8.神戸市灘区八幡町3南福寺地蔵の道標

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神戸市灘区八幡町3丁目1−1 東西の道の北側にある地蔵堂の西部に東を正面に建つ
(山手幹線の六甲口交差点の北70mの四辻を西に100mの四辻の西20m、道の北側南福寺地蔵の西部)
自然石 99x79x23p
N34.71767 E135.236673


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東面
┌─―――――――――――――――――┐
│右まやみち             │
│左ひやうこ             │
└――――――――――――――――――┘

北面
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│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
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│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

南面
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│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では灘区10)
(『神戸の道標』では「慶応三年(一八六七)の徳川道関係の古文書『篠原ヨリ漆山迄道軒數控』に『此所鳥居前建
 石迄八拾貳間』とある建石(道標)である。長く六甲八幡正門前に建っていたが、最近一つ南の筋にある地蔵尊の
 敷地内に移された。」とあり、この鳥居南から八幡正門前迄が147mで82間=147.6mと一致する。
  この様に、元、六甲八幡正門前とされる地点を明治44年地図で見てみると、南北と東西の道が交差する四辻に
 北西からの道が加わり五叉路として描かれており、南及び東西からの参詣者に摩耶山天上寺を案内する道標を設置
 するのに相応しく、「右摩耶道」は篠原を通って杣谷川沿いから摩耶東谷を登る東側の参詣道を示すと考えられる。
  明治の地図で詳しく位置を見ると、現鳥居西10mの変則四辻北西部
N34.717513 E135.235394
 辺りに東面して立ていたものと思われる。
 この時「右摩耶道」は北西に向かう道を示し、当時は六甲駅西の踏切へほぼ直線で出ていたと見えるが、昭和10
 年地図では既に道が付け変わって、ほぼ現在に等しくなっている。一方「左兵庫」は西に向かい六甲小学校の南東
 角へ出て現在の王子公園駅の南に達する道を示し、屈曲は少なくなっているがほぼ当時の道筋を辿れる。
  尚、現在置かれている南福寺地蔵南の道は、明治44年地図では確認できず大正12年測図の地図には載る。)
(前述の古文書に記載された石が当道標とすれば当然慶応三年以前の建立となるが同一の確証は無い。
 因みに、鳥居南東部には文化、文政時代の建立と思われる「灘区八幡町3の道標」が移設されており、この道標も
 鳥居西辺りに残せなかったものか。)

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【1.道標を北西に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北に望む
 左鉄柱右に当道標  奥(東)八幡本通へ  右に地蔵堂
 左、100m鳥居筋へ】  左鉄柱下に当道標】  左端が当道標】

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【4.道標を西に望む 【5.道標東面拡大 【6.道標北の地蔵由来
 左側は道になるが  「右まやみち」  「昭和25年再建」
 明治の地図には無い】  「左ひやうこ」】  とあるが道標は不明】

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【7.元辻?を南西に望む
 奥(南西)兵庫へ
 右(北西)摩耶山へ】

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【8.神戸市東部の道標】
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