エレベーターの落書き

 世界中のエレベーターというエレベーターに、必ず落書きはある。

 たぶん誰も気にしてはいないだろう。ぼくも気にしていない。正確に は、気にしていなかった。

 一度気になってしまうと、もうそれから逃げられない。夜も昼も、元 気な時も眠い時も、女の子と一緒の時もそうでない時も、そのことばか り気にしてしまうようになる。

 これを読んだ人は、その後から気にしてしまうだろう。気にするのが いいのかどうか判らない。しかしぼくは書かずにはいられない。ぼくは ぼくの気を鎮めるために書くだけだ。



 そのことが気になるようになったのは、今から二年前、とあ る超巨大企業のとある超巨大研究所に出向くようになったときだ。

 もちろんそれまでにも、至るところでさんざんエレベーターの中の落 書きを目にしてきて、さまざまな場所のさまざまなエレベーターにさま ざまな落書きが、おそらくはさまざまな人間によってなされているのは 知っていた。内容というかレベルは場所によらずだいたい似通っている。 それは明らかに低俗で、エレベーターの内壁という文字を書きつけにく いところにわざわざ、尖った金属か何かで彫りつけるという労苦を払っ て書くにはあまりにひどく、情けない内容であることが殆どである。

 どうしてわざわざそんなことをするんだろうと、落書きを見つけるた びに思ったものだ。しかも、エレベーターに乗っている時間といえばた かだか数十秒ていどではないか。そんな僅かな時間を縫って、金属や強 化プラスチックの壁ないし操作パネルに字を彫りつけるなどという面倒 な作業を、しかもわざわざそうすべき切実な動機をまったく感じさせな い文やことばや絵を、どうしてわざわざ書きつけるのだろうか? それ とも〈彼ら〉にとっては切実なのだろうか? 彼らとは誰だ?

 その超巨大企業のとある研究所のエレベーターで落書きを発見した時 には、だから、とても驚いた。

 この国を代表するような超巨大企業である。しかも、その企業の技術 の最先端を担う(であろうと想像される)研究所である。そこの連中が、 わざわざエレベーターに、こんなツマラナイことを書きつけるのかと思っ てびっくりしたのだ。

 それは貨物搬送用のエレベーターだった。貨物用ではあったが、搬入 とも搬出とも関係のない人間もよく利用していた。ほかならぬぼくがそ うだったわけだが、ぼくも自発的に利用し始めたわけではなく、人に教 わって乗るようになった。

 われわれが出入りしていた居室は建物の端の方にあり、一方、乗用エ レベーターは建物の中心部に設置されている。乗用エレベーターを使う と目的の居室に行くまでずいぶん歩かなければならない(なにぶん、超 巨大企業の超巨大研究所(一説には人口三万人ともいわれる)だったの で、建物も超巨大だった)。ふだんは我慢するとしても、昼食時などは それだけのことで出遅れ、食堂で長い間待たされたり食事にありつけな かったりする。これは莫迦らしい。さいわい、貨物用エレベーターがわ れわれの居室のすぐ目の前にあった。これを使うと、食堂まで行くのに も非常に便利なのである。

 さてそのエレベーターに乗って、ふと操作盤の近くを見ると、あるあ る。こんなところにも落書きが。それもちょーくだらない怪作ぞろいだ。 ぼくは考え込んでしまった。超巨大企業といえばこの国の中でも外で も有名な一流企業だ。しかも超巨大研究所だ。とうぜん一流の優秀な人 材がここには集っている筈である。一流の優秀な頭脳が描くにしてはち と情けない内容が、ここには描かれている。やれやれ、超巨大企業の超 巨大研究所といっても、実は大したことないのかな??

 見つけた場所が貨物搬送用のエレベーターだったということは、事情 を斟酌する役には立たないだろう。貨物搬送のためにこれを利用する人 間は、超巨大企業の社員でない場合が多い。すなわち出入りは厳密に検 査され、かつまたエレベーターは明白によその会社の所有物なのである から、常識として破廉恥な行為に及ぶことはない。誰のものとも知れぬ ものだから、また誰とも判らぬ立場に乗じられるから、こういう仕業に 及ぶのである。百歩譲って、人品骨柄いやしからぬとは遺憾ながら言い 難い連中も決して少ないとは言えぬとしよう。しかし、そうした連中は 荷物と共に乗り降りするから手持ち無沙汰ということが少ない筈で、な にごとかを書きつける暇もないし、しようとも思わないのではあるまい か。

 ぼくたちのように、外部の人間なのだが仕事の都合でこの研究所に常 駐している連中の仕業ということも、可能性としてはある。しかしわれ われにとってもよその会社の所有物を器物損壊する筈がない。見つかっ たらただじゃ済まないのだ。下手をすれば取り引き停止という事態を招 き、招いた張本人は当然のごとく馘首だ。とすれば、下手人は内部にい るに違いない。超巨大企業の超巨大研究所に勤務する一流で優秀な頭脳 の持ち主(と思われている連中)が、こういうお下劣な落書きをしやがっ たに違いないのだ。

 真っ先に浮かんだのは48ポイント特太ゴシックの「なぜ」? ということばと夏の打ち上げ花火のように闇にきらめき落ちて行く七色 の、いや24ビットフルカラー、一六七〇万色余の無数の疑問符だった。 ほかの場所で見つけたのだったら、ああまたか、程度で済んでいただろ う。なぜ? こんな研究所で。なぜ? 貨物用エレベーターに。なぜ?  狭い空間の内壁のあちこちに刻まれた落書き。なぜ? 四文字ことば やそれを表す図柄の展覧会。そう、展覧会。性や性器や性行為を意味す ることばや記号。排泄行為や排泄物を表す「絵」。無署名の反芸術たち。

 研究の悩みとかが刻まれてあるのなら、まだ共感できる余地はあった だろう。しかしそんなものは目を凝らして隅隅まで見ても見つからない のだった。プログラムコードの落書きなんてあって欲しくもないが、あっ て欲しいと思ったところでお目にかかれないのだった。哲学的疑問とか、 気の利いたアフォリズムとか、叙情的な呟きとか、そうした、目にした 人の心を打ったり染み入ったりするような作品なんか、どれほど請い願っ ても、見つからないのだ。あるのは即物的な、俗物的な、毒物的な、動 物的な、恫喝的な、総括的な、相関的な、傍観的な、暴慢的な、まあお げれつね、こんなもん書く暇があるくらいならもっとマシなことができ るだろう、とかこんなことしか書くことがないのかよお兄ちゃん情けな くって泣けてきちゃうよ、的な、かなしいカナシイ〈作品〉ばかりなの であった。

 なぜ?

