いが嫌い なんだ」

 「まあ。♀のくせに」

 「でもカンガルーだから」

 「あによ。カンガルーだって♀は♀でしょ」

 カンガルーは左の耳だけぴっと折り曲げた。「♀だってカンガルーは カンガルーだよ」

 「それもそうね」おかまもどきはあっさり折れた。

 「あんたたちいつまでもこんにゃく問答みたいなことやってんの」薄 化粧のおかまもどきが割って入った。「問題は、なぜカンガルーがここ にいるのか、でしょ」

 「何か問題があったんだっけ」「あったらしいわ」「いやだわ、いや だわん」

 「カンガルーがここにいるとまずいの?」カンガルーは訊ねた。

 「まずいかどうかは一概には言えないけどね、でも普通はこんな店に はいないから」薄化粧のおかまは眉をひょいと上げてみせた。

 「普通はいないと言ったら、おかまもどきだって普通はいないんでしょ」

 薄化粧は、やれやれこの子はとでも言いたそうに肩をすくめて煙草を 取り出すと、

 「そもそも、『おかまバーにおかまもどきがいる』と言われることの 意味が判る?」

 カンガルーは首を横に振った。

 「つまり、おかまちゃんがいないと思われているってわけ。これは判 る?」

 カンガルーは首を縦に振った。

 「だからって、今この店にいるのがみんな同じ仲間だと思ったら大間 違いよ。中には単なるおかまもいる。単なるおかまのくせにおかまもど きのふりをしてもぐり込んでるのね。言ってみれば敵のスパイ。
 それから、本当は女なのにおかまになりすましているのもいる。つま り、おかまもどきのふりをしたおかまになりすました女。最低ね。
 もちろん、おかまもどきのふりをしたおかまになりすました女のよう に見えるれっきとした男性もいる。これもサイテー。さらにさらに、性 転換した女――〈もと男性〉というべきかしら?――までいるわ。おか まもどきのふりをしたおかまになりすました女のように見えるれっきと した男性から性転換したもと男性。凄まじいわね。
 ひとことで言えば、油断がならないのよ」煙草に火をつけた。

 「あなたは――」

 カンガルーは薄化粧のおかまもどきをしげしげと眺めた。薄化粧は小 首を傾げ、唇の一部に薄笑いを浮かべ、挑戦するかのようにカンガルー の視線を受け止めていた。自信満満の薄化粧とも見えるし単に化粧嫌い のためともとれた。

 「――どれに当たるのかな……」

 「さあてねぇ。それがそんなに簡単に判るくらいなら世界だってもっ と単純で住みやすいんじゃないかしら?」

 「そうかも知れないね」

 「さらに言えば、先に述べたことの論理的帰結として、おかまもどき のふりをしたおかまになりすました女のように見えるれっきとした男性 から性転換したもと男性、を装った女性、に見せかけた性転換したもと 女性、というのも存在し得る。わたしがそれかも知れなくてよ」

 「モトキちゃん、駄目じゃなぁい、子どものカンガルーをいぢめちゃ」

 別の鬚の濃そうなおかまもどきが参加した。

 「ぼくは子どもじゃないよ」

 「じゃあ答えて。カンガルーにもおかまっているの?」

 「いると思うよ」

 「じゃあ、おかまもどきは?」

 「判らない」

 「ほぅら、子どもだ」
 カンガルーは左の耳だけぴっと折り曲げた。

 「さあ、これまでのところを整理してみましょう」薄化粧が煙草を丁 寧に消しながら言った。

 「ポイントとなる箇所を挙げてください」

 カンガルーは少し考えて、

 「一つ。この店はおかまバーだが現在はおかまもどきしかいない。少 なくともそう思われてる。二つ。そういう店を『おかまバー』と呼ぶべ きかどうか。三つ。おかまもどきしかいないのだが中には本もののおか まもいれば女もいれば男もいれば性転換したもと男性もいて、誰が真性 おかまもどきか判らない。少なくともそう思われてる」

