5.高槻市芥川町4の常夜灯道標

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高槻市芥川町4−19 東西の西国街道に南北の細い道が「大」の字状に交差する辻の南東部に北を正面に建つ
常夜灯竿部 155x18.5x18.5p(笠部38x北面76x73p、火袋33x北面31x30p、下台15x北面54x53p、竿部上記、台石1x北面54x55p)
N34.85125 E135.60820


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西面
┌――――――――――――┐
│従是道(法)六十三里半 │
└――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――┐
│文政十二年己丑三月吉日 │
└――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――┐
│芥川驛世話人 日出講中 │
└――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――┐
│象           │
│頭 金毘羅大權現 常夜燈│
│山           │
└――――――――――――┘


(「法」の刻字は、さんずい篇に、「大」の字の下に、カナの「ム」となっている。)
(文政十二(己丑)年三月1日なら、西暦1829年4月4日土曜日となる。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、102)
(これを道標とするかは、微妙な所であるが、里程が書かれている点で道標とした。但し、どちらへ進めばよいか分か
 らず、象頭山=四国の通念から、無条件に西国街道を西に進むと理解できるとすべきなのかと思う。そうであるなら、
 現北面は東面している方が良いと思う。
 同書では、「芥川宿〜西宮〜下津井〜丸亀〜金毘羅山に至る距離が…一致する」との説を載せている。(海上航路を
 含めてか?))
(一見すると、竿部分の色合いが違って見え、補修された様に感じるが、石の模様から、各部全てオリジナルのままと
 思われる。
 がこれは、移設の可能性を否定するものではなく、上記の向きも含め、近接移設の可能性は大である。
  前述の書の、昭和の頃と思われる写真には、ほぼ現在位置に置かれ、現北面が、西面して、ブロック塀を背にして
 建っている。この向きであれば、南下する方が自然に思え、三島江からの船行等が一般的であったのかも知れないが、
 『高槻まちかど遺産』では、「芥川宿絵図」を根拠に、明確に移設としている。
 元の位置は、西へ40m、芥川橋東詰めの三ツ辻北東部
N34.851209 E135.607842
 辺りとする絵図を載せる。
 これは、「4.芥川町4―21地蔵堂の道標」の元位置とした地点の道を挟んで東側である。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を北に望む
 奥、西国街道を東へ  右奥(南)三島江へ  左右が西国街道
 右、川沿いに三島江へ】  左奥の道は地図に無】  左(西)西宮へ】

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【4.道標を北東に望む 【5.道標を南東に望む 【6.高槻まちかど遺産
 上部の石ほど黒いが  右面に「六十三里半」  常夜燈の横の案内板の
 石質は全て同じ】  と書かれている】  絵図には常夜燈が載る】

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【7.高槻南部の道標】
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