津戸(門)中道について

津戸中道と周辺街道図 1.津戸(門)中道の表記。
2.津戸中道の読み方
3.既説の問題点
4.指摘点
5.五畿内志の距離記述
    〃 一覧表
  絵図を使う
6.津戸中道を実測
7.【出典等】  

【総論】津戸中道とは、摂津志のみに書かれた道で、
 西国方面に向かう道の内、最も東南部に位置する。
 西国街道芥川より分岐し、西宮で合流する殆ど平坦
 な道。途中22の村名が書かれ、吹田を中継ぎ点と
 している。行程中に大きな川が三本ある中、唯一、
 尼崎北東の猪名川(藻川)が舟渡しとなっている。
 官道、間道、でもなく、国内行路とされているのは、
 平地に位置する村々を繋ぐ生活道路として重要であ
 ったとを示すのであろう。
 全長9里28町(38.4q)。
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五畿内志津戸中道 1.津戸(門)中道の表記について
  津門は現在西宮市の町名であり、津戸と同一とした。
 慶長国絵図では「津戸」、元禄国絵図では「津門」と
 書かれている。
 『大日本地志大系』「五畿内志・泉州志」第一巻
 (芦田伊人編、雄山閣出版)の摂津之一、
 「彊域」「間道」の21番目に(右図参照)
 「○津戸中道」西宮至吹田五里十三町、所歴、曰上今津、
 曰四軒茶屋、曰東新田、曰尼崎、曰長洲、曰浄光寺、曰神崎、
 曰戸内、曰荘本、曰牛立、曰小曾根、曰廣芝等、
 吹田至芥川四里十五町、所歴、曰小路、曰七尾、曰市場、
 曰宇野邊、曰茨木、曰戸伏、曰富田、曰西五百住、曰東五百住等」
 と書かれ、
  その後に二つの道の記述があり、その後に
 「○津戸中道以下国内行路之号」とある。
 (””は筆者追加)
 (津戸中道全行程の距離の合計記述は無い。)
 (上述合計は、九里二十八町(38.4q)となる。)
 (「津戸中道」の表現はこの書以外に無い、とされている。)
【参考】
 国立国会図書館ウェブサイトの
近代デジタルライブラリで、『五畿内志、下巻』が見え、
同じく、『大日本地誌大系18 ・五畿内志泉州志』 雄山閣 蘆田伊人 昭和4年版
を見ることが出来る。
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2.津戸中道の読み方
   多く「ツトナカミチ」としているが、これは
  『大日本地志大系』「五畿内志・泉州志」第一巻(芦田伊人編、雄山閣出版)
  に漢文の読み下しとして、「津戸中道」「」を送っているためと思われるが、
  そう読むべきかどうかは分らない。
  国会図書館の「近代デジタルライブラリ」の五畿内志下巻には、
  「ノ」は書かれていない。
  「ノ」を入れることにより受け取り方が微妙に変るため、
  「ツトナカミチ」と読んだ方がいいような気がする。(後述)
   五畿内志における「中道」の表現として、
  1.大和の「歌姫越」の別名として「中道」
  2.和泉の官道、「中道」堺ー府中
  がある。
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3.既存説の問題点として2つ揚げる。
 T.現在の道(経路)に比定する時、幾つかの説があり、
   何れを用いるか。(確定説なし、検証の要有り)
津戸中道諸説図  1.中世の尼崎地域の地形から、津門から上瓦林、守部、
   富松、塚口、神崎とする説。
   (尼崎の歴史地理選集、渡辺久雄)「渡辺説」とする。
   参照: 尼崎市のホームページは、こちら
   尼崎市の紹介→尼崎の歴史→尼崎こんな歴史→
   Vol.12(平成24年11月1日)まぼろしの「津門ノ中道」
   の順に進んでください。
 2.同じく、名称の中道から、ほぼ上記を支持する説。
  (尼崎市立地域研究史料館)「尼地研説」とする。
    参照: Web版尼崎地域史事典『apedia』 Web版尼崎地域史事典
 3.小曽根村中を経由し江坂から吹田とする説
  (歴史の道調査報告書集成2「近畿地方歴史の道2大坂2」
   大阪府教育委員会)。「大教委説」とする。
   参考:茨木市立中央図書館にある。
 4.小曽根の渡しから、直線的に広芝、吹田へ向かう説。
   「曲江(いりえ)説」とする。
   曲江三郎、『阪神間の街道 第2号』
   の2P以降に詳細あり。
  (開いた先で”2”をクリックすると大きく別フレームに表示されます。)
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 U.距離の記述からの検証がなされていない。
  村名や絵図、明治中期の測量図でそこそこの道筋が決定可能であ
  るにも関わらず、現在の実距離と比較することが行われていない。
  1.五畿内志の距離記述と、現在の距離との誤差を検討する。
  2.距離記述に信頼がおけるなら、津戸中道に仮に比定した道
    の実距離を求め、誤差に近づく様、経路を変えてみる。
  3.この時、江戸期の絵図等も参照する。
  この様な手法が行われても良いはずである。
  【補足】
  「大教委説」では、津戸中道36.28qの記述と、
  慶長、元禄国絵図における一里塚間の計測距離が書かれている。
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4.上記問題点に関する指摘点。
 ・「渡辺説」は、今津から後神崎までの記述を、勝手にかえている
 ・「尼地研説」は、「中道」の中にこだわり、180年後の守部の住職の記述、「守部村が「中海道」にある」との
  記述から、説を補強しようとしている。が、摂津志には、西国街道と、津戸中道の二道しか記述されいない
  にも関わらず、三道を持ち出し経由地を無視している
  「中道」にこだわるなら、五畿内志には、後の「中国道」に関する記述がない
  (この頃呼び方が無かったか、道自体が無かったかは不明)
  点を踏まえ、現在呼ばれている「中国街道」に比定し、「中国道」と「中道」、
  との関係を探るべきかと思う。(例えば、「津戸中国道」の「国」を書き漏らしたと考える。)
 ・「大教委説」は、牛立、小曽根の後の、広芝を無視している
  これは、小曽根=村の中心とした為、小曽根村中心から吹田へ一直線の道(吹田街道)に
  繋ぐべく北上させ、結果、強引に広芝を迂回させたと思われる。
  現在の、豊中市豊南町東の渡し跡が「小曽根の渡し」と呼ばれている様に
  小曽根村の南部を通ったと解釈すれば、広芝、小曽根、吹田はほぼ直線となり、自然な経路である。
25_26号図  ・「曲江説」が最も良く検討されており、妥当と思われる。
  只、吹田の部分で、最短距離にこだわり、出口村から、片山村へ直行するとし
  ているが、距離の記述からすると、一度吹田に入り、亀山街道を折返し、片山村、
  天道村、小路村、と進むのが摂津志の記述しているところであろう。
  即ち、出口ー片山村間の距離が実測されていなかった事に起因していると思う。
  例えば、右図
  現在の国道25号(四日市ー大国町ー梅田新道144.5km)と
  26号(梅田新道ー大国町ー和歌山83.3km)を繋げて記述したい時、
  大国町ー梅田新道(完全重複部)の距離が解らなければ、
  四日市ー大阪ー和歌山を単純に合計するしかなく、
  それを「四大和歌道」として表記するなら、
  自四日市、至梅田新道144.5q
  自梅田新道、至和歌山83.3q
  四日市ー梅田新道ー和歌山227.8kmと書くしかない。
   だからと言って、実際に通行する場合には、
  大国町ー梅田新道間を往復することは有りえない。