 「四つ。よこちょに禿がある。五ついっぱい禿がある……あら、ごめ んなすわいね、ものを数え上げようとするとついついこの歌を歌っちゃ うの」

 「……」

 鬚の濃そうなおかまもどきが言った。「四つ。そういう場所になぜカ ンガルーがいるのか? そもそも」

 その途端鬚の濃そうなおかまもどきはまるで銃弾に撃たれたかのよう にふっ飛んで倒れた。薄化粧は何の感情もこもっていない目でそれを見 やると、

 「あ〜あ、やっぱり」カンガルーを見つめた。「あんた?」

 「まさか。だいたいぼくがなんで」

 鬚の濃そうなおかまもどきはしばらくぴくぴく痙攣していたが、やがて すべての身動きを停止した。薄化粧は何の感情も籠っていない声で、

 「邪魔だから片づけてよ」

 おかまもどきの一団はきゃいきゃい言いながら片づけた。

 「死んだの?」

 「さあね。死んだのかも知れないし、死んだふりをしただけかも」

 「死んだのだとしたら、なぜ? 死んだふりをしただけなら、なぜ?」

 「さあね。質問の多い子ね。でも、あなたにはもっと大事な質問があ るでしょう」

 「……あなたに何の感情も籠っていないよう見えるのには何故?」
 薄化粧は薄笑いを浮かべた――ように見えた。「それがあんたの一番 聞きたいこと?」

 「さあね」

 「あらあら。わたしの真似をするのね。のねのねのねん」

 「別にそんなつもりはないよ。……もっと大事な質問て何か判らない だけさ」

 「平然としてるのね」

 「平然とはしてない。カンガルーだからそう見えるだけなんじゃない」

 「かもね」薄化粧は次の煙草に火をつけた。「シラスネズミだったら、 何もなくてもいつも何かに怯えているように見えたことでしょう」

 「シラスネズミってなに?」

 「知らない。いま勝手に創った。図鑑には出てるかもね」

 カンガルーは左の耳を折ったり伸ばしたりした。

 「ねえ、誰かこの子に教えてあげてよ」

 薄化粧が投げやりな調子で言うと、胸のやたらと大きいおかまもどき が寄ってきた。「いいわよん。おねえたまが教えてあ・げ・ゆ」

 カンガルーは両方の耳をぴっと折り曲げた。「胸の大きな人は嫌いだ な」

 「贅沢言うんじゃねえよこのカンガルー野郎」巨大胸は地金を出した。

 「さて、出した地金は女の地金でしょうか、男(ないしおかま、ない しおかまもどき)の地金でしょか」

 「う〜ん、……おかまもどき?」

 「ふっ」巨大胸は虚無的に笑って、「ではここで問題です。『おかま もどき』とはなに?」

 カンガルーは両方の耳をぐるぐる回して、

 「なにって、名詞〈おかま〉に接尾辞〈もどき〉が付加された形で、 〈もどき〉は『似てるけど違う』とか『にせの』とかいう意味だから、 『疑似おかま』ってことでしょ」

 「ふむ。語義の説明としては理にかなっている」巨大胸は腕を組んだ。 巨大な胸がせりあがってよけい巨大に見えた。

 「しかしこの説明はもっとも重要な点を故意に見過ごしているように 見えます」

 「それはなにかと訊ねたら」薄化粧が口を挟んだ。巨大胸はそのこと ばを胸で挟んだ。

 「確かに〈おかまもどき〉はおかまをもどいたものに相違ありません。 しかし、では、『おかまをもどく』のは誰か? 換言すれば、『おかま でない』とはどういうことなのか? これであります。
 おかまをもどく以上、もどくその主体はおかまであってはなりません。 おかまがおかまのふりをしてみせても所詮おかまのままであって、もど いたことにはなりません。仮にもどいたのだとしてもそれは〈おかまも どきもどき〉というまた別のカテゴリーに属します。
 おかまもどきである以上、おかまでないものがもどいているのでなけ ればならない。では『おかまでない』とはどういうことを指すのでしょ う? これがそもそもの最初から立ちはだかっている問題なのでありま す」

 カンガルーの前に立ちはだかる巨大胸は、一気に言い切って得意気に 胸をゆすった。まばらな拍手が聞こえた。薄化粧だった。

 「この問題を解決しない限り、あなた(あぁたよ、あぁた)はここか ら一歩も先に進めないのでありまして、すなわちこれは緊急に取り組む べき最重要課題であること必定、」