 斎藤由貴の、その名も「なぜ」という歌が、頭の中に右から流れ込ん できて渦を巻いてずっとずっと鳴り響いた。

 ぼくはあまりのことに圧倒され、これはひとつ研究してみなくてはな るまいと思い、通いながら研究を重ね、考察を続けた。その研究所に通っ ている間中仕事が手につかず納期も遅れがちで品質も悪かったのは、そ ういうわけだ。

 考えてみれば、〈おげれつ〉というのは、いけないことなのだろうか?  〈おげれつ〉でいったい何が悪いのか?

 〈おげれつなこと〉を口走りたい〈欲望〉が人間に内在しているのは 間違いない。今さら言うまでもないことだ。いがらしみきおの漫画にあっ たが、高校野球の選手宣誓で、主将が例によって右手を差し上げて、た だし右手は〈女性器シンボル〉で、「××××!」と思いっっっっきり 叫ぶ。一度叫んだら止まらなくなり、そのことばが折り重なるくらい連 呼する。見ている役員が「あれだけ言わせとけば明日の本番では言わな いでしょう」「テレビに映っていると思うとどうしてもアレを叫びたく なるものですからな」……

 あるいは、学識豊かで人格高潔な学者なんだが、酔っ払うと卑猥なこ とばを連発する、「あれさえなければいい先生なんだけどねえ」、とか、 類似の話はよく聞く。

 「それは真の高潔ではないのだ」などといったら、〈高潔なる人格〉 なんて存在し得ない。ど〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んなに偉いセンセイだって子孫は残しているの だし、高尚な学問をしている人だろうが高度な理論を構築した人だろう が苦悩に満ちた思索家だろうが家を建てるときには便所をつくる。性に 興味のない人間なんていやしない。いるように見えても、ないふりを装 うているだけか、それは非常な意志の力で煩悩を断ち切ったか、そうで なければ、病気やらなにやらで興味を持つことに意味がなくなってしまっ たのだ。そうとも。そうに決まっておるのだ。その高校球児のように、 みんな心の奥底では、×××と叫びたくてしょうがないのだ。きっとそ うに違いない。そうでないということがあろうか。そうに決まっている。

 なにしろ人間は一年中発情期という珍しい動物である。第二次性徴期 を迎えたら後はずっと発情しっぱなしなのだ。いっぽう、日常生活の時 間の大部分はなぜか〈そーゆーこと〉を言えない時間であり、言えない 空間で過ごす。だからトイレ(の個室)やエレベーターのような閉ざさ れた空間、閉塞の中で、抑圧された自我が解放され、ついついほとばしっ てしまう。扉が閉じた瞬間、解放される。閉じ込めておいたものがむら むらと立ち上ってくる。おげれつなことを口走りたい。ぐふ。ぐふふ。 ぐうふふふうふふうふうふふふううう。えい。書いちゃえ。えい。えい えい。えいえいえいえい。ああすっきりした。ぐふふふふふのふ。

 それはいい。きわめて常識的であり、論理的である。常識的過ぎ、論 理的過ぎて面白みがないほど常識的であり、論理的である。だが、それ にしても、エレベーターに乗っている時間はあまりにも短い。その刹那 的とも言える一瞬の空隙を縫って、〈おげれつ〉なことを書きつけさせ るその情熱は何に由来するのか。

 考えてみれば、エレベーターの箱の中以上に非日常的な空間があるだ ろうか。日常生活の中でこれほどに狭く閉鎖的な空間があるだろうか。 トイレはかなり狭いと言えるが、アレは入る目的が目的だ。それに公共 のトイレなら上の方は広く開いているし、扉の下にも隙間がある。トイ レと違って、エレベーターはそこに入って、目的の階まで上がり下がり する以外には人は何もしない。ただ突っ立っているだけだ。し かもみんな何故か乗り込むや否や扉の方を向いて、視線を向けるあてに 困り、階数表示板を見たり、操作盤を眺めたり、天井の隅を睨んだり、 俯いてみたり瞑想に耽ったり、ふだんしないようなことばかりしている ではないか。

 ふだん日常的に利用する空間の中で、エレベーターは並外れて非日常 である。毎日どれほど乗ろうと、毎日何百回乗ろうと、非日常である。 そうに決まった。だいたいあんな無機質なハコの中に閉じ込められるな どということが、日常的な体験であっていい筈がない。従って、そこで は単なる非日常とは次元の違う、めくるめく非日常、あられもない非日 常、テッテ的な非日常、冷酷無情残忍無比な非日常がこっそり展開され るに違いない。

 そうだ、そうに違いない。それが証拠に、めくるめく非日常の逸話は 枚挙に暇がないじゃないか。

 映画でもテレビドラマでも小説でも現実を見ても、エレベーターの中 には誘拐犯が潜むは謎の殺人者が潜むは凶暴な狂人が潜むはテロリスト が潜むは粘液したたるエイリアンが潜むは無表情なターミネーターが潜 むは、みんなして何も知らぬ登場人物(もしくは、われわれ)を待ち受 けているじゃないか。誰も潜んでいなければ地震や火事が起こるし、停 止する時は必ず階と階の間だし、そうでなければ綱が切れて自由落下す るし、自由落下しなければ制御が壊れてもの凄い速度で最上階まで上昇 するし、一見平穏無事に思えても突如天井から屍体が降ってくる。銃撃 戦が展開される。外壁に据えられたシースルーの、つまり強化ガラスば りで外が見えるタイプのエレベーターでは必ずガラスが砕けて乗客が放 り出される。そうでなければヘリコプターに乗った悪役に狙撃される。 銃撃戦が展開される。ろくなことがない。

 エレベーターの中でふたりきりになると必ず愛し合う男女(または男 男、または女女)の話がある。なんか、燃え上がってしまうらしい。こ れは、なんというか、めくるめくにも程がある、という例であろう。そ ういう行為に走ってしまうのもエレベーターの非日常性の為せるわざと 言って言えないことはないが、めくるめけば(めくるめくれば、かな?) いいというものではない。めくるめかなければいいというものでもない が。

 どういう理由か、エレベーターの中で独りになるや、突如ストリップ を始めるという奇妙な性癖(習慣? 嗜好?)を持った女性の話を聞い たことがある。ちょっとめくるめき過ぎの気もするが、彼女は昼間、住 人の出払った頃あいを見計らってマンションのエレベーターに乗り込み、 同乗者がいなくなるまでずっと上ったり下ったりしてチャンスを待つ。 そして独りになると、猛然と着ているものをぜんぶ脱ぐ。脱ぎ終わった ら、驚くべき速さでまた身につける。

