吹田市江坂町3−36−1 東西の吹田街道から北に分岐(勝尾寺方面)する四つ辻の北西部に東を正面に建つ。
(榎坂東道標の西60mにある。)
大小二基の内、右(北)側背の高い道標が当道標。南隣の「11.榎坂西(小)道標」はこちら
蒲鉾型角柱 91x東面19x13p(頂高3p)
N34.7648467 E135.4912718




東面
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│ 右 みのを 中 山 │
│ すぐ はつとり あま │
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(「はつ」は「者津」の変体仮名)
南面
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│(なし) │
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西面
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│(すぐ) 吹田 京 │
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北面
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│(なし) │
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(『すいた歴史散歩』<増補版>吹田市教育委員会では、12番目)
(『吹田の歴史学習資料』昭和53年、吹田市教育研究所編、11(ロ)に、「隣の小道標より後に建て添え
られた」としているが、根拠としては「交通が盛んになるにつれて詳しい道標が必要となり」としている
のみである。
確かにこの道標は、(小)道標に比べて行先が沢山書かれていることは事実であり、又、行先の重複も
無い事から後に補完で建てたと考えたいが、一つ、西面に東方への案内があり、この道標が北側に設置さ
れていることもあり、読み取れない状況にある。私が後に建てるなら、小道標の南側(吹田街道より)に
置くであろう。移設等による入替があったのであろうか。
尚、石の風化具合は、この(大)道標の方が進んでいる様にも見え、此方の方が古いとも考えられる。
その場合は、既に各地への案内道標が建っていたが、勝尾寺への参詣者が増え、分り易い様に、小さい道
標を目立つ場所(南側)に建てた、の様な解説が出来るか。因みに、箕面山龍安寺に縁のある富くじの隆
盛期が、文化・文政の頃(1804〜1830年)とあり(wiki)、勝尾寺参詣と兼ねて、人通りが増えた等と
するのは考えすぎか。)
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【1.道標を東に望む |
【2.道標を北に望む |
【3.道標を西に望む |
電柱左に二基あり |
奥、現服部緑地へ |
手前から奥が吹田道 |
奥(東)吹田へ】 |
奥、(大)が当道標】 |
奥(西)小曽根へ】 |
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【4.道標上部を望む |
【5.西面上部拡大 |
【6.西面下部拡大 |
右背の高い方が |
「すぐ」と読めるか |
此方は「吹田 京」 |
当道標】 |
解説板に従った】 |
と読める】 |
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【7.二基を南西に望む |
【8.吹田市の道標】 |
先に建立された道標は |
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どちらか、右が当道標】 |
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榎坂西道標の案内板

榎坂西道標(江戸時代)
吹田市江坂町三ー三六ー一
二基の道標のうち「右 かちをじ」の刻字が
示すように、右へ進むと高川を渡って三国街道
を通り、上新田から勝尾寺へと続いていま
す。右側の道標は吹田街道の交通量がふえて、
くわしい表示が必要となり、のちにたてられた
ものでしょう。道標の刻字が示すように吹田街道
が京都・吹田・服部・尼崎方面との交通に用
いられていたことがわかります。
刻字にある、みのおは箕面寺ほか観光の名所
としても有名で、中山寺は西国三十三か所観音
霊場の二十四番札所です。
左側小さい道標
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│ │
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│右かちをじ │
│ (勝尾寺) │
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(【私注】「じ」は埋もれて見えない)
右側背の高い道標
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│(右折)(箕面) │
│ 右 みのを 中 山 │
│ すぐ はつとり あま │
│(直進)(服部)(尼崎)│
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│ │
├――――――――――――┤
│(直進) │
│ すぐ 吹田 京 │
└――――――――――――┘
(【私注】「はつ」は「者津」の変体仮名か)
(吹田の地図)【省略】
昭和六十三年三月 吹田市教育委員会
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