去年の暮れ、会社を……

 去年の暮れ、会社を辞め、年が明けてから就職した。

 年末に辞めるというのはいい考えである。みんな忙しくてこちらには 見向きもしないから、ひっそりと目立たずに辞められる。送別会はいち おう開かれたけれど、忘年会だかなんだか判らないうちに終わった。い いことだ。

 だいたい誰も自分が留まっている場所を勝手に去って行く奴との別れ を惜しもうなどとは思っていない。送別会で飛び交うことばにはみんな 裏の意味があって、皮肉の応酬をしたり悪意の手榴弾を投げつけたり恨 みの絨毯爆撃をしたりしているのだ。だからひっそりと辞められたのに はほっとした。

 しかし、正月休みにはまいった。年を越すために休んでいるのか年を 越せなくて往生しているのか区別がつかない。

 除夜の鐘は新しい道に導く水先案内のようにも思えたし、奈楽の底に 突き落とす鬼の笑い声のようにも聞こえた。過ぎて行ってしまう年と、 新しく始まる筈の年との一瞬の隙間に、このまま挟まって永遠に身動き がとれなくなるんじゃないかと思った。

 勤めが決まり、新しい職場に出た時はほっとした。これからまたあの 退屈な、安穏とした日日が始まってくれる。

 もちろん次の会社の方だって、年明けで忙しくて新入社員を迎えるど ころの騒ぎじゃない。だからひっそりと職場に侵入できる。

 そして実際に、退屈で、安穏とした毎日が始まり、続いた。

 二ヶ月が過ぎた、三ヶ月目のある朝だった。正確にいえば、六十三日 目の朝だった。

 いつもの通い道が、なにか、変な感じだった。
 見憶えがあるようなないような、フシギな感覚だった。毎日通ってい るハズの道筋なのに、「見憶えがある」もなにもないもんだ。

 やがて、デパートの裏の集荷場のような、あるいはデパートの食肉売 場の裏の処理場のようなところに着いた。そこからちょっと中に入った ところに事務所があり、そこで集計をしたり、仕入れの手配や検査をし たり、業者を呼びつけて文句を言ったり、一服したりして店内に出向く わけだ。

 懐かしいXさんの顔を見つけ、話しかけた。Xさんも懐かしそうに迎 えてくれ、昔話に花が咲いた。

 そのうち、ほかの同僚の顔も見かけ、声をかけたりかけられたりした。 みんな、相変わらず忙しそうだ。ついには上司、ただし入社年でいえば 後輩に当たるVも現れた。

 「やあ、Qさん、おはようございます。どうですか、そちらは」

 「まあまあだね。きみも調子よさそうじゃないか」

 なんて、お気楽な会話を交わしながら、わたしは、しばらくぶりの我 が社を眺めていた。すっかり馴染んでいた筈の空気だ。

 何も変わっていないのに、わたしは安心していた。当たり前だ。まだ たった二ヶ月しか経っていないのだから。

 たった二ヶ月?

 しまった。

 うっかりして、辞めたことを忘れて前の会社に通勤してきてしまった ようだ。

 わたしは秘かに動揺した。

 この動揺を感づかれてはまずい。

 なにしろこの会社は、部外者の出入りに極端に厳しい。入社する時に 指紋声紋網膜脳波DNA、体温分布や足音や行動パターンなどあらゆるデー タをとり、それらのデータを防衛システムに食わせて、辞めた社員が接 近するとたちまち突き止めて排除するのである。

 排除といっても、捕まえて放り出すのではない。抹殺されるのだ。そ れも単に抹殺するなどという、コストのかかる割に身入りのないことは しない。殺された上、肉は一グラムも余すところなく殺ぎ落とされて、 コンビーフの缶詰にされたりソーセージの缶詰にされたりするのだ。肝 臓はレバーペーストに、心臓や胃腸は焼肉にされるし、骨は砕いて「カ ルシウム強化」の牛乳やヨーグルトに混ぜられたりあるいはそのまま加 工品に使われたりする。それはもう、まったく無駄というものがない。

 江戸時代、日本人は鯨を捕ると皮から鬚までほんのひとかけらも残さ ず利用し尽くしたと言われるけれど、それに近いものがある。

 もちろん、こうして人肉の利用効率を高めたからこそ我が社の食料品 は「どこよりもよい品を、どこよりも安く」を達成できたのだ し、短い間にここまでの急成長を遂げることができた。ときどき缶詰に 髪の毛が混じってると苦情が来るけれど、知ったことか。また、だから こそ人の出入りをキビシク監視しているのだ。特に秘密を知っている者 が近づくのを極端に警戒するのはそのためである。