 ということをするのだそうだ。

 そして夜になると、オフィスビルに忍び込み、勤め人たちが退けるのを じっと待つ。そして徐ろにエレベーターに乗り込み、素早く脱いで素早く 着る、ということを繰り返すのだそうだ。

 迅速な着脱が可能なように、紐を一本きゅいっと引っ張るとするする と服がほどけて脱げていく工夫、は、そんな仕掛けで素早く脱げても面 白みがないのでしていないらしい。あくまで普通の恰好で、冬場には冬 場なりの重装備で、あくまで己の力と技のみを頼んで行なうのだそうだ。 ひとりで黙黙と遂行するのだそうだ。目撃した守衛の証言によれば、深 夜、不審に上下を繰り返すエレベーターが一基存在するので調べに行っ たところ、中から全裸の女が走り出てきた。もちろん守衛は驚いた。一 瞬のことなので正確に女かどうか判らなかったが、守衛の直感はそれが 女であることを知らせたようである。腰を抜かした守衛を後目に衣類を 小脇に抱えたその女は脱兎の如く駆け去った。これがその女性について これまで知られている世界で唯一の逸話である。

 常人には、当然ながら、何が彼女をそうした行為に駆り立てるのかは 窺い知れない。しかしエレベーターのあの箱に何かが潜んでいるのは間 違いない。なぜなら彼女はシースルーのエレベーターでは決してそんな ことをしないからだ。彼女がことに及ぶのは密閉型のハコの中において のみなのである。選んでいるのだ。

 もちろん男子だって負けてはおらず、エレベーターの中で独りになる や、突如ぐるぐると高速で回り出す男の話も読んだことがある。回ると いっても自身が回転するのではなく、陸上のトラックを周回するように、 狭い箱の中を左回り(反時計回り)に回るそうだ。あまり高速で回転す るとバターになってしまう恐れがあるが、そのスリルがまたたまらない のだと言う。だからある日乗り込んだエレベーターの床一面にバターが 流れていたら、変わり果てた彼の姿だと思って欲しい。

 一人になるや否やぐわっと箱いっぱいに充満するのが趣味、だか病気、 という話も読んだことがある。だんだん怪談の領域に近づいてきたが、 いかんせん非日常だ、そんなこともあるだろう。

 いずれも「独りになった時」というのがカギである。

 こんなのはまだ生やさしい方で、客が一人も乗っていない時のエレベー ターガールは何をしているのか。これはやはり、のっそりとぐろを巻い ていたり液化したりガス化したりしてくつろいでいるに違いない、あの 帽子を取ると、後頭部にはぎょろりと大きな目玉が睨んでいて、髪を掻 き分けると耳から耳まで裂けた大きな口がぱっくり開いていてよだれた らたら、さっきの客はうまそうだったなぐひひひひひひ、そんなことを 考え始めたら怖くなって二度とデパートのエレベーターに乗れなくなっ た友人がいる。

 当然ながら、エレベーターに乗るのはデパガだけではない。だからい つなんどきふと乗り合わせた同乗者の後頭部がくわっと真っ赤な口を開 くか、その口にぱっくり開いた暗黒の口腔の中から血の色をした細い蛇 のような舌がちろちろと覗かないか、気が気でない。ついにはあらゆる エレベーターに乗れなくなってしまったのだ。自分専用の個人エレベー ターを作ったがもうだめだ。ある日ひとりで乗っていたら、自分の後頭 部が今にもぱっくり口を開けそうにむずむずしたという。

 いやいやいや、それならば、誰も乗っていないエレベーターの中では、 いったい何が起こっているのか。エレベーターの扉がすっと開くのと同 じように、奥の壁がすっと開いて、そこは異次元空間からの出口で、あ るいは黄泉(よみ)の世界から通じていて、粘液したたるエイリアンやひ とつ目小僧なんかが飛び出してうろうろしているのではないか。

 そういうものなのだ。

 日常の中にぽっかり口を開けた非日常。それがエレベーターの入口か も知れない。非日常空間が箱ごと日常生活に突出している、それがエレ ベーターなのかも知れない。今度それを体験するのはあなたなのかも知 れない。ならば、その箱の内壁に〈おげれつ〉なことばや絵を刻むとい う行為は、いわば「非日常からの脱出」「日常への回帰」を意志しての ものではあるまいか。なるほど、そうであれば、あの生々しいまでの 「生」は理解できる。というより、それでしか理解できないではないか。 おそらく彼ら(彼らって誰だ?)は、あの無機質の箱の中で単なる非日 常とは次元の違う、めくるめく非日常、あられもない非日常、テッテ的 な非日常、冷酷無情残忍無比な非日常に出くわし、あるいは予感し、そ れから逃れ穏やかで退屈で生ぬるい日常に回帰するために、その呪文を 刻みつけたのに違いない。

 あるいは彼らにとっては毎日の日日が非日常の連続で、実はもうすで にテッテ的にめくるめきまくった非日常に襲われ続けていて、そこから 脱出するためにエレベーターに逃げ込んだのかも知れない。リビドーに 溢れた日常に、原初的快感にたゆたう日常に。

 そういうことだったのか。

 ぼくはこの研究成果を自分のウェブページに掲載した。ワールドワイ ドウェブ、世界規模の織物、ハイパーリンクの無秩序な蜘蛛の巣は偉大 なる自己満足メディアである。世界中の人間がこれほど気軽にしかも廉 価に「出版」「発行」できる時代はかつてなかった。世界中の人間がこ れほどまでに自己満足に熱中している時代はかつてなかった。ぼくも自 己満足に注力した。仕事も馘になりかけていたからよけいに精が出た。

 誰も気にするまいと思っていたのだが、世の中は広い。そのうち、く もの巣の中を気まぐれに覗いて回る人たちの間で評判を呼ぶようなこと になったらしい。ある日とある有名なウェブサイト(商用サイトだった) の企画担当から連絡があり、エレベーターの落書きについて記事を頼ま れた。ぼくは言われるままに思うところを書いた。自分のページに書い たことをやさしく書き直しただけだが、商用ページとしてはその方がよ かったようだ。その記事は大反響を呼び起こした。それまでそのページ は一ヶ月で三十万ヒットと、目標値を割り込んでいたのだが、ぼくの記 事が掲載されるや、一週間で四十万ヒットを稼いだ。翌月からその記事 は毎週連載になった。原稿料も出た。加えて、ヒット数に応じた歩合ま で貰える。

