火災 延亭二年(西暦1745年)堂宇を、ことごとく焼失しましたが 、安永四年(西暦1775年) に再建されました。 しかし、明治七年(西暦1874年)および明治十一年(西暦1878年)一月二十八日の
明治十二年(西暦1879年)再建しましたが、明治四十五年(西暦1912年)一月十六日
この四たびの火災で境内は387坪余りになりました。 さらに、昭和二十年(西暦1945年)三月十三日夜、第2次世界大戦の戦禍により、 五たび堂宇すべてを焼失し、復興は進まずわずか表門・本堂・妙見堂を備える間に、 周囲を不法占拠され、その解決に十数余年を費やしましたが解決せず、境内はさらに 約200坪に減少しました。
* 文化九年(西暦1812年) 亀井兵吉・貫二の両名により寄進された、 手水鉢(盥)は中に水があったおかげで、四度の火災にもかかわらず、 現存しています。
「妙見さまのおつかい」として参詣の人々になじまれていましたが、 昭和二十年(西暦1945年) 妙見堂前の大線香鉢とともに * 戦争のために供出の命を受け、自安寺を離れました。
明治四十五年(西暦1912年)一月十六日、難波新地四丁目の百草湯の火の粉が 原因で、千日前を中心にした21ヵ町を焼失する。 これを機会に宗右衛門町を通る筈の市電が焼け跡を通ることとなり、 現在の千日筋ができました。
第二次世界大戦による大火
火の海となり焦土と化しました。
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