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5.距離記述の検証
   津戸中道を比定するに当たり、五畿内志
  の記述がどの程度正確かを見た。
 1.五畿内志に距離が書かれているのは、
  全街道数235件(注1)に対し、352件あり、
  合計を記すものが、45件あり、この内明細と
  合計の合わないものが、8件となっている。
  合計が不一致の内訳をみると、
 a.明細記述に誤りがあると思われるもの、3件
  (合計に足りない分を明細のある部分に、
   足すと実測距離に近似するもの)
 b.合計に誤りがあると思われるもの、2件。
 c.誤差の範囲にあると思われるもの、3件。
  (合計が1町多いもの2件、
   山間部で全長が長く誤差が3%のもの1件)
 となっている。
  幾つかの距離を実測し、五畿内志との誤差
 を出すと、平均+9%となった。
 (記述より、実測の方が長い、注2.
 ここにおいて、距離を用いて、経路の比定を
 行ってもよいと結論した。
 詳細は、別添PDF「五畿内志街道一覧」
 エクセル※「五畿内志街道一覧」参照。
 「五畿内志の誤記」を拡大    ↑
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 注1.全235件は、別名含まず、街道に続く道は件数に含む。
    街道名称ありは213件。
 注2.
五畿内志の距離記述
a@街道名 自ー至      記述(q)実測(q)率   備考      
1.鳥居嶺 吹田ー中川原   10.5811.161.05        
2.天王嶺 神崎ー小浜    12.1113.261.09        
   〃  小浜ー生瀬     3.38 4.041.20        
3.吉野嶺 天神橋ー長柄渡   3.05 3.041.00        
   〃  長柄渡ー小曽根渡  4.58 4.480.98        
   〃  小曽根渡ー池田  12.5412.430.99        
4.西国路 関戸ー芥川     7.31 8.161.12        
   〃  芥川ー宿川原    3.93 6.841.74町数誤りか   
   〃  宿川原ー瀬川    9.16 9.251.01        
   〃  瀬川ー昆陽     7.20 7.401.03        
   〃  昆陽ー西宮     8.07 8.601.07        
   〃  西宮ー兵庫    16.2518.851.16        
   〃  兵庫ー須磨浦    5.89 6.731.14        
   〃  須磨浦ー郡境    1.64 2.121.29        
   〃  関戸ー郡境(合計) 61.3067.951.11        
5.津戸中道西宮ー吹田渡   21.0523.201.10        
   〃  吹田渡ー芥川   17.3416.680.96        
   〃  西宮ー芥川(合計)38.3939.881.04合計の記述は無し
全体五畿内志     【平均】−−−−−−−−−−1.09率の平均値   
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慶長国絵図
慶長国絵図
 2.絵図の利用。
   江戸時代に作成された地図に一部道が記載されている。
  名称は載っていないが、各村を赤線で繋ぐなどされており、
  道の同定には利用可能と考える。
  1.慶長国絵図(1604年)の、牛立村を通る赤線は道か。
   五畿内志の津戸中道にある「牛立村」からは上に「三ツ屋
   村」、下に「宿村」へと繋がっているが、その他の村、例
   えば「小曽根村」に繋がっている様には描かれていない。
    これは、道を示す赤線ではなく、石高をまとめて記述する
元和絵図04
元和国絵図
   為に付けられた包括線であろう。(要注意)【参考4】
   依って、この絵図を根拠にするには、乏しい。
  2.元和三年(1617年)の摂津国絵図(尼崎教育委員会蔵)
   の道を見ると、
   神崎、高田村、倉橋村、長嶋村の南、廣芝村、は村、
   川の東側のたるミ村(ここで吹田街道と合流)、吹田村
   へと続く赤線が描かれている。
  (右図、左下から神崎川の北側に沿って右上角へ。
   吹田街道はその上、伊丹から原田、宮田、たるミ、
   へと続く。)
   これは、まさにこの道の表現であろう。
  3.正保国絵図(1644年)は、国会図書館に
   「江戸幕府撰国絵図の画像データベース
    正保国絵図編 : CD-ROM版研究成果報告」
   があるらしいが、未入手で検討出来ていない。
元禄絵図牛立
元禄国絵図
  4.元禄国絵図(1702年完)では、神崎の北、皮多村より
   戸ノ内村、庄本村、牛立村の南、長嶋村の南、広芝村から
   垂水村で吹田街道に合流する赤線が描かれている。
   元和の図と異なる点は、垂水村が一になっている、
   や牛立村を迂回している等あるが、ほぼ同じと見える。