 ちょうどその頃、会社を馘になった。でも翌月の銀行口座への振込み 額はそれまでの給料より多かった。ぼくは安心し、勢いに乗ってぼろア パートを引き払った。

 次の記事も好評だったが、その次からは材料に困った。七転八倒した。 そうこうするうちにテレビの深夜番組がこの話題を取り上げ、ぼくもテ レビに引っ張り出された。

 そうしてぼくはすっかり「エレベーターの落書き評論家」になった。



 今は「エレベーターの中の落書き」ばかり気にして歩く毎日である。

 ぼーっとしてもいられない。何せ今や商売だから、ネタを枯らすよう なことがあってはいけない。気にしないように努めても向こうの方から 目に飛び込んでくるというのもある。これが職業意識というのか、勝手 に目につくような感じだ。「親切な読者の方方」や「情報通」や「騒ぎ 立てたがり屋」といった人人から知らせを受けるというのもある。

 だいたい、エレベーターの落書きなんぞで長いことメシが食える筈も なく、というよりそもそも食えてはおかしいとも思うけれども、大して 言うべきこともないものだからすぐに言うことがなくなった。それでも 自分ひとりならいわば市場を独占できるからいい。どういうわけかこの 世の中には、ちょっと目につくとすぐに「市場に参入」する輩がいる。 やたらとでかい顔をして歩き回り、ほどなく「この分野にいちばん通じ ているのは自分だ」と言い出す。「正しい××は△△だ。これが判って いないのはニセ者だ」などと言い始める。先に始めた人間を暗に批判し 出す。もちろん、そうなのかも知れない。こんなことに興味を持つのは 世界中で自分ひとりと思い込むのはある種の自惚れだろう。判ったよう なふりをして偉そうなことを言っている見知らぬ人間に厭な顔をしてい るのは、実は彼(または彼女)たちなのかも知れない。(でもそれを判っ ているのは自分だけと思い込むのも相当な自惚れに違いない)

 ともかく、「同業者」というか「競合他者」というか、そういう人た ちが(何人もいたのだ! これはオドロキだ)現れ、エレベーターの落 書きについて各種のメディアで語り始めた。仕事を失いたくなければ、 ぼくも躍起になって奮起して克己して殺気を漲らせて一気に決起しなけ ればならないのだった。

 しかし見つけようとして見つけるものは大概こちらの予想どおりで、 それはつまり予想するものしか見つけようとしないというか目に入らな いからかも知れないが、慣れた目には「ああ、ヘンだな」で終わってし まう。せいぜい「ああ、このヘンさ加減は○○の時に£££で見たあの ▼▼▼▼と同じ類だな」で完結する。既存の分類に当てはまらないもの などない。

 どうしたものか人間には分類癖とでも呼ぶべきものがあるそうだ。分 類嫌いのある学者が「自分には分類癖はない。この説は疑わしい」と言 い出して、五〇〇万人に大調査を敢行して分類癖のある人間と分類癖の ない人間に分類したところ、八割が「分類癖あり」という結果となった という。

 という話はうそだが、人は最初はびっくりするだけでいても慣れてく るとその〈ヘンさ〉を数個の小箱に仕分け始める。そうすることによっ て落ち着きを得たいのかも知れない。そうすることでなんとか非力な人 間にも扱える範囲にものごとを収めたいのかも知れない。きっとそうだ ろう。目の前に立ち現れるさまざまな事象を個別のまま、ほかの何とも まったく関連のないただひとつきりの特別な事象として扱うことなど人 間にはできないのだ。この「分類癖」「分類の仕方」「分類の傾向」を 冷静に観察して記録しておけば、そのうち〈分類評論家〉の看板もあげ られるかも知れない。

 メイルなどで教えてもらった物件もいちおう検分するようにしている が、これらは大概くだらない。ひと目で嘘マヤカシでっちあげと判る代 物ばかりだ。「都市伝説」などと大仰な名前をつけられているけれど、 要するに「街の噂」。実在する特定の誰彼に関するでない、実在しない (かどうかは定かでないが、アヤフヤな)ものごとに関するまことしや かな噂。「なんちゃっておじさん」や「口裂け女」や 「走る婆さん」みたいな。インターネット、ウェブが現れた頃 から、その伝搬速度と到達範囲が加速しているのはつとに指摘されてい るとおりである。

 そういうのは昔からあった。かつての小学生には「トイレの青い 手」は定番だったし、大昔には「赤マント」というのが活 躍したらしいし。真っ赤なマントを翻し時速91キロで(かどうかは定か でない)全国津津浦浦に出没して回ったそうだ。小さな町まで律義に訪 れたそうだから、ミュージッシャンの「全国10大都市ツアー」なんて目 じゃない。

 そんなものばかりだ。

From: momo@non-existent.net.com.org
Subject: エレベーターの落書き

はじめまして。めぐみ@某女子大です。
いつもセンセイのエッセイを愛読してます。あたしもエレベーターの落
書きにはイカっている者です。
だって、きれいなエレベーターの中に、あんなきったない落書きがある
んです。雰囲気コワレルったらないです。

そこはぁ、裏が一流シティホテルになってるカラオケBOXなの。
ていうか、裏がカラオケBOX になってる一流ホテルっていうか。
二本の通りに挟まって建ってんだけど、片っぽが超ゴージャスな目抜き
通りで、もう片っぽが大衆向け裏通りなのね。それでそんな風な建物建
てたらしいんだけど、ホテルきれいだしカラオケBOXゴージャス
だから(^^)あたしたちも愛用してるんです。
センセイは『グランデーガホテル』って知りませんか? あそこです。

あそこの、というかどっちかっていうと裏のカラオケBOX『アミーゴ』
の方なのかな、とにかくそこの、エレベーター。
ひっどーいの。
一ヶ月前まではなかったんだけど、この間行ったら、ボタン並んでると
ことの下の方に、きったなーい落書きが。カレは面白がってたけど、あ
たしはもー厭になっちゃって、引き返して帰っちゃった。
(略)
ではでは〜 (^^)/~~~

 ある日そんなメイルを貰ったので、見に行くことにした。「目抜き通 り」なんてことばを知っているのは只者じゃない。といって、何かを期 待したわけでもなく、なりゆきというか職業的惰性のよ うなものだった。

 ヘンなものと出逢うのは初めてのことじゃない。以前、まだエレベー ターの落書きを研究するようになるずっと前、変哲もない喫茶店の見栄 えのしない壁にありふれたガムの銀紙が貼りついているのを発見したこ とがある。

