8.尼崎市東園田町4白井神社内の道標2(3基の内中央)

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尼崎市東園田町4丁目の白井神社境内中の鳥居東側に建つ
(三基の内中央、「西の石碑」へ「東の道標」へ
尖頭型角柱 87x西面24.5x25.5p(頂高3p)(根元埋設部分3p露出)
N34.755696 E135.445998


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西面
┌─――――――――――――――――┐
│        是より四丁    │
│右阿の村者可゛み         │
│         道       │
│すぐ伊丹中山           │
└―――――――――――――――――┘
(「者可゛み」は「はがみ」、よりは一字に見える)

北面
┌─――――――――――――――――┐
│以他力 大坂 むしろや      │
│建之     新助        │
└―――――――――――――――――┘
(「むしろや」は五角形に彫り込まれた部分にある)
(彫り込み部、高23x幅7.5x深1p)

南面
┌─――――――――――――――――┐
│嘉永五壬子年           │
│ 十一月吉日           │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(阿の村=穴太村、はがみ=歯の神様)
(西面にある「阿の村はがみ」は白井神社自身のことを指す様に思われる。)
(嘉永五年十一月1日なら、西暦1852年12月11日(土)となる)
(『尼崎の道標を訪ね歩く』平成27年荒木勉では2)
(元位置として、同書では、瓦宮の藻川土手、宮園橋南側、阪急電車の線路北側としており、
 『尼崎のみちしるべ』1980年尼崎郷土史研究会に載る写真を見ると、右岸(西側堤防)土手の東法面上部に建っ
 ているように見える。)
(元の位置を道標の「是より四丁」から考えてみると。
 現在の南側鳥居から、明治の地図で四丁の地点を探すと、藻川に架かる宮園橋東詰の堤防辺りとなり、「右はが
 み」に相応しくない。川を西に160m渡った地点で、有馬道(北に伊丹、中山へ)が西へ曲がる地点に三叉路が
 あり、ここなら、案内とピタリと合う。但し、神社までとすると、5丁を超えてしまうため、穴太村まで四丁と
 解釈せねばならない。明治の地図の穴太集落は100m程度四方と表現されており、集落の北東部に神社が位置す
 るが、小さな村でもあり、村までの距離を示しても差障りは無さそうである。
  或いは、現在の参道が南まで伸びており、集落南部の道に達していたとするなら、距離も完全に一致する。
 依って、尼崎市瓦宮1丁目12、藻川西の県道606号(西宮豊中線)が南から阪急のガードを北に越えた、
N34.753927 E135.440933
 辺り、当時の三叉路北東部(明治の橋は今の橋よりやや南に有った)に、現在の西面が、南面して建っていた
 としたい。
 明治の地図の有馬道は、堤防上に描かれており、『尼崎のみちしるべ』の写真の道標が、まさにその場所であ
 ったと思われる。
 ただ注意しなければならないのは、「四丁」の部分が、他の字体や彫りの深さと比べ、追刻の可能性がある事
 で、追刻、即ち、移設となり、更に古い元位置があったのかも知れない。)

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【1.神社鳥居を西に望む 【2.道標等を北に望む 【3.道標等を南西に望む 【4.当道標を北に望む
 右(北)に社殿と  左奥、赤い鳥居の  中央が当道標  左が当道標
 当道標等がある】  手前に東西に並ぶ】  左9、右7とした】  右は9道標】

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【5.むしろや部分の拡大 【6.道標を北に望む 【7.西面下部拡大
 五角形の彫り込みは  移設時に方向は  「道」の右に細く
 蓆屋の定番マークか】  適当に建てたか】  「是より四丁」と見える】

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【8.尼崎の道標】
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