28.西国街道 髭の渡し説明板

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尼崎市西昆陽3丁目の西、武庫川東岸河川敷に建つ
「髭の渡し常夜灯」はこちら
N34.770171 E135.376602

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【説明板(尼崎市)】
 西国街道(さいごくかいどう)(ひげ)(わた)
 この付近には江戸時代に武庫川を越える西国街道(さいごくかいどう)の渡し場がありました。街道沿いの西昆(にしこ
や)村に(ひげ)をはやした老人が営む茶屋があったことから「(ひげ)の渡し」と名づけられたといわれ
ています。江戸幕府の命令によって文化3年(1806)に作られた「山崎通分間延絵図(やまざきどおりぶんけんのべえず)」を見る
と、武庫川の河原をはさんで街道の道筋が両岸の堤のところで途切れていますが、ここに渡
しがありました。渡し場の様子は描かれていませんが、尼崎側の街道沿いに「髭茶屋(ひげちゃや)」や「(たて
ば)(人足が休息する所)と注記された建物が描かれています。
 この渡しでは東から西への川越えは常松(つねまつ)村と西昆陽(にしこや)村の2カ村が月番で受け持ち、西から
東への川越は、段上(だんじょう)村、上大市(かみおおいち)村、下大市(しもおおいち)村(いずれも現在は西宮市)の3カ村が月番で受
け持っていました。例年10月中旬から翌年春の彼岸までは、板橋が架けられ、水量が増した
時には人足の肩越えによる渡しが行われていましたが、後には船での渡しが行われるように
なりました。
 参勤交代(さんきんこうたい)の大名や往来の旅人など数多くの人々に利用されてきたこの渡しは、明治の終
わりに下流に甲武(こうぶ)橋が架けられ、西国街道(さいごくかいどう)の新道(現国道171号線)ができるまで続きました。

  兵庫県西宮土木事務所
  尼崎市

(「山崎通分間絵図」は東京国立博物館アーカイブ『山崎通分間延絵図全1巻』で参照でき、この辺りは
 「本文27」に該当する。)
(現在でも、堤防と川原を注意深く見ると、過去の渡し(道)の位置の痕跡が見える。(少なくとも明治44年地図
 の道筋)例えば、両岸にある階段、東岸の常夜燈と地蔵堂、渡し部分となるであろう場所の地蔵堂、等である。
 又、これらの堂などは、出水を想定済みなのか、掩蔽ドームにより守られている。これは、明治以降のものであろ
 うか。)

【西宮市史5巻より】
享和三亥年 尼崎藩御代官様、郷廻り様控、
村方明細書帳 四月 摂津(刀が三つ書かれている)武庫郡段上村、
一、跡之宿昆陽村え凡壱里余
一、先之宿西宮え凡壱里余
往還渡
一、武庫川 幅凡弐百六拾間余
      内
      百三拾間余常松村支配
      百三拾間余段上村支配
但し歩行越、段上村、上大市村、下大市村立会
此川筋凡拾里余上、摂津丹波両国之境あいの秀坂
と申所より流レ出、摂津有馬郡之川々落合、同国武
庫郡伊孑志村塩之出、小林村辺ニて逆瀬川、仁川之
両川落合、此廻りより武庫川と成流レ来り、凡弐里
半余下同国同郡御料御代官様支配鳴尾村并尼崎
領西新田村地内ニて大浜へ落申候、尚又往還渡より
凡壱里下モニて枝川と唱え申候川へ流落、同国同郡
御料御代官様御支配鳴尾村地内ニて大浜へ落申候、
右武庫川より枝川と分レ申候所より凡拾四五丁下り
中川と唱申候川へ分レ此川下モ凡弐拾丁流御料御
代官様御支配今津村地内ニて大浜へ落申候、
一、右諸御通行御越立儀左に申上候、
一、小深 台壱挺ニ付人足六人掛り 壱人ニ付拾八文より四拾文迄
  但し駕 壱挺
   荷駄 壱駄
   両掛 弐荷人 壱人
   棹持 長持
  三人掛 長持
       但し四人増
  歩行人 弐人乗セ
  〆
一、臍切
  台壱挺ニ付人足拾人 壱人ニ付六拾四文宛
   右同断
一、腰切
  台壱挺ニ付人足八人 壱人ニ付四拾八文つゝ
   右同断
一、乳切
  台壱挺ニ付人足拾弐人 壱人ニ付八拾五文宛
   右同断
右之通ニて御越立仕候賃銭之儀は川割御役人様御相対
之上申請候、
  但し輩台之儀拾弐挺
一、御朱印御証文御用御往来并御証文附御用物状筥等到
  来之節、川留等之儀是迄無御座候えとも、依頼御座候
  ハ、昆陽村駅所迄早速注進仕候 川明次第早速川越仕
  候て遅刻仕候趣手形ヲ以御用物ニ相添、次宿へ相送り
  申候、

とある。
享和三年四月一日は、西暦1803年5月21日土曜日となる。
当時の物価として、米一升、酒一升、醤油一升が200文程度とする資料あり。

【西国街道 西宮説明板1(甲東文化財保存会)】
西宮市上大市5丁目27、報徳学園高校の西に建つ
N34.769076 E135.370788

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西国街道(1)

京都東寺の西、羅城門を起点とする西国街道(京街道)
は平安時代の延長年間(923〜930)にできたといわれる。
髭(ひげ)の渡しを渡って段上村に入った旅人は、一里塚の
木陰でひと休みし、この付近にあった石橋を渡った。古地図に
裏堀石橋とある。古老によると、そこには渾渾と清水が
湧き出ていたという。この道はさらに鯨池上水場から上大市
五丁目と段上町八丁目の境の道を南に下がり新幹線をこえる。
そこに百間樋石橋があった。道は阪神水道企業団
甲東事業所の地で切られているが西南へと続く。
   甲東文化財保存会


(延長、元年閏4月11日〜9年4月26日は、ユリウス暦、923年5月29日〜931年5月16日であろう。)

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【1.旧R171より東岸堤防へ 【2.東堤防を降り 【3.川原より東堤防を
 登る道を北西に望む  説明板を西に望む  東に望む、階段の向が
 左(西)甲武橋へ】  常夜燈左に説明板】  写真1.の道に続く】

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【4.東(左)岸より西を望む 【5.同左、西宮側遠望 【6.同左、150m下流地点より
 右端、河原にある地蔵堂  明治の地図の該当  西、西宮側を望む
 左端対岸の堤へ登る階段】  位置に階段が見える】  何の為の堰堤か】

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【7.西岸より東を望む
 尼崎の説明板は見えない
 ガードレール切目の東は階段】

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【8.西宮南部の道標】 【9.尼崎の道標】
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