 なんでそんなものを〈発見〉しちゃったのかまったく説明できないし、 ましてどうしてそれを剥がしてみようと思い立ったのか自分でも理解で きない。それを剥すととろーりと赤い血が流れ出したので、慌てて塞ぎ 直し、知らん顔をして店を出た。そんなことがあった。

 思えばあれ以来、「ヘンなものごと」に引っかかるようになってしまっ たのかも知れない。あれがぼくにとってのめくるめく非日常の入口だっ たのかも知れない。魔界はもうすぐそこまで迫ってきているのかも。

 グランデーガホテルは有名な超巨大都市の超巨大ホテルだ。裏がカラ オケボックスだった(というかカラオケボックスの裏がそのホテルとい うか)とは知らなかった。超ゴージャスな目抜き通りと貧民向け裏通り に挟まって、超巨大な異様、もとい威容を見せていた。その裏に当たる カラオケボックスはちんまりとかわゆげに鎮座ましましていた。このア ンバランスが何ともいえない趣を醸し出している、とする「都市建築評 論家」もいる。そんなことはない、という評論家もいる。

 まるでちょっと涼みに外に出ていた客のような顔をしてカラオケボッ クス『アミーゴ』に入り込み、カウンターの前を何食わぬ顔をして通り 過ぎ、廊下を通って問題のエレベーターに乗り込む。いつもの癖できょ ろきょろと見回す。メイルを貰ってから時間も経っていたし、もう消さ れているかと思ったが、操作盤の下の方に、まだ残っていた。それは絵 のようでもあり、図案のようでもあり、字のようでもあり、何でもない 単なる線の集まりのようでもあった。

 ぼくは判じものを前にするかのようにそれに見入った。しばらく固まっ てしまっていたと思う。エレベーターは最上階に達した。平日の昼間の せいか他に乗客はいなかった。ぼくは乗ったまま一階のボタンを押した。

 見ようによっては確かに排泄物の象徴絵のようにも見えなくもないし、 また、性器の図案のように見えなくもない。かわゆい女子大生(いや、 かわゆいかどうか知りませんが)が嫌がるのも無理はない眺めだった。 よく見ていると、乱暴に字を書き殴ったようにも思えてくる。でもやっ ぱり絵か。いやいや、えっちな印かも。ただ他の落書きと異なっていた のは、刻みつけたその線が震えていて不明瞭なところだった。刻みが深 いところもあれば浅くて殆どかすれる程度のところもあるし、刻み損なっ て何度か描き直したところもある。そんなこと判るのかって? 判るの だ。そこが職業評論家の恐ろしさで、毎日眺め続けているうちに判るよ うになったのだ。

 この線の具合は、何の気なしに書きつけた悪戯書きのそれに似ていた。 しかし線の集合たる絵ないし図案ないし文字列の規模は、悪戯書きの範 疇を遥かに超えていた。

 下降するエレベーターの中、ぼくはインスタントカメラで何枚か写真 を撮った。もう一往復するつもりでいたら、一階に着いたところで中年 の男女が乗り込んで来た。ぼくは降りた。男女とも会社員風、特に女は シックなスーツを軽く着こなして見ためも切れそうな「有能な管理職、 またはばりばりの企画担当」風だったが、平日の昼間にカラオケボック スで一体何をするのだろう。扉が閉まる間際、何やら服がこすれ合う気 配がしたように感じた。もしかしたらあの人たちが(も)「エレベーター の中でふたりきりになると必ず愛し合う男女」なのかもしれない。ある いは男男、女女かも。

 ぼくは帰宅した。

 自宅のマンションにはエレベーターがある。十階建てのビルだから当 然ある。ぼくは七階に住んでおり、毎日疲れて帰ってくる。エレベーター を利用するのはきわめて自然なことである。マンションは古代ローマ時 代に建設された、由緒正しいものだ(ちゃんと「竣工 紀元前100年」 と彫り込まれている)。自ずとエレベーターも由緒正しいことになる。

 カエサルも乗ったであろうかというエレベーターに乗り込み、扉を閉 め、七階のボタンを押して、さて帰り道つらつら眺めてきたさっきの落 書きの写真をまた見ようとポケットから取り出しかけた時、二階に止ま り、見知らぬ女性が乗り込んできた。

 いや、何の根拠も予備知識もないのに「女性」と断定してはいけない。 このような場合は「女性のように見受けられる人間」と書くのが現代小 説の正しい作法だ。現実にどう見ても女性にしか見えないのに実は男性、 とか、体つきも仕種もことばづかいも男性なのに本当は女性、とかいう 人が増えているではないか。登場するや否や「この人、女性でぇぇす」 なんて無邪気に言い放てる時代じゃない。

 いずれにしろこのマンションの住人は殆ど見知らないので、ここの住 人なのか住人の知合いなのかまったく無関係なのか見分けはつかない。 女はサングラスをかけている上、髪が長くて顔を覆っており横から窺っ ても表情は判らない。季節外れのコートを着込んだ女は乗り込んでくる と扉を背にしたまま黒いサングラスの奥からぼくの方を見つめているよ うだった。女の声がした。

 「あなた、エレベーターの落書き評論家のPさんね」

 女がいきなりぼくの肩書きまで持ち出したのでちょっと驚いた。こん なマイナーな世界(?)のことをどうして知っているのだろう。

 「あなたは?」

 「私は通りすがりの女です」女の声がした。どうみてもこの女が喋っ ているのに違いないが、まるで天井の一隅から響いてくるように聞こえ る。

 「通りすがりなんですか」

 「通りすがりです。かつ女です」女はきわめて冷静に言った。

 「……本当ですか」

 「本当です。しかも女です」女の声には微塵の揺らぎもなかった。 「毎日、あちこちを通りすがっております。かてて加えて、女です」

 「するとあなたは……」

 「通りすがりのプロ、と呼ばれても、わたくしは敢えて否定しないで しょう」女の声には奇妙な自信が満ち溢れていた。

 「女子プロ、と呼んでくださってもよろしいのよ、私はその辺の性差 別には寛容です、たとえその寛容が男性中心の価値観に飼い慣らされた が故の隷属的屈辱的な言語観念であったのだとしても。でも隷属が屈辱 だというのは誰が定めたことなのでしょう。それもまた特定の時代の特 定の文化の特定の価値観に束縛された特定の観念なのでは。いかがお思 い?」

