17.高槻市富田町6の道標

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高槻市富田町6丁目15 南北の富田街道と東西の道の四辻東南部に建つ
尖頭型角柱 152x西面24x24.5p(頂高6p)(不整面は3p巾で周囲を平滑)(北面+3凸、南+4凸、東+6p凸)
N34.827564 E135.593929


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西面
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│右(指差像)富田街道 鮎川 目垣 三島江    │
│左(指差像)高槻街道 高槻 山崎 京都     │
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北面
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│右      茨木 大阪            │
└――――――――――――――――――――――――┘

東面
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│           大阪府          │
└――――――――――――――――――――――――┘

南面
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│(なし)                    │
└――――――――――――――――――――――――┘


(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、13)
(同書には特に解説は無く、位置関係の説明に出るだけである。この道標から北に200m程進むと、普門寺前道標に突
 き当たり、道を挟んで西側には「大峰山 日丸講の石灯籠」がある。)
(紀年が無いが、明治期によくある造りとなっており、明治期の作成とする。即ち「大阪府」とある。「指差し像」が
 彫られている。
 全面を平滑化しない。尖頭型で幅、奥行が24p程度で細く感じる。「…街道」とある。行先が多い。等の特徴を持
 ち、よく似たものが多数残る。)
(明治の地図を見ると、富田の集落の南端に当たり、南へは「富田街道」が真っすぐに伸びるが、西へは、階段状に二
 回程南に折れた後、戸伏へ向かう道との四辻として描かれているが、東への道はすぐに途切れている。実質三叉路で
 あったようで、西へ向かう道が古くは、尼崎道(明治には高槻街道)と呼ばれていたものと思われる。西への道が直
 線でないのは南に有る水路の影響を受けた為で、(等高線に沿う)古くから有る道がそのまま残っていたことを物語
 るものと思われる。(私説「津門中道」参照。))

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南に望む
 左(北)普門寺へ  奥(北)普門寺へ  奥(南)富田街道
 右、鮎川へ】  左、茨木へ】  右、高槻街道、尼崎道とも】

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【4.道標西面全体 【5.道標西面中部 【6.道標西面下部
 上部は読めるが下部  指差像の下から  最下部「江」「都」の
 は触ってようやく】  左「高槻…」】  下部もみ良く見える】

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【7.道標東面下部 【8.道標北面上部 【9.道標北面中部
 「大阪府」  少し平削部に「右」  少し平削部に「茨木」
 平削し記入】  当初から彫ったか】  更に削って「大…」

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【10.高槻南部の道標】
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