1.高槻市氷室町1の塀に埋もれた道標1/3

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高槻市氷室町1―15 東西の西国街道に北からの道が突き当たる逆T字路の北西部に三基があり、
三基の内、二基の道標の西(後ろ)に、ブロック塀に埋もれ、東を正面に建つ
頭丸型角柱(盃状穴あり) 95x23x23p(頂高4p)
N34.848264 E135.595868


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東面(本来は南東が近い)
┌―――――――――――――――┐
│右 妙見道          │
│     是より五リ     │
└―――――――――――――――┘

南面
┌―――――――――――――――┐
│す(ぐ そうじ寺)      │
└―――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――┐
│天保六乙未年         │
│      九月       │
└―――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(天保六(乙未)年九月1日なら1835年10月22日木曜日となる。六年は閏7月があったようである。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、80)
(同書には、後述「3.氷室町1の南側道標3/3」より前に建てられたとしているが、北面に「天保六年」の紀年が
 ありそのとおりである。)
(明治の地図で見ると、西国街道のここから分岐した妙見道が、古墳の南を通過し、土室、塚原、茨木市の桑原に続く
 様子が見え、妙見山参詣の人々が多く通ったものと思われる。それは、道標の上部に盃状穴があることでも分り、設
 置場所も辻の中にあった事を示し、後追いの明治の道標設置が現状を作り出したものであろう。)
(南面の行先が解読できなかったが、総持寺であるとすると、西国街道からの分岐点を現府道115号の辻とするなら、
 西を指してほしいが、今の向きでは「すぐ」が理解しにくく、元は反時計回りに45度程廻っていたと思われ、ブロ
 ックに取り込まれる際に変えられたのであろうか。)
2022/3/24追記
 高槻市氷室1丁目に三基の道標としたが、現在は明治の一基のみになった様である。

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 奥(東)京へ  奥、妙見道は北西へ  奥、宮田へ
 左(北)妙見道】  住居表示右に当道標】  明治の道標に隠れる】

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【4.道標を北西に望む 【5.道標北面下部 【6.道標上部と南面
 「是より五リ」は  「…保六乙未年」  上部に盃状穴があり
 小さく左下にある】  「九月」と読める】  南面は「すく…」か】

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【7.高槻南部の道標】

2022/3/24 2023/5/25 追記
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【8.氷室町の一基を西に望む 【9.2023/5時点での様子
 2021/9/24日時点の様子  多分復元は無いと思う
 建設中なので、その後は?】  何処かで保管は無いか?】
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