 もっとも、人肉コンビーフが好評につき、人肉を確保するために最近 ではわざわざ希望退職者を募り、いったん辞めさせた後わざわざ社に呼 び寄せては身柄を拘束、人肉化しているという噂もある。またそれなれ ばこそ一層、人の出入りに敏感になっているとも言える。まるで犬が自 分の尻尾に噛みつこうとでもしているかのようだ。

 ともかく、もし今ここでわたしが実は会社を辞めていることがばれた ら、それはすなわち人肉コンビーフを意味するのだった。

 わたしの返事の歯切れは次第に悪くなる。Vとの会話がだんだん噛み 合わなくなる。 二ヶ月間も離れているのだから、最近の話題が増える につれ、当然のようにそうなる。

 わたしは背中で冷汗をかいていた。汗の量に比例して、Vの表情がじわ じわと訝りの風味を加えていく。Xさんも不思議そうな顔をし始めた。

 「Qさん……あなた、確か我が社を辞めたんじゃありませんか? い や、確かにそうだ。辞めた筈だ。そうだよな、あんた、辞めたよな」

 Vの口調が一単語ずつ、顔見知りに対するそれから侵入者に対するそ れに変化していく。

 もうおしまいだ、とわたしは悟った。

 いきなり身を翻して走り出したわたしの背中に、一瞬遅れて 「曲者だ! 誰かあいつを捕まえろ!」というVの叫びがびりびり響い た。

 ちょうどその声を待っていたかのように、あちこちでわっと追っ手が かかる気配が、まるで迎撃する蜂の群れのように背後からわたしを包ん だ。

 わたしはびっくりし、びっくりしながら逃げ、逃げながらちょっと悲 しかった。みんな何年もこの職場で一緒にやってきた間柄だ。Xさんと も長いつき合いだし、面倒をみた後輩だって多い。それなのに、わたし が会社を辞めた途端、ゆきずりのよそ者どころか、彼らを脅かす危険人 物扱いだ。

 苦楽を共にした(もと)仲間に抹殺され、彼らの手で缶詰にされるの か、そう思うとやりきれなかった。もちろん、やりきれない以上に怖かっ た。

 わたしはかつての職場の中を逃げ惑った。

 逃げ込む先々でかつての顔見知りに出くわした。ふつう、恐怖の只中 で顔見知りに出会うのは安心を与えるものだが、今は正反対で、さらな る恐怖を煽るのだった。これがまた、出会った相手の方も、怒りとも恐 れとも威嚇ともつかない(あるいは、そのすべてであるような)叫びを 上げる。それがまたわたしの恐怖を誘う、というわけで、まったくよく したものである。

 そうしてその恐ろしい声と共に、何かその辺にあった棒切れとか鉄パ イプとか包丁とか書類を丸めたのとかを振りかざしてわたしに襲いかかっ てくる。椅子や机を大上段にかまえてそれでももの凄い勢いで走ってく るヤツもいる。何も持たないヤツはこの爪で肉を抉りとってくれるとで もいうかのように指を鈎に立てて迫ってくる。

 長年の顔見知りでも、立場が変わればこんなものなのか。こんなもの なのかも知れないな。そうとも。所詮人間が利害を無視して対人関係を 結ぶことなどありはしないんだ。

 冷静になどしていられる筈もないのに、でもまるで他人事のように眺 めている自分がいた。

 あるいは彼らは誰かに(おそらく、そう、経営者かそれに近い連中に) 操られているのかも知れなかった。あるいは彼らはすでにボディ・スナッ チャーズに乗っ取られてしまった後なのかも知れなかった。

 わたしは自分を殺そうとして追い回す連中から逃げながら、この状況 を楽しんでいるみたいだった。

 てなことを言いつつ、わたしは売場の柱の陰から階段の後ろ、エレベー ターに飛び込むふりをしてはマネキンの森に隠れ、品物を積んだワゴン の脇にうずくまって這っては関係者以外立入禁止の階段を駆け登りして、 逃げに逃げた。

 建物の中を迷路を走るようにさんざん惑い逃げた後で、ふたたび、デ パートの裏の集荷場のような、あるいはデパートの食肉売場の裏の処理 場のようなところに出た。みんな侵入者を追って散ったらしく、今ここ には誰もいない。

 わたしはほっとして、隅の灰皿のところで煙草に火をつけた。追いつ 追われつの後の煙草は頭にくらくら来たが、うまかった。

 脱出するまで、ひと休み。

 つい先ほどまでの恐ろしい光景を、見知った顔が怒りや恐れで歪んだ さまを、吊り上がった目を、口の端からこぼれた泡を、彼らが振りかざ した凶器を、掴む腕に膨れ上がる血管を、次から次へと思い出し、その たびに背筋がぶるぶる震えた。

