3.高槻市氷室町1の南側明治の道標3/3

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高槻市氷室町1―15 東西の西国街道に北からの道が突き当たる逆T字路の北西部に三基があり、
三基の内、最も大きな南側道標で、東を正面に建つ
尖頭型角柱 172x東面24x25p(頂高10p)基部14x東面28x30p露出部含む
N34.848273 E135.595885


写真cimg1283

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東面
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│右 石川 見山 妙見道    │
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南面
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│右 芥川 山崎 京都     │
│左 豊川 池田 神戸     │
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西面
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│此處芥川村大字郡家      │
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北面
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│明治四十三年六月建之 大阪府 │
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(明治四十三年は西暦1910年となる。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、78)
(同書に「明治時代の二等補助里道「妙見街道」としての道標であり…」とし、「唐崎中4丁目道標」と同時に建てら
 れた事が書かれている。大正8年に旧道路法ができる以前は、「達」や「布告」により道路の整備がなされていた様
 で、明治43年時点では、国道、県道1,2、里道1,2,3に分けられていたと思われ、下から二番目の位置付で
 「聯路」であったことが、明治44年地図でも確認できる。但し、道路の幅員について、国道は5〜7間、県道は4〜5間、
 里道は「一定スルヲ要セス」とされていたらしいが、1間(1.8m)以上はあったであろうが、今よりは狭かったと
 思われ、近接移設は避けられないであろう。初期の設置時には、官設でもあり、他の二基よりも目立つ位置に置かれ
 たとすれば、今の相対位置関係のままであったと考えられる。)
2022/3/24追記
 高槻市氷室1丁目に三基の道標としたが、現在は明治の当道標一基のみになった様である。

写真eimg6476 写真eimg6521 写真eimg6478
【1.道標辻を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 奥(東)京へ  明治の道標に隠れる  左奥(西)宮田へ
 左(北)妙見道】  奥、妙見道は北西へ】  明治道標のすぐ右】

写真eimg6523 写真eimg6488 写真eimg6486
【4.道標を南に望む 【5.道標西面と南面 【6.道標東面
 現在は4m幅か  左面「此處芥川…」  東から来た人に
 昔より西に拡幅か】  右面「右 芥川…」】  右、妙見山道を案内】

写真eimg6742
【7.高槻南部の道標】

2022/3/24 2023/5/25 追記
写真iimg0448 写真jimg2691
【8.氷室町の一基を西に望む 【9.2023/5時点での様子
 2021/9/24日時点の様子  他の二基の復元は無いと思う
 大きさ故に残ったか他の二基は?】  何処かで保管は無いか?】
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