 そこまで言った時、巨大胸はまるで銃弾に撃たれたかのようにふっ飛 んで倒れた。俯せに倒れ、巨大胸のせいで小さく二、三回弾み、仰むけ に転がった。巨大な胸がジェリーのように震えている。薄化粧は何の感 情もこもっていない目でそれを見やると、

 「あ〜あ、まただわよ」カンガルーを見つめた。「あんた?」

 「まさか。だいたいぼくがなんで」

 巨大胸の巨大な胸はしばらくジェリー状に震えていたが、やがてそれ も、またそれの土台となっている肉体もすべての身動きを停止した。薄 化粧は何の感情も籠っていない声で、

 「邪魔だから片づけてよ」

 おかまもどきの一団はきゃいきゃい言いながら片づけた。

 「死んだの?」

 「さあね。死んだのかも知れないし、死んだふりをしただけかも」

 「巨大胸のおねえさんに、あなた、わざと喋らせたね」

 「わたしが? どうして?」

 カンガルーは両耳をぴっと折って、「さっき自分で言ったってよさそ うなところを、わざわざ誰か言ってやってよと言ってあの巨大胸を呼ん だ。巨大胸は何も知らないで得意げに滔滔とまくしたてた。あなたは滔 滔とまくしたてるとどうなるか知っていて、わざと巨大胸に喋らせたん だ」

 「なかなか興味深い推論でした」薄化粧は何の感情も籠っていない表 情で応えた。「でも地名的な欠陥があります。東京都は、ヒガシキョウ トではありません。もとい、致命的な血管があります。左上腕部の動脈 がいまにも破れそうなの。もとい、致命的な欠陥があります。巨大胸ちゃ ん(なんと、それが彼女の源氏名なのよん。驚いたわねん)が滔滔とま くしたてるかどうかなんて、わたしには判る筈がないわ」

 「それはどうかな?」カンガルーは右の耳をぐるぐる回した。「同じ 店の仲間なら、巨大胸がいつも滔滔とまくしたてる傾向があるってこと を知っているかも知れない」

 「知らないかも知れない」薄化粧は薄い笑いを唇に貼りつけた。

 「もしあんたの言うとおりなら、わたしは犯意を持ってあの子を呼ん だと言えるかも知れない。でもそうでなかったら? あんたの推論は蚊 の足っぽの先に乗っかってるようなもんだわ」

 「足の先っぽじゃなくて?」

 「ええそうよ、もちろん、足の先っぽじゃなくて」

 カンガルーは左の耳をくいっと後ろに倒した。

 「まぁいいさ。大事なのはそんなことじゃない」

 「そのとおり。大事なのはそんなことじゃない」

 薄化粧は次の煙草に火をつけた。「では大事なのはなんなのでしょう」

 「これだから、こんなところには来たくなかったんだ」

 「あんですって?」

 「これだからこんなところには来たくなかったんだ」

 「わたしだってあんたの相手をする気なんかなかったわよ」薄化粧は 煙草の煙を吹きつけ、カンガルーはむせた。

 「『こんなところには来たくなかった』って言ったわね。ここに来た くなかったなら、どんなところに来たかったの? こんなところに来た くなかったと思ってたなら、どうしてこんなところに来ちまったの。こ こに来る間あんたは何をしてたのよ。運命に抗うこともせず、自分の非 運を嘆き、現状に文句を言ってるだけで膝を抱えてたっていうの?」

