17.尼崎市上坂部2丁目の道標

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尼崎市上坂部2丁目20 四つ辻の南東角に北を正面に建つ
(有馬街道は、東から来て北に折れる。南は尼崎/伊丹道であろう。)
蒲鉾型角柱 121x北面33x21p(頂高2.5p)(彫字の深さ16o、扇面の深さ8o)
N34.74853 E135.42701


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北面
┌─――――――――――――――――┐
│    すぐあまが崎       │
│(扇面に分銅か)         │
│    左かん崎大坂       │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│右小ばま中山有馬         │
└―――――――――――――――――┘
(「ば」は変体仮名「者」に濁点、「小ばま」は宝塚の小浜か。)

南面
┌─――――――――――――――――┐
│天保六未三月           │
│ 建主 大坂浮田氏        │
│ 世話人當村ごばん石與吉     │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

頭頂部(上が北)
┌─―――┐
│    │
│千(+)│
│    │
└――――┘
(文字ではなく記号なのかもしれない。他に傘、大、人等もあるか。)


(天保六年三月1日なら1835年3月29日日曜日となる。)
(『尼崎の道標を訪ね歩く』平成27年荒木勉では8)
(碑面の最初(上部)に扇形(家紋であろうか)が彫られているのは珍しいと思う。「彫り物一覧」を参照。)
(頭頂部に、盃状穴があるものよく知られていると思うが、記号の様なものが記されている道標も、稀にあり、
 設置の時の目安に使用したものかも知れないと考えている。これもその一つであり北を示しているのでは。)
(西面「右小ばま…」の「ば」は変体仮名「者」に濁点を付けており、濁点表記の点で珍しくもあるが、現在の
 宝塚市小浜は、「こはま」と呼んでおり、「をばま」「こばま」とは読まならしいが、有馬道における宿場で
 あるため、ここであろうとした。あえて濁点表現をして間違っていたなら、間抜けな話だが、当時の呼び方で
 あったのかも知れない。尚、南面にも同じ「ば」の表現が使われており、此方の解釈は一層難しい。
  「世話人」をよく理解できていないのだが、当時の村方三役の様な公的なものでなく、一般的に解釈した時
 「當村ごばん石與吉」とは、「当村御番」の「石與吉」か、「当村」の「ごばん石」「與吉」の二通りが考え
 られ、苗字ではないが、「ごばん石」を「碁盤石」なる呼び名とみなし、「與吉」さんが建立の世話をしたと
 したい。この時、「ごはん石(御飯石)」や「こばん石(小判石)」と読まれてはたまらないので、正しく読
 めるように、濁点を付けた。同じく、「小ばま」と濁点表記せざるを得なかったとするのはどうか。
 尚、尼崎市に尾浜村があり、この地から南西1.7q、庄下川西岸には、尾浜八幡神社があるが、中山・有馬とは
 方向もことなり、「尾」を「小」とは書かない為、これを「小ばま」とはしなかった。)
(この地点から西へ直進すると、「26.尼崎市南塚口3専念寺前の道標」のある森村に、行き着くが、主要道
 ではなかったと見え、案内されていない。
 これは、尼崎西部から服部への道(西宮豊中線、吹田道)を同定する上で一つの目安となる事象であろう。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南西に望む 【4.道標上部を南に望む
 左、上坂部集落内へ  右(東)上坂部へ  左(南)尼崎道を長洲へ  頭頂部の文字の様な
 奥(南)長洲へ】  奥、有馬道を塚口へ】  右奥、旧森の集落へ】  ものと、扇型の家紋?】

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【5.尼崎の道標】
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