23.尼崎市久々知3丁目の道標

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尼崎市久々知3丁目23 南北の道に東側から突き当たる三叉路の南東部に北を正面に建つ
(南北は尼崎/伊丹道、東は久々知集落からの道)
五輪卒塔婆型 87x18.5x18.5p(各高さ、地輪50+水輪13+火輪10+風輪5+空輪9p)
N34.742621 E135.427772


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北面
┌─――――――――――――――――┐
│地蔵胸像 大坂道         │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│右尼崎道             │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│一誉是心菩提           │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(『尼崎の道標を訪ね歩く』平成27年荒木勉では11)
(「地輪のない五輪卒塔婆で一体成形、卒塔婆下に地蔵上半身像を線刻。町石でしか見られない五輪卒塔婆であるこ
 と、像容の磨耗から江戸期」とする資料があるが、地輪部分に上記道しるべが書かれていて、台石が無い、或いは
 風輪が小さい、とすべきであろう。
  五輪卒塔婆は、下から、1.地輪は方形(立方体)、2.水輪は球形(球体)、3.火輪は宝形(ほうぎょう)
 (屋根型)、4.風輪は半球形、5.空輪は宝珠型、から出来ているとされる。
  この道標の水輪部分には「水」と書かれていると思うが、「火」「光」等にも見える。)
(東面に「…菩提」とあり、墓石ではなく供養塔兼、道標であろう、然るにこの地点を明治の地図で見ると、東への
 道がなくここに建てる必要性は感じられない。よって移設されたものとしたい。
  では元位置はどこか、北面の「大坂道」には、右、左、が書かれていないので、大坂道に建っていたか、直進方
 向が大坂道であろう。この近辺で大坂へ向かう道は先ず神崎へ出るものとし、そこに繋がる辻を見ると、候補は二
 ヶ所、南北に通る尼崎道の北230mと南100mである。
 距離と現在の道の付き具合から見てこの南100m、久々知三丁目23と三丁目24の境目にある三叉路
N34.741635 E135.427850
 辺りとしたい。
 明治の地図では、久々知の集落からの出入り口に当たり、北へ進めば「16.尼崎市久々知1広済寺西の道標」
 繋がり、東に進めば集落に入ることなく、下坂部の有馬道間道へ出て、神崎・大坂への近道ともなる。現北面が、
 西面に向いていたと想像する。
  尚、『尼崎のみちしるべ』1980年尼崎郷土史研究会では、「もとは潮江村の西約400m、尼崎−伊丹道と潮江−
 尾浜を結ぶ細い道の十字路にあった。」としており、潮江1丁目36の「潮江4丁目交差点」、
N34.736392 E135.428803
 或いはその北100mの三叉路を指すものとすると、上記想定地点より更に南に建っていた事になる。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を南に望む 【4.水輪部分を南に望む
 左小祠中に当道標  右(南)尼崎へ  接着剤様の物が付くが  「水」か「火」か?
 奥(南)尼崎へ】  奥への道は明治には無】  補修痕ではなさそう】  高さ13p、幅18p】

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【5.尼崎の道標】
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