    五畿内志の編纂は、1729年に始まったようで
   元禄国絵図が最も入手し易かったと思われるが、慶長図や
   元和三年摂津国絵図(尼崎教育委員会蔵)(一般公開
   されていない。)も使用した。
   (元禄絵図は、「国立公文書館デジタルアーカイブ」地域別の近畿、兵庫を参照。)
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6.津戸中道を実測した。
    上記の計測結果から津戸中道の複数候補を実測し
   それにより、経路を比定することとした。
       吹田部分は、出口町ー西の荘町ー元町ー高浜町ー南高浜町ー渡し北岸、
   ここから折返し、南高浜町ー高浜町ー昭和町ー片山町ー小路とした。
   この距離3.24kmとなり、「曲江説」の直行式、出口町ー片山町
   (府道14号沿い)の1.51kmより
   1.73km長くなる。
   (注3)
   摂津志記述の前半、五里十三町(21.05km)と
   後半の四里十五町(17.34km)を合計した38.39kmと
   実測値39.88kmの比率が1.03となり、誤差がより全体の
   平均に近づく。
   津戸中道後半部分(吹田ー芥川)も東五百住以後、高槻近辺で複数
   考えられるが、ここでは、
   「私説」高槻城西側経由としている。(注4)
注3)実測時に旧道が消えている場合。
  旧道の経路と現在の経路が異なっていても、ほぼ同じ距離であろうと推測できる場合は、
  実測値をそのまま用いる。
  鉄道、橋梁、工場、団地、等により、旧道が大きく途切れている部分は、直前迄測定し、
  旧道が再開する部分から再度測定を始めるか、迂回した距離を実測距離から減算した後、
  実測出来ない部分を、GoogleMap距離測定ツールで求め、その値を加算した。
  (注 Google* は Google Inc. の商標です。)
  旧道は「今昔マップon the web」の京阪神版より、明治41年測図を使い比定した。
  (注 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)の、
   京阪神版はこちら
  計測方法は、自転車用コンピュータによるもので、前輪の回転数をカウントして
  予め登録したタイヤ外周長(o単位)を掛けて算出するものです。
  空気圧が低くなると実測値が長くなる。
  駐車している車があると、迂回した分長くなる。
  意識しない蛇行分が長くなる。
  多く歩道を走る為、歩道の高低差を積算すると長くなる。
  道路の横断が距離を長くする。
  等、実距離よりは必ず長くなるものと想定される。
注4)津戸中道の東五百住から芥川(西国街道合流地点)に関しても経路が確定されておらず、
  中川町から上田辺町への最短経路が常識的であろう。
  又、高槻まちかど遺産に関連する地図等では、津之江町で芥川を越えた地点の庄所町より、
  「高槻街道」と呼ばれている道を東進し、高西(富田口)から城内を通り、大手前から、
  上田辺町、芥川町とする説もあるようだ。
  私説では、五畿内志の記述に「高槻」が書かれていないことを考慮し、城内は通らず、
  すぐ西側に添って北上し、上田辺町、芥川町とした。
   これに従うと0.95km長くなり、合計40.83km
  で、誤差+6%となり、より近くなる。
  その他、高槻街道の名称に拘り、城を東に迂回すると距離は伸び実測率に近づくが、
  かなり違和感が生じ、名称自体も明治以降の可能性も考えられ採用しなかった。
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 津戸中道実測図
   津戸中道実測図
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7.【出典等】
   地図部は「国土地理院ホームページより参照」し加筆している。
【参考1】
   五畿内志、下巻は、国会図書館の
   近代デジタルライブラリの、『五畿内志、下巻』76コマを参照。
【参考2】
   「津戸」の今の表記。   現在の町名として11町
  津門綾羽町、津門飯田町、津門稲荷町、津門大箇町、津門大塚町、津門川町、
  津門呉羽町、津門住江町、津門西口町、津門仁辺町、津門宝津町、
  がある。
  津門大箇町は慶長国絵図の於呉村に相当か?
【参考3】
   近世「中国街道」は、
  西宮本町より、阪神電車今津駅北側へ真っ直ぐ通じているが、
  古くは、東川の西、与古道町を北に進み、その後東へ折れて、
  津戸村のへ向かっていたようだ、津戸村では、村の中を通り
  上今津へとやや南下する道と、村の北部を東へ大箇村へ向かう
  道とがあった様に思える。
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【参考4】
   道帳について、川村博忠著作より。
  正保国絵図調進の折、大目付井上政重・宮城和甫から
  「国絵図可仕立覚」(二三ヶ条)(絵図作成基準書)が示され
  その中に、
  一、郷村、不落様ニ念を入、絵図幷帳ニ書付候事
  一、本道はふとく、わき道はほそく、朱ニていたすべき事
  一、船渡、歩渡、わたりのひろさ、絵図ニ書付候事

