9.尼崎市東園田町4白井神社内の道標1(三基の内東側)

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尼崎市東園田町4丁目の白井神社境内中の鳥居東側に建つ
(三基の内東側、「西の石碑」へ「中央の道標」へ
山形角柱 82x南面22x13.5p(頂高4.5p)上部から53pで折損
N34.755696 E135.446018


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南面
┌─――――――――――――――――┐
│右 者津と里 池田        │
│           道     │
│左 穴太 伊丹 中山       │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(者津と里=服部か)
(『尼崎の道標を訪ね歩く』平成27年荒木勉では3、移設であろうが、元位置は不明とある。)
(元位置を考えてみよう。元位置の手掛かりとして、穴太が、伊丹、中山と同じ方面に書かれている点で、有馬道への
 案内であるから、穴太より北の地域は考えられない(遠回りとなる)。
  一方、服部へ出る道は、猪名川の東の、上津島か、利倉の何れかであるが、明治の地図では、上津島から服部へは
 小径(細道)しか記載されていない、依って利倉への案内とすると、その南の富田(現、東園田町1丁目)を通る。
 この条件で、左右の分岐する広い道では二ヶ所、穴太南東の法界寺集落の東と、穴太の真東の富田集落の南端となる。
N34.752215 E135.450125
 東園田町5丁目131の三叉路の北西部
N34.755928 E135.453722
 東園田町1丁目162の四辻の北西部
 辺りであるが、現在道標の建つ地点から、前者までの直線距離が550m、後者が700mとなり、距離的には法界寺が優勢
 であるが、富田の南端を東西に通る道は、現、県道606号のすぐ南側の道で、旧、西宮豊中線であったと思われ、この
 道の尼崎市域の最も西端、武庫川のすぐ東にある、「24.尼崎市武庫町3北向地蔵の道標」には奇しくも同じ行先で
 ある「はつとり」が書かれており、当道標を置くに相応しいかも知れない。
 又、現在の交通量から見ても、富田集落の南端の方が適しているとしたい。
 何れにせよ、どちらも穴太村の隣村からの移設となる。
  『みちしるべ』尼崎郷土史研究会会誌41号では、元位置として「旧穴太村東方において南の法界寺村からの道路との
 交わるあたりに立っていたものと思われる。」とあり、明治の地図には見当たらないが、昭和9年発行地図では、今の
 「27.尼崎市東園田町4園和小学校北東の道標」(大正の道標)が建つ地点、
N34.754682 E135.447819
 辺りが、上記の表現に一致すると思われる。)
(尼崎市内で、服部を示す道標は、全部で三基存在し、
 1.「9.白井神社内の道標」(当道標)
 2.「16.久々知1広済寺西の道標」
 3.「24.尼崎市武庫町3北向地蔵の道標」
 である。)

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【1.神社鳥居を西に望む 【2.道標等を北に望む 【3.道標等を南西に望む 【4.当道標を北に望む
 右(北)に社殿と  左奥、赤い鳥居の  左(東)端が当道標  右が当道標
 当道標等がある】  手前に東西に並ぶ】  右へ、8、7とした】  左は7道標】

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【5.当道標南面、上から
 53pで折損、余にも
 綺麗に接がれている
 移設時に折れたものか】

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【6.尼崎の道標】
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