20.伊丹市寺本3丁目地蔵堂前道標

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西方面から来て、県道333号線(南北の道)に突き当たる三叉路の少し西側、
伊丹市寺本3丁目108の民家の南西部、小川北東の地蔵堂の前(道の北側)に
西を正面に建つ
尖頭形角柱 87x15.5x15.5p(頂高4p)
N34.77681 E135.38561


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西面
┌─――――――――――――――┐
│        池田     │
│(地蔵像) 左    道   │
│        妙見     │
└―――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――┐
│ 嘉永三戌年十一月      │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――┐
│ 西荅某建之         │
└―――――――――――――――┘


(嘉永三年十一月1日なら、西暦1850年12月4日水曜日となる。)
【建主について】
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【1.北面拡大】

(北面、「荅」トウ(アヅキの意)を「誉」とする資料もあるようだが、
「ソ」の下にに「一」と書く字を草冠とみなし、「荅」とした。『大字典』に「荅」は「答」と同字とある。)
(サイトウさんが建てたのか?)

【移設に関して】
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【2.橋上から東を望む、 【3.橋上から北を望む、
 左側欄干の後に左へ  村を迂回する道だ
 の細道と堂と道標、  ったのか、
 正面突当りに南北に  正面は小学校、欄干
 通る現県道333号】  が「たぬき橋か?」】

(明治44年の地図(写真5)では西からの道がなく、南北の道(北小濱方面)から東に分岐する三叉路(ト字状)
 のようで、左池田/妙見道を満足するには、村中を走る現県道333号へ導くためには、北を向いている(90度回転)
 必要がある。
 北から来て左折すると、東50mで「寺本二丁目釘抜き紋道標」が示す北東に進む妙見道(現県道333号)に突き
 当たり、道なりに南へ進むと、上記道標の辻に出る。)
(上記で、道標は回転されているのではとしたが、
 『広報いたみ』(56年8月15日号)に
 「昆陽里バス停から北へ、寺本の入口、昆陽井にかかる橋の向う側に「左妙見」ときざんだ小さい道標がある。
 指示にしたがって左折、昆陽井の右岸を上ると、西方尼宝線から上ってくる道との合点に「たぬき橋」というのが
 ある。
  その橋の向う詰めに太子堂があり、その脇にこの道標が建っている。
 …(中略)
  直進すれば村の中へ、左折すれば生垣にそった細い草道で花里小学校のプールにつきあたり道は消えている。
 昔は小学校の中をつきぬけて北の「青面金剛」(寺本村の北の守り神)の四つ辻の近くに出て県道寺本・川西線に
 合流したという。 山田村の葬式の列なども村に遠慮してか村の中を通らずこの道を迂回したものだ…
 今は、道を失なっていても昔をしのべる道標である。」とあり、移設の記述はない。
 昭和46年の地図では小学校を通る道が確認できるが、明治から、昭和4年までの地図では、迂回する道は確認出来
 ない。
  しかし、元禄三(1690)年「池尻村絵図」では逆に、村中を通る道がなく、昆陽井の西側に沿う道が描かれており、
 この地点から村を通らずに中山道(現県道333号)に直進する道が描かれている。
 江戸時代は、むしろこちらの道が本道(中山道)であったのかもしれない。
  南から来た道が、「19.寺本2道標」で左折し、昆陽井西岸沿いに北上し、この変則四辻に来て、橋を渡り
 池田・妙見山方面に行くのであれば、今のままの道標で何ら問題は無い。
 葬式の列だけでなく、一般の人も村を西に巻いて通行していたものであろうか。)

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【4.寺本村近辺の道標、 【5.「寺本村(明治13年)全図」
 伊丹古絵図集成(本編)  伊丹古絵図集成(本編)参照】
 「元禄三年池尻村絵図」参照】

写真dimg0766
【6.伊丹西部の道標(明治44年)】

写真dimg0487
【7.伊丹南部の道標(明治18年)】
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