  等、絵図と郷帳の作成が指示されている。しかしこの時点
  では、道帳の作成は命じられていないようで、絵図内覧後
  に手直しが多く必要であったため道帳作成指示がされたと
  述べられている。
   わずかに現存する内の一部を挙げておくと、
  1.「越中国道程帳」金沢市立図書館、正保4年
  2.「備前国道筋幷灘道舟路帳」岡山大学図書館、正保4年
  3.「大筋道(奥州之内南部領海陸道規帳)」岩手県立図書館、
     慶安2年
  等があり、
  「大筋道(上記3)」の中では、
  『仙台境
   一、鬼柳より花巻迄 三里拾町四拾六間、
   此間に 和賀川広三拾六間、深五尺、船渡、
       豊沢川広拾間、深壱尺、歩行渡、
       右二ツ之川山川故少しの雨ニも俄ニ水出、船渡歩行不自由、』

  の様に書かれている。
   記述内容は、渡河方法・出水の時の状況・交通難所の山坂
  の道幅・船遠見番所等が詳細に書かれており、
  道帳とは、城絵図の注記及び国絵図中の道規を中心とし
  た注記からなる解説書である、としている。
  (福井敏隆「大道筋(奥州之内南部領海陸道規帳)」より)
   尚、この書では道の種類として、1大筋道、2小道幷山道、3横道
  があり、経由地を並べる方式ではなく、必ず2点の地名と距離
  を書き、川に至っては、幅一間(1.8m)、深さ五寸(15p)の
  ものまで書かれている。
   合計距離の書き方として、「大筋道」では
  『〆四十九里拾二町、
    但仙台境鬼柳より津軽境馬門二本満た迄道規也』

  の様に記述されている。
  摂津国のものは存在しないか。
※エクセルはマイクロソフト社の表計算ソフト
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