 ぼくは圧倒されて口すくみ、立ちごもった。言い間違えではない。口 は竦んで動かず、足が明瞭に動かなくなっていたのだ。

 「その、通りすがりさんが、どういう御用ですか」

 「用なんかあるわけないじゃありませんか。通りすがりなんですよ」

 「そうですか。そうですよね。ごめんなさい」なんでぼくが謝るのか 判らない。「じゃ、ぼくはこれで……」

 「お待ちなさいな」

 腕を強く引っ張られたような気がした。ものすごい腕力と引力とを感 じた。扉が閉められ、エレベーターが上昇を始めた。

 「あなたとは一度話してみたいと思っていました。通りすがった甲斐 があったというものですわ」

 女はサングラスの奥でどんな表情をしているのか、ぼくは窺ったが判 らない。

 「話してみたいって、どういうことを……」思わず、こんなつまらな い仕事をしているぼくなんかに、と、卑下してしまいたくなる。

 「そうねえ……どんな話がいいかしら。うふふ」

 女は口もとは動かさず口調だけ悪戯っぽく笑った。

 「もしかして、ふざけてるのか?」

 「まあ、怒りっぽいのね。女性に嫌われるわよ」女の声は笑っている ようには聞こえない。「そんなものあるわけないと思ってるんですけど、 本当にあるのですか」

 「なにがですか」

 「『エレベーターの落書き』よ」

 「あります」見たことないのか、こいつ。

 「でも、わざわざ落書きでエレベーターを描くなんて」

 「その『の』ではありません。エレベーター内に描かれた落書き、と いう意味です」

 「は、な〜んだ。つまらないの」

 女は明らかに落胆したふりを装っていた。この文章の「明らかに」は 「落胆する」に係るのか、「装う」にかかるのか、どっちだろう。

 「わたくし、かねがね、日本語の格助詞の多義性、換言すれば曖昧さ に不満を持っておりました。今回もそう。同格の『の』なのか、所有の 『の』なのかきちんと明確な区別をつけるべきでは。いかがお思い?」

 「毎日通りすがっていて、よくそんなことまで考える時間があります ね」

 「通りすがっていればこそ考えられるんじゃありませんか。莫迦ね」

 女は抱えたバッグ(持っていたのだ、彼女は、描写してなかったけど) に指先でなにか文字を描くような仕種を続けていた。その指文字を追う と「通りすがりのプロゆうとるがよ。プロをなめたらいかんきに」と言っ ていた。

 「落書きでエレベーターを描く方がよほど建設的だと思いません」

 「それは、まあ、落書きとはいえエレベーターを作るわけだから…… 建設的と言われればそうかも……」

 「ちょっと、本気でそんなこと思ってるの?」指文字が「こいつ、莫 迦やないんかの」と書いていた。

 「え。いや。あは、ははは。まさか。ねえ」

 ちょっと混乱したところへすかさず女が、「ずいぶん儲けてらっしゃ るんでしょうね」

 「ええ、まあ。あ、いや、そんなには」

 「年収は×××くらいにはなりまして?」

 「いえ、とてもそこまでは」

 「ぢゃあ、♪♪♪♪くらいなのね。凄い儲けようじゃない」

 「そんなことはないです。なんですか。なんでただの通りすがりと そんな話をしなければならないんだ」

 「ただの通りすがりですって」女の目がギラリと光った。どうして判っ たのだろう。女はサングラスをかけているのに。

 「わたくしがもはや職業的と言えるほどまでに毎日テッテ的に通りす がっていることはすでに申し上げた筈。それを〈ただの〉とはどういう ことでしょう。差別だわ。これは差別よ。通りすがりに対する差別なん だわ」

 「ちょっと、ちょっと待ってくださいよ。差別だなんてそんな」

 「してないって言うの。差別なんかしてないって言い切れるわけっ」

 「言い切れるかと言われると……文化や言語システムといった〈体制 〉にのっとった無意識の言動さえも差別として糾弾される昨今、なかな か断言は難しいかと」

 「ほぅらご覧なさいな。ほぉらご覧なさいな。ほぉぉぉおおらご覧な さい」

 女は無表情のまま勝ち誇ったように言った。

 「だいたい、エレベーターの落書きなどというおげれつなものを評論 の対象にするなどふざけていますわ」

 「そう……でしょうか」

 「そうよぉ。おげれつきわまりないったらないわっ」ことば遣いは騒 ぎ立てる時のそれであるにかかわらず女の口調は落ち着き払ったものだっ た。

 「男子の場合、講習トイレなどにもっとおげれつな落書きがあったり するんですが……女性の世界にはそういうことはないんですか」

 「まあ、おげれつ。おげれつだわ」女はきわめて沈着冷静に述べた。 女の目が一音節ごとに細くなっていくのが判るような気がした。

 ぼくは黙ったまま女の、よく整った、まるでマネキン人形のように整 い過ぎた鼻筋、頬の輪郭、唇、顎の線を眺めていた。あるいはマネキン 人形なのかも知れなかった。そういえば女の声は聞こえても、口が動い ていなかったのではないか。

 「あなたはきっとおげれつ評論家でもあるんでしょう」

 女は黒いサングラスの奥からきっと冷たい目でぼくを見つめて言った。 きっとその目には何の感情もなく、いや、ただひとつ浮かんでいる感情 は激しい嫌悪に違いなく、もしサングラスがなかったらぼくはその冷た い炎に焼かれていたたまれずにエレベーターの非常停止ボタンを押して いた筈で、しかしそのボタンは今女の体の陰に隠れてここからは押せな い、それは気づいてみると女が意図してボタンを巧妙に隠すような位置 に立ったとも思えるほどであり、もしそうであるなら、女は初めからぼ くを狙って、ぼくを攻撃すべく、ぼくに危害を与えんとして行動してい たことになるわけで、いやむしろ今となってはそう考える方が遥かに自 然だ。通りすがりなんて、嘘だ。あるいはその女が職業的な通りすがり であることは事実だとしても、今このマンションに通りすがりエレベー ターに乗りすがったのは決して偶然ではない。

 ぼくは慄然とした。

 「おげれつの評論もしているのでしょう、あなたは」女は機械的に繰 り返した。口は動いていないように見えた。

 ぼくは答えなかった。答えられなかったのだ。口の中が乾いていた。

 「あなた自身もまた、おげれつなのでしょう。そうに決まってるわ。 そうでなければ話が合わないもの」

 そうかも知れないという気がしてきた。なんだかまるで拷問でも受け ているみたいに、相手の言うままにすべてを「認めて」しまいたくなり、 慌ててそうした考えを打ち消した。

