12.神戸市灘区高徳町2の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
神戸市灘区高徳町2丁目2−19 南北の道の西側、鷹匠中学校の石垣に埋め込まれた祠の中に東を正面に建つ
(県道95号と山手幹線の弓木町4交差点の北160mの交差点を東に折れ鷹匠中学校の北東角の辻を南に折れ20m)
地蔵光背型 54x30x18p(像24x11x4p)
N34.720466 E135.244413


写真cimg0132

写真gimg7732

東面
┌─―――――――――――――――――┐
│      妙法          │
│(梵字)(地蔵像)         │
│  左へ              │
│   寸くとかまやミち       │
└――――――――――――――――――┘
(「寸く」は変体仮名「すく」、
 「とかまや」は「都賀、摩耶」であろう)
(梵字は「カ」地蔵か「キャ」観音か?)

西面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では灘区4)
(行先の下部「まやミち」が何処かではあるが、「摩耶道」は疑問なしとして、江戸期に灘村、摩耶村は存在しない
 ようで村や集落の字名では無いと思う。摩耶は釈迦の母の名に由来するらしく、摩耶山刀利天上寺を指すとすれば
 明解となる。ここから同寺を目指すなら西に進み八幡村(現阪急六甲)を過ぎ都賀川沿いか、現ケーブル沿いの道
 を示す事になる。即ち大筋では西に進む事を案内しているとする。ではなぜ左なのか。現状では学校が有り直進で
 きず、左か右か迷った場合にはありがたい。大正12年測図の地図では当地の東側の道は畦道程度と思われ、通行
 に供与される道は現中学校の北側道と成っている。よって移設が無いものとすれば、この地に案内は必要なかった
 と想像できる。
 ここで明治43年測図の地図を見ると、この地点の北と南に池があり、東御影方面からの道(現石屋川を平野橋で
 渡る道)が北側の池の池畔に突当り、池を南(左)にやや迂回しながら、西の「灘区高徳町4の道標」(即ち摩耶)
 方面に進む様子が書かれており、少し南に廻り込もうとする地点に南北の小径が交わって四辻となっていた事が分
 かる。依って西への道を案内する為には是非とも必要であったと思われる。
 其の為には地蔵は東面から南面している必要があり、地形的にみて北側池の東堤下(四辻西部)に置かれていたと
 したい。この様に見れば、摩耶道は完全に左折して南へ向うのではなく、「やや左(南西)に向いた道」へそのま
 ま進みなさいと丁寧に案内したものと出来、上部の梵字左から書かれた字句を「左へすく」と出来るであろう。
 多くの資料は「左なた」とする様であるが、「左 灘、都賀、摩耶」としたとき「灘」を現在のJR灘駅としない限
 り西に進んでしまうと、南の灘の中心であろう御影村や東明村に向かわず困ることは明確である。)
 現在では学校東の南北の直線道の西に突如として置かれているが、ほぼ元位置であろうと考える。
  尚、高匠中学校HPの沿革によると、昭和23年8月、「校舎敷地、神戸市灘区徳井弓の木(徳井池跡)に決定」
 とあり、多分南側の池の名前であろう。徳井村は「天保国絵図摂津国」に載り西國街道の北、高羽村の南にある。)
(「とかまや」は、すぐ西隣の「灘区高徳町4の道標」でも使われておりこの辺りではよく使う表現であったか。)
(建立年は上記地図の検討により、大正12年以前である事は間違いないが、摩滅の具合等から江戸期のものか。)

写真gimg7756 写真gimg7757 写真gimg7758
【1.道標を北に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を西に望む
 右奥、阪急神戸線へ  南130mに山手幹線  後、鷹匠中学校
 石祠内に地蔵道標】  旧道は堂辺りで西へ】  は池跡に建つ】

写真cimg0149 写真cimg0138 写真cimg0135
【4.道標東面拡大 【5.道標東面左上部 【6.道標東面右上部
 摩耗がひどく  右に梵字  「妙法」法はサンズイを取り
 良く読めない】  「左へ/すく…」か】  「´大ム」と刻すとした】

写真cimg0143 写真gimg7751 写真gimg7753
【7.道標東面左上部 【8.道標東面左下部 【9.道標東面左下部
 「左へ」  「…とか…」  「…まやミち」
 「すくと…」とした】  「とか」は「都賀」か】  「摩耶道」であろう】

写真gimg6511
【10.神戸市東部の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