16.尼崎市久々知1広済寺西の道標

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尼崎市久々知1丁目3の四辻北西部に東を正面として建つ
(現近松公園の西隣、広済寺山門の西60m、有馬街道は東から来て北に折れる)
山形角柱 96x東面25x21p(頂高5p)
N34.74664 E135.43071


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東面
┌─――――――――――――――――┐
│右 中山有(馬)         │
│左 尼崎西(宮)         │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│右 服部             │
│   當村世話人(若中同源蔵)  │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│    施主 荒(熊浅吉)    │
│左 大坂             │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│天保六未年六月吉(日)      │
└―――――――――――――――――┘


(( )部は地中に埋没の為、『尼崎の道標を訪ね歩く』参照)
(天保六年六月1日とすると1835年6月28日金曜日となる)
(『尼崎の道標を訪ね歩く』平成27年荒木勉では9)
(『尼崎のみちしるべ』1980年尼崎郷土史研究会の写真では、道標の周囲には割と沢山の空間が有るように見受けら
 れる。)
(明治の地図では、西への道が無く三叉路となっている。北から来た有馬道は、此処で東に折れ150m先(現、近松
 公園の南東角)で更に南に折れて、大坂へと続き、北面の「左大坂」は問題ないが、南面を見ると「右大阪」とせ
 ず「右服部」としている。
  南から来た場合、大坂(南東へUターン)へ行くよりも、北東の服部方面を目指す人が多かった事に起因している
 と思う。服部へは上記150m東地点から北東に、若王寺、瓦宮、藻川を渡り穴太、椎堂、猪名川を渡り利倉、服部
 の順であろう。
 因みに『尼崎の道標を訪ね歩く』でも、「久々知からは若王寺→口田中→瓦宮→椎堂→利倉と思われる」と同様で
 ある。)
(この道標が、道に正対せず、東面がやや南を向いているのは、新しい地蔵堂の向きに合わせたかの様に見え、道の
 拡幅、新設もされている為、近接移設の可能性は大いにある。)
(尼崎市内で、服部を示す道標は、全部で三基存在し、
 1.「9.白井神社内の道標」
 2.「16.久々知1広済寺西の道標」(当道標)
 3.「24.尼崎市武庫町3北向地蔵の道標」
 である。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を東に望む 【4.道標を北西に望む
 奥(北)上坂部へ  左(東)服部、大坂へ  奥(東)服部、大坂へ  東面がやや南向きに
 右、服部、大坂へ】  奥久々知を抜け尼崎道へ】  右、尼崎/伊丹道へ】  ねじれて建つ】

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【5.尼崎の道標】
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