13.尼崎市次屋2の道標

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尼崎市次屋2丁目の逆(左右)K字型交差点の北西隅植込み中にあり
(南北の道路は11時−5時の方向に傾いている)
尖頭型角柱 158x北面24x20p(頭頂四角錘部高さに含まず)
N34.73854 E135.43718


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南面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│          是より 願主大坂     │
│左ハ次屋村大辯財天女      久宝寺屋藤兵衛│
│           三丁南  伊勢屋安兵衛 │
│                松本 喜八郎 │
└―――――――――――――――――――――――┘
(よりは一字)

東面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│右ハ久々知村妙見町 是より 十二丁      │
└―――――――――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│             取次 次屋村    │
│安永八年巳亥九月大吉祥日       仁左衛門│
│            建之     平兵□ │
│                   伊左□門│
└―――――――――――――――――――――――┘
(平兵衛、伊左衛門等か)

西面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│(なし)                   │
└―――――――――――――――――――――――┘
(( )部は『尼崎の道標を訪ね歩く』より)


(安永八年巳亥九月1日なら1779年10月10日日曜日となる)
(『尼崎の道標を訪ね歩く』平成27年荒木勉では13)
(『尼崎のみちしるべ』1980年尼崎郷土史研究会の写真では、道を横切る溝の中に建ち、左横を道と並行に水道管が
 通っているように見え、その継手のボルトを締める為に、道標の一部(南面左側)を削り取ったと思われる。)
(久々知村妙見は、広済寺の境内(広済寺HPより)にあったとされ、現道標から門前までは1,260mで、約半丁足りない。
 これを久々知須佐男神社とすると約半丁多い1,370mとなり、道標の距離表示としては問題が無いが、明治の地図で
 見ると、現位置には辻が無く、約100m南東に三叉路が見える。ここに建っていたとして、左(南)へ三丁強(380m)
 進むと、伊邪那岐神社があり、ここ弁財天が居られたのならば、現在地へは間違いなく移設されたものとなろう。
  次屋1丁目1−26の次屋伊邪那岐神社、本殿南の境内社、厳島神社の南西に建つ「12.尼崎市次屋1の道標」
 の西面に「是よりおく 大辨財天女…」とあり、現位置へは移設されたものであろうが、これより奥とは、伊邪那岐
 神社を指すことは間違いなさそうで、上記の「…大辯財天女 南 三丁」はこの神社であろう。現道標位置から伊邪
 那岐神社の西鳥居までは、480m(4.4丁)あり、道標に書くなら「四丁」とすべきである。
  よってこの道標の元位置は、約100m南東の尼崎市次屋1丁目29の三叉路(現四辻)
N34.737756 E135.437847
 辺りとしたい。
  尚、久々知村妙見は、国会図書館デジタルライブラリ、『摂津名所図会』[8][49]のコマ番号37に「久々知村妙見堂」
 の記述があり、コマ番号35には、今の須佐男神社辺りと想像できる絵図も描かれ、名所であったものと思われる。)
(『尼崎の道標を訪ね歩く』では、「12.尼崎市次屋1の道標」と同一人物の建立としている)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南東に望む 【4.道標を北西に望む
 信号左植込に当道標  左奥(北西)へ有馬道  後ろは次屋2丁目交差点  後ろ土蔵沿いの道が
 左奥(北西)下坂部へ】  左手前の道は明治には無】  奥(南東)神崎へ】  有馬道、下坂部へ】

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【5.東・南面下部拡大 【6.南面下部拡大 【7.北面下部拡大 【8.元位置を南東に望む
 右側が東面「十二丁」  左端に「松本喜八郎」  三名の名前が  道路右、黄色の看板
 左側南面「願主…」】  次屋1道標と同名】  よく分からない】  辺りではないか】

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【9.尼崎の道標】
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