 声がさっきよりかすれ、語尾が切り詰められていた。薄化粧の顔色は ちょっぴり蒼ざめて見えた。

 カンガルーはしばらく耳をぐるぐるさせていた。

 「そんな暇はなかったと思うな。気がついたらここにいたんだ、きっ と」

 「気がついたらここにいたくせに、こんなところには来たくなかった の」

 「うん、来たくなかったの」

 「気がつく前はどうしていたの。何を考えていたの」

 「思い出せない。でもいろんなことを考えていたと思うの」

 「たとえば?」

 「平穏と安息が支配する世界、とか」

 「そりゃ正反対だね。ここは不穏と暗黒が支配する世界だから」

 「平凡と反則が支配する世界も考えたと思うし」

 「スペクタクルのかけらもなさそうだね」

 「平安と音速が支配する世界もあり得るなって思った気もするし」

 「うーん、アインシュタインというよりはニュートン的でしょうか」

 「でもそういうのはみんなきっとつまんないんだろうなって思ったり」

 薄化粧はずっこけ、かろうじて踏みとどまるとカンガルーをどついた。 「どっちなんだよ、もう。大人を莫迦にすると承知しないよ〜」

 「オトナ? オトナってなに?」

 薄化粧はそれには答えず、

 「そんなことばっかり考えてたっての。それで〈こんなところ〉に来 て文句を言ってるのね。いい気なもんだわ。じゃあさ、そういうことを 考えてたあんたの目から見て、ここはどんなところなの」

 カンガルーはまた耳をぐるぐるさせた。

 「閉塞と安穏が支配する世界、かな。それで……」

 薄化粧はカンガルーをじっと見つめていた。

 「上等じゃんか。それで?」

 「みんなして自分たちの住む世界を壊れていると思う、そんな世界さ」

 「判った風なことを言うわねぃ」

 「世界中に60億の人間がいて、そのうちの24億人がこの世界は壊れて ると平気で言う。人間たちは壊れてしまったと言う。街角でお茶を飲み ながら、映画館でポップコーンを頬張りながら、夕方どらえもんのアニ メを見ながら『世界はこんなに壊れちまった』とため息をつく。夜ベッ ドで寝物語に言うんだ、『こんなに壊れ果てたこの世界だけど、こんな に壊れてしまった世界のために、愛を交わそう』」

 「それで?」

 「愛を交わすんだろう、きっと。世界が生まれ変われるように」

 「生まれ変われるのかしら?」

 「さあね。ぼくには判らないし、大事なのはそんなことじゃない」

 薄化粧はため息をついた。あるいはついたように見えた。

 「まるでわたしたち全員おかまもどきですらないと言われてるみたい だわ。おかまもどきであることの意味を問うことには意味がないと言わ れているみたいよ」

 「おねえさんたちはおかまもどきじゃないの」

 「それは、さっきも言ったでしょう、巨大胸ちゃんが。『おかまでな いとは何か』が解決しない限り、わたしたちが何者かなんて言えないわ」

 「おねえさんたちが何者か……」

 「自ら名乗っているわけでもないのに。ではなぜそう名づけられたの か。なぜわたしたちは『おかまでない何か』と判断されたのか。そういっ たことよ」

 「じゃ、実のところはおかまかもしれない」

 「かも知れないし、おかまになりたがってる女かも知れない」

 「そんなことあるの?」

 「性同一性障害って知ってる? 生物学的には女性だけど、意識は男 性とか、その逆とかいう病気。そういうのがあるのなら、生物学的には 女性だけど、意識としては『自分を女性だと思っている男性、女になり たがっている男性』であるという症例だってあり得る筈でしょう。もち ろんその逆だって」

 「複雑だね」

 「それがあんたの紛れ込んで来たこの世界よ。見なさい、今に至るま で何ひとつ、解決の兆しも見えやしない」

 カンガルーは肩をすくめた。

 「さっき、おねえさん、言ったよね。ぼくにはもっと大事な質問があ るだろうって。……それはなに?」

 薄化粧はしばらく考え込み、やがて、言った。

 「いいわ。もう教えてあげてもいいかもね。それは」

 その途端薄化粧はまるで銃弾に撃たれたかのようにふっ飛んで倒れた。 背後にロングヘアーのおかまもどきが立っていた。光沢のある長い黒髪 のほかはどこといって特徴のない変哲のないそのおかまもどきは何の感 情もこもっていない目で倒れたまま痙攣している薄化粧を見やると、