 ずいぶん長い間、このエレベーターの中でこの女と(通りすがりの、 しかもプロときた)会話をしているような気がする。気がするどころで はあるまい。この間エレベーターはただの一瞬たりとも停止することが なかった。この上昇感からすればもう一〇二四階くらいまで上がってい る筈だ。いや、二〇四八階くらいか。どうでもよかった。脱出したかっ た。しかし、脱出するとしても、二〇四八階から脱出してどうするとい うのか。もう成層圏を突破しているかも知れないぞ。だいたい非常停止 ボタンを押せたとしても、階と階の間で止まるに決まっているじゃない か。二〇四八階なんて高さで階と階の間で止まられたら、怖くて脱出で きない。そしてじっとしていれば粘液したたるエイリアンや無表情なター ミネーターが乗り込んでくるに決まっている。

 待ってくれ。このマンションは十階建てじゃないか。

 不可解だ。いやそれ以前に不条理だと思った。いったい何だってこん なわけの判らないことがぼくの身に起こるのか、起こらなければならな いのか。

 ぼくは拷問の恐怖に打ち克つために、それ以前にこの不条理から逃れ るために、頭のバックグラウンドでどうやって脱出するかを考え始めた。 スリープ状態にある脳細胞にアラームシグナルを送り、思考プロセスの ステータスを「実行可能」から「実行中」に変更し、かつ、思考プロセ スの優先度を上げた。

 「ねえ、どうなの、答えなさいよ。おげれつさん」

 「……まあ、人並ていどには、おげれつだろうね……」

 「人並程度? 嘘だわ。嘘に決まってる」

 女は断罪するように言った。「私は知っている。あなたのおげれつさ を。あなたのおげれつ度を。おげれつ指数98、政府高官の**とか$$ 理事に次いでおげれつだわ」

 「いくらなんでもそこまでは……」

 「そうでなければ『エレベーターの落書き』などというテーマで評論 家を気取ってあまつさえテレビにまで出て、高収入を得てこんなマンショ ンに住んで、昼間はカラオケボックスに出かけてエレベーターに乗った り降りたりして日が暮れる頃てれてれ帰ってくるなんてそんな恥知らず な生活ができるものですか」

 この女、やはり。通りすがりは大嘘だった。最初からぼくをつけてい たのか。

 「そのとおりよ。わたくしはあなたをつけ狙っておりました」女は厳 かに言った。「ずっと。ずっとです。あなたが『エレベーターの落書き』 評論家としてデビューしたときからずっと」

 女は口を全く動かさずに喋った。

 「なぜだ?」

 「あなたみたいな〈ちょげれつ〉な人間は許し難いからです」

 「許し難いからって……仮に、百歩譲ってぼくがその〈ちょげれつ〉 だとして、それがどうだっていうんだ? ぼくは誰にも迷惑をかけてな い筈だぞ」

 「認めたわね。認めた。自分がちょげれつ野郎だって認めた。」

 「認めてないよ。『仮に』って言っただろう」

 「いいえ認めた。もう言い逃れはおよしなさいな。ここですべての罪 を認めて、過去の恥を暴露するのです。そうして罰を与えなければなら ないわ」

 罰? いったいぼくが何に関してどんな罰を受けなければならないと いうのか。

 「待ってくれよ。確かにぼくが評論してるのは〈おげれつ〉なものか も知れないし、ぼく自身も人並に〈おげれつ〉だとは思うけど、それが そんなに恥ずかしいことなのか?」

 「お黙りなさい。自己正当化に次ぐ自己正当化に重ねた自己正当化。 醜いわね」

 女はまるで興味のない小説を朗読してでもいるかのようにきわめて平 板な口調で喋りながら、ゆっくりコートのベルトを外し始めた。

 「あんたがどんなにおげれつな人間なのか、思い出させてやるわ」

 ぼくはふと、いつか話に聞いた「エレベーターの中でストリップ」を 思い出した。この密室の中でひとりきりで脱いだり着たりを繰り返すの もコワイものがあるけれど、差向いでそれをやられるのもけっこう奇妙 だ。いや、かなり奇妙だ。そうとうな非日常と言っていい。非日常。

 「そんなのが見たいの」女は鼻先で笑うように、「見せてやってもよ ろしくてよ。少少お高うございますけど」

 違う。こいつはあの「超高速衣類着脱女」ではない。では、「恐怖の ふた口デパガ」か。そうかも知れない。初めから喋りまくっているにも かかわらず女の口は全く動いていないように見えるが、それは後ろの口 で喋っているからなのかも知れない。いやいやそうではない。そうなら ば御託を並べずに後ろのくちをぐぁっっっと開けるに違いないからだ。 だいたいデパートのような場所で思いがけず開くから恐怖なのだ。では、 コートの中には粘液したたるエイリアンがいるのか。あるいはサングラ スをとると無表情なターミネーターか。

 女は手を止めてこちらを見るように顔を傾け加減にしていた。

 「なぜ今まで想像したものを振り返ってばかりなのかしら。これまで 想像しなかったものがあると考えないかしら? ま、あんたのおげれつ な想像力では『これまで想像し得なかったもの』を想像することなんて 無理でしょうけれど」

 これまで想像し得なかったもの……? 突然、やっと、判った。

 この〈女〉はあっちの世界、あのめくるめく非日常、あられもない非 日常、テッテ的な非日常、冷酷無情残忍無比な非日常の世界の存在なの だ。ぼくの副腎皮質からアドレナリンが噴き出した。

 「ご明察、恐れ入ります」

 女は平板な口調で言った。「あなたにこれ以上エレベーターの落書き についてあることないことべらべら口走られたらみんなが困るのよ」

 「みんなって……誰だ」

 「みんなはみんなよ。いちいち挙げてあげなきゃ判らない?」

 ぼくの脳髄は駆け巡るたくさんのいろいろな想念によって沸騰した。 それと反比例ているかのように、女の声はことばを連ねる内にどんどん 熱が引いていっているようだった。

 「今回はわたくしが代表で出てきたけど……他の連中もみんな、あん たには迷惑してるわ。どうしてなんて訊かないでよね」女はまるで義務 でいやいや言っているかのように熱のない口調で続けた。「エレベーター の落書きはわたくしたちの存在を仄めかす唯一といっていい手がかりだっ た。わたくしたちも迂闊だったけど、今まであんなものに着目した人間 はひとりとしていなかった。だからわたくしたちも軽視してきました。 それをあんたがクローズアップしやがった」

