8.伊丹市荒牧3文政十二年の道標

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伊丹市千僧1丁目、市立博物館収蔵荒牧道標E
『説明』に
 「この道標は、市域北部荒牧村北側の京伏見街道と中山寺
道の交差点に建っていたものです。正面に「すく 京 池田」
「左 中山」道と刻まれています。造立年代は文政12年
(1829)で、小浜(宝塚市小浜)の壁屋宗兵衛が建てたこ
とが記されています。」とある。
(角柱型(錐型)、花崗岩 高58p,幅17p,厚12p)(『伊丹の道標をたずねて古道を歩く』より)
N34.811877 E135.37873


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正面
┌─――――――――――――――┐
│春く京池田          │
│      道        │
│左 中 山          │
└―――――――――――――――┘
(「春」は変体仮名「す」)

左面
┌─――――――――――――――┐
│  小濱           │
│   壁屋宗兵ヱ       │
└―――――――――――――――┘

右面
┌─――――――――――――――┐
│文政十二丑六月立       │
└―――――――――――――――┘

ウラ面
┌─――――――――――――――┐
│(不明)           │
└―――――――――――――――┘

(文政十二(己丑)年六月一日なら、西暦1829年7月1日水曜日となります。)

(伊丹市荒牧3丁目3(宝塚市中筋7丁目)辺りに西向きに建っていたか、
 Web『驕れる人も久しからず』//naga500.cocolog−nifty.com/blog/2014/08/post−e3c8.htmlの
 道標35であろうか。)
(『広報いたみ』昭和56年2月15日号では、「伊丹市荒牧3丁目5の道標」と共に二基あったと
 あるが、その説明中に
 「願主は一方は大坂梅ヶ枝町の「中やちく」、他方は「荒牧利兵衛」さんである。」とあるので、
 上記の道標とは別物で、もう一基あったとし、二基が伊丹側で、一基が宝塚側にあったと考えられる。)
(因みに『伊丹の道標をたずねて古道を歩く』では、
 「かっては三基もの道標が建っていた」とあり、
 上記、Web『驕れる人も久しからず』の「不明の道標33」の「中やちく」の道標が、過去宝塚市側にあり、
 現在、行方不明になったものか?)

写真cimg6818
【1.『伊丹の道標をたずねて古道を歩く』と同じ位置から撮影したもの。】

写真の「手前」辺りが推定位置、としているが、右端電柱(北西角)辺りか、左壁際かは明確にされていない。
尚、写真中央白いガレージのシャッターの右横に白く小さく見えているのが、「伊丹市荒牧三丁目の道標」

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【2.荒牧3丁目の現存道標】 【3.裏面 施主部分「荒牧利兵衛」】

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【4.博物館の街道と道標地図】 【5.伊丹北部の道標】

【追記、2023年8月】 伊丹市立博物館移転等による。
 市役所東にあった博物館が無くなり、伊丹ミュージアム内に移転され展示等は大幅に縮小されました。非常
 に残念な結果となっています。これに伴い道標の展示は無くなっています。係りの方に収蔵物はとお聞きし
 たところ、「保管はしているが、展示の予定はなし。過去に有ったバックヤード見学会も無くなりました。」
 とのことで、目にする機会は無くなったと思われます。
 又、『たからづかの道標』(昭和61年刊)35に載っており、「××氏が所有していたが昭和58年に伊丹市
 立博物館へ寄贈」とあり個人所有の方が良かったかも知れない。
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