 「あんた?」カンガルーを見つめた。

 「まさか。だいたいぼくがなんで」

 薄化粧はしばらく痙攣を継続していたが、やがてすべての身動きを停 止した。ロングヘアーは何の感情も籠っていない声で、

 「邪魔だから片づけてよ」

 おかまもどきの一団はきゃいきゃい言いながら片づけた。

 「死んだの?」

 「さあね」ロングヘアーは肩をすくめた。「死んだのかも知れないし、 死んだふりをしただけかも」

 「やったのは、あなたでしょ?」

 「まさか」ロングヘアーは手にしていた黒光りするものを背中に隠し た。「あたしはそんなことしません。する理由がないもの」

 カンガルーは両方の耳をぴっと折り曲げた。

 「聞きたかったことが聞けなくなっちゃった」

 「かあいそうね」ロングヘアーはおざなりに聞こえる口調で答えた。

 「あたしが代わりに教えてあげられればいいけど、そうもいかないし」

 「どうして?」

 「だって何を話そうとしてたのかなんて、あたし知らないもん」ロン グヘアーはかわいぶった。「知らないもんっもんっ」

 「それじゃしょうがないね」

 「でもね、たぶん聞かなくても大したことじゃないのよ」

 「どうして」

 「あんたは突然ここに出現しただけの、いわば通りすがり。言わなく ても通りすがり。あたしたちは誰もあんたのことなんか知らない。そん な間柄で、大したことが言えると思って?」

 カンガルーは頷いた。「なるほど、それもそうだね。でも本当は知っ てるんじゃないの?」

 「なにを」ロングヘアーは目を大きく見開いてカンガルーを見つめた。 カンガルーも見つめ返した。やがてカンガルーは再び頷いた。

 「ああ、そうだね、お姉さんは何も知る筈ないよね」

 「判ってもらえたみたいね。おねえさん、うれしいわ」

 「よしてよ」カンガルーは左の耳を折り曲げた。

 「あんたがあんたでなけりゃ、うれしさのあまり抱きついてキスした いくらいだわ」

 「ぼくがぼくでなければ……ね」カンガルーは鸚鵡返した。ロングヘ アーは謎めいた微笑を浮かべてそこにいた。

 「ぼく、もう出て行ってもいいかな」

 「さあ。いいんじゃない」

 ロングヘアーは謎めいた微笑のままで言った。「もともとここにいる 筈のないものならば、出て行くのも自由。出て行かないのも自由かも知 れないけど」

 カンガルーが立ち上がったのを見て、ロングヘアーは言った。

 「いい尻尾ね」

 「しっぽ?……そうか、ぼくには尻尾があったんだっけ」

 カンガルーは尻尾をちょいと毛づくろいした。

 「おなかのアップリケのポケットも、いけてるわよ。青地に黄色のか がり糸」

 「そうかな? ありがとう……ありがとうと、言うんだよね、きっと」

 「どうでもいいさ。何が入っているの?」

 「さあ。ちゃんと見たことがないんだ」

 「これからね」

 「たぶんね」

 あっちに見える黒っぽい焦げ茶色の扉に向かって歩き出しかけて、カ ンガルーは立ち止まり、振り向いた。ロングヘアーは興味があるわけじゃ ないんだとでも言いたげにぼんやりと見ていた。カンガルーは言った。

 「さっきおねえさんは『あんたがあんたでなければ』と言ったけど…… ぼくのことを知ってるの」

 「知らないわ。あんた誰」

 「カンガルー。女。十四歳」

 「はぁん」ロングヘアーは納得したような納得のいかないような曖昧 な表情を浮かべた。カンガルーはその表情にことばを投げた。

 「それに何か意味があるの?」

 「さあね」

 カンガルーは尻尾でバランスをとりながら扉に向かった。

 午前六時を回っていた。

 夏ならばもう蝉が鳴き始め太陽が暴君ぶって地球をなぶり始めている。 冬ならば空が眠い目をこすりながら大欠伸をしてようやく布団から出よ うとしている。相変わらずどちらとも判らないアイマイな灰色の空の下 で、カンガルーは次のジャンプのために身構えた。

(おわり -- 2001.01.26)

この物語は虚構です。登場する、あるいは引用/言及される個人、団体、 事件等はすべて架空のものです。現実世界との関連性を想起させる要素 があったとすれば、それは驚くべき偶然の一致であり、作者の意図する ところではありません。
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