 サングラスの奥の冷えきった目でぼくを睨み(きっとそうに違いない)、

 「今はまだ、よいのです。誰も彼もがたわごとだと思ってるから。で もこのままだとそのうちに誰かが本気にし始めて、いつかは気づいてし まう。あんたが莫迦な考えからたまたま真実を探り当てちゃったみたい にね。だからそうなる前に、手を打たなくちゃならないわけ」

 「手を打つって、どうしようっていうんだ」

 「ご心配なく、あんたに気にしてもらうことなんかないから。わたく したちが一方的に処置しておしまいです」

 「処置?」ぼくの声はかすれており、辛うじて聞き取れるくらいだ。 「一体どんな処置……」

 「愚かなことを言うわね。ほほほ。それはあんたがいちばんよく知っ ている筈でしょう。何のためにエレベーターの落書きを研究してきたん だか。これだからにわか研究者、にわか評論家は愚かだっていうのよ」

 女の声は笑いを含んでいるのに表情は微塵も動かないのが怖い。

 「あんなことやこんなことをするんだけど、まあ少なくともあんたの 想像を遥かに超えていることだけは間違いないわね。当然、その後のあ なたは廃人になります。わたくしたちも身を守らねばなりませんご堪忍 を」

 女はふたたびコートのベルトに手を伸ばした。

 脱出の思考プロセスはそろそろ計算を終えそうだった。でもエレベー ターはもう四〇九六階くらいまで上っているに違いない。あるいはそろ そろハッブル宇宙望遠鏡に達する頃かも知れない。こんなところで脱出 できたとしても、助かるのかどうか。しかしぼくはそれに賭けるしかな い。

 「待ってくれよ。堪忍なんかできるもんか」

 「問答無用。じゃーあんたにふさわしくおげれつなところから始める ね」

 女はコートの前をはだけた。

 それは、凄い眺めだった。確かにそれはぼくの〈おげれつ〉な部分を 刺激するには充分なものだった。ぼくの鼻孔から鼻の奥の毛細血管を突 き破った血流が、すなわち鼻血がどっとほとばしり出た。あっという間 に血溜りができた。

 女はさらに皮を剥いだ。皮下組織がむき出しになった。

 女はさらに筋肉を剥いだ。血管がちぎれ、血がそこら中から滴り落ち た。

 ぼくはきつく目を閉じて〈日常〉を強く想起した。帰ってゆくべき 〈日常〉。……暖かい日の昼近く、窓際のベッドの上でぬくぬくと陽の 光にくるまっているぼくたちの姿を……あるいはほかのものを……なに かしらが垣間見えた気がした。

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 「……で?」

 「で、って?」

 「どうなるの」

 「…………〈彼〉の欠勤があまりに長いんで、上司が〈彼〉の恋人に 連絡するんだ(あれ、上司は〈彼〉の恋人のことをどうして知っている んだろう?)。それで彼女が彼のアパートに行くと、独りでぶつぶつわ けの判らないことを行っている〈彼〉を発見する」

 「……つまり、すべては〈彼〉の妄想だったってこと?」

 「そう言って彼女は左の眉だけぴくりと動かした。これは彼女が気に 入らないことがあったときの徴だ。……そんなあからさまに言っちゃったら、 風情がないだろ」

 「ひとを描写するんじゃない」

 「こんな風にしたっていいさ。場面が切り替わって、〈彼〉のアップ。 やっぱりぶつぶつ言っている。カメラがズームアウトしていくと、ベッ ド(呆れ返る位真っ白なベッド)が見え、壁や床が見え(やっぱり信じ 難いほど白い)、その空間はなぜか溢れんばかりの陽光で輝いていて、 でも奇妙に虚ろで、ただただ白くて、やがて奥に大きなドアが見える、 そのドアには小さな小さな覗き窓がついていて、その窓にはなぜか鉄格 子がはまっている」

 「実はそこは精神病院の病室だったってのね」

 「彼女は半ば呆れたように言うとゆっくりと伸びをした。……はっきり 言うなってば」

 「わたしを描写するのは止めてってば」

 「そういうことにしてもいいってことさ」

 「そういうことにしてもいいけど、ひとつ疑問が残る。なぜ〈彼〉は 精神に変調をきたしたのか?」

 「彼女は彼の脇腹を突っついてそう言った。……うまい具合に、冒頭 に伏線が張ってある。つまり〈彼〉は激務に堪えられなくなっていたん だな。相当なストレスに曝されていて、おかしくなるのは時間の問題だっ た。エレベーターの落書きはその後押しをしただけなんだと思うよ」

 「まぁ何にしてもいいけど、陳腐だね」

 「彼女は彼の耳の辺りの髪を指で梳きながら、何気ない声で辛辣な批 評を下した。……なにが?」

 「彼はやや不満げに聞き返した。彼女は判らないのかとまるで小莫迦 にしたように、……『すべてが妄想だった』って〈オチ〉も、〈彼〉が 神経を病んでるって設定も。……彼は眉毛の動きで彼女の指摘を肯定し た」

 「さっき『描写すんな』って言わなかった?」

 「誰かさんが聞かないからよ。……彼は諦め、両腕を組んで枕にして 息を吐くと、」

 「そこが困ってるところなんだな。今や何をやっても何を言っても陳 腐、陳腐、陳腐のオンパレードだ。病的な妄想さえいくつかの類型に分 類されてきれいな説明がついてる。これは1955年ヤコブソン型の妄想だ とか、そんな感じ」

 「そういう繰り言さえ陳腐。……この布団、あったかいね」

 「まったくそのとおり。……きみもあったかい」

 「彼はサイドテーブルの缶ビールをとり飲み残しを喉に流し込んだ。…… か。別の可能性を考えてみた?」

 「ふいに彼女は目を輝かせて身を乗り出した。……別の可能性?」

 「彼の怪訝そうな顔に息を吹きかけるように彼女は言った。……〈彼〉 の妄想の外延がどこまで広がるかによるけどさ」

 「なるほど……と彼はことばを引き取り、……われわれのこの会話も また〈彼〉の妄想のひとつなのかも知れない。〈彼〉の思い描く『ある べき平和な世界』のひと齣。あるいは『唾棄すべき非日常』のひと齣。 でもそれにしたって陳腐。ネットワークひとつ脱出することもできない」

 「彼女は拍子抜けしたように寝転がった。……やれやれ。袋小路ね」

 「まったくさ。と、彼は言った」

(おわり -- 2001.04.11)

この物語は虚構です。登場する、あるいは引用/言及される個人、団体、 事件等はすべて架空のものです。現実世界との関連性を想起させる要素 があったとすれば、それは偶然の一致であり、作者の意図するところで はありません。
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