大返し君

少し調べ物をしたら、「歴史」の
   ツボに嵌ってしまった!!

大返し経路図 1.きっかけ       
2.秀吉の中国大返し 
3.国絵図を見る 
4.五畿内志を当る 
5.津戸中道が候補 
6.津戸中道説の援軍 
7.猪名川を渡る 
8.天候が気になる 
9.有岡城入城アリテ 
10.後顧の憂いを絶つ 
11.渡渉と渡河の後 
12.道標で裏付け? 
13.フロイスで裏付け 
14.中国大返し初出 
各図クリックで、拡大可能図は別フレームに表示。
【始に】
 ここでは、中国大返しを自分なりに調査した経緯と、結果の大略を書いています。
 詳細は目次の『3.中国大返し詳細』として別項にしていますが、この頁だけで全容は掴めると思います。
 では、
和暦変換図 1.きっかけ
   和暦から西暦を求めるツールを作りました。  和暦変換へ

  例題をいくつかのせるのですが、偶々(たまたま)「保元の乱」と
  「家康伊賀脱出」を選びました。
  「保元の乱」はスルスルと作成できたのですが、明智光秀が起こした
  「本能寺の変」のあと、家康が伊賀を通り駿河へ逃げる様子を例題にと
  考えたのが事の始まりでした。
  経路と日