 Xさんを思い出した。憶えていないのだけれど、彼も、わたしを追い 回したのだろうか。

 もしそうだったら哀しいな。

 Xさんの顔を煙草の煙の向こうにぼんやり浮かべていると、同じ辺り に人の顔がぬっと現れた。みんなと同じように目を吊り上げ、唇の端か ら泡になったよだれを流し、顔が歪んでいる。その顔は今やっと獲物を 見つけた喜びににまにま輝いていた。

 Xさんだった。

 気づくか気づかないかのうちにわたしは弾けて飛び出していた。わた しのいた場所にわたしの悲鳴だけが残って敵に絡みついていた。だから 本当にXさんなのかどうか判らない。

 なんといっても表情がもはや別人だし、誰も同じようになっているし、 もちろん、Xさんは別だと思いたかった。長いつき合いだったのだ。彼 がわたしを殺そうとするなんて、悪い冗談にもならないと思った。

 でも、それはこちらの一方的な感傷なのかも知れないとも思った。

 なんといってもわたしはもう会社を辞めたのだし、来てはならない場 所に来てしまったのだ。この世界で、自分から掟を破っておいて人に慈 悲を乞うのはあまり褒められたことではない筈だ。

 ただ、悲しかった。

 追ってくる気配が感じられたかどうか、定かでなかったがわたしは走っ た。

 弾け飛んだのはいいけれど、出口に向かうべきだった。わたしはまた してもわたしを血まなこで探す悪鬼の群と対面することになった。

 最前と違う点は、連中の数が桁違いに増えているところだ。見渡すと 社長や専務や常務や部長……といった経営陣オールスターの顔ぶれもあ るようだ。ずいぶんとものものしいじゃないか、わたし一人のために。 わたしはそんな「重要人物」だったのか? なにかとんでもない秘密を 知ってしまっていたのだろうか。

 わたしは殆ど本能的に闘い始めた。

 いったいいつになったら脱出できるのだろう、無理かも知れないな、 無理なんだろうな。わたしは半ば諦めつつ、でも諦める気にはなれず、 襲い来るゾンビどもを時には蹴倒し、時には脳天から叩き割り、時には コンビーフ製造機に投げ込んで闘った。闘いながら逃げた。

 もはや、慣れ親しんだ会社でもなければ懐かしい同僚でもない。単な る生存のための闘争だった。殺らなければ殺られるのだ。ようやくそれ が判った。

 長いつき合いだったのに、それを踏みにじっているのは、実はわたし なのかも知れなかった。

 何度も返り血を浴び、やがて両腕も上半身も顔も髪も真っ赤にぬるぬ るぬるぬるしてきた。あちこちに血溜りができていて、何度も足をとら れた。

 わたしも無傷で済む筈がなかった。上着は肩から破れ、角材で殴られ た時に肉が裂けて暖かいものが流れているようだったし、額も割られて いるように疼いていた。手の指も一、二本なくしたような気がする。右 耳の辺りがすーすーする。もがれたのかも知れない。

 何十人殺したか数えるのを止めてしばらくすると、鬼どもの魔の手か ら逃れたようだった。まさか全員を倒した筈はないから、どこかに潜ん で様子を窺っているのだろう。

 悪い夢を見ているようだった。何人か、明らかに見知った顔を倒し、 ミンチにかけた。一緒に仕事をしたことのあるAやBもいた。本当のこ とだとすれば後味が悪いどころではない。夢の中の事実に過ぎないとし ても、気分がいい筈もないけれど。

 夢ならいずれは醒めるだろう。目を醒ましたら、会社に電話して確か めてみればいい。何事もないような返事なら、これはわたしのつまらな い夢だ。もちろん、会社がそんな不祥事を今や他人のわたしに正直に告 げることはあり得ないから、返事を聞いただけでは判らないかも知れな い。

 わたしはふらふらだった。

 やっとのことで出口の前まで辿り着いた。出口の向こうは真っ白い。 ここまでの騒ぎのせいで、外まで注意が向かないかのように、白白とし た空間があった。

 誰も追っては来ないようだ。

 わたしは壁を隔てた向こうの不気味な白い広がりを眺めながら、出口 に近づいた。

 こんな恐ろしい会社と知ったら、辞めるんじゃなかった……

 こんな恐ろしい会社、辞めて正解だったな……

(おわり -- 2000.09.20)

この物語は虚構です。登場する、あるいは引用/言及される個人、団体、 事件等はすべて架空のものです。現実世界との関連性を想起させる要素 があったとすれば、それは偶然の一致であり、作者の意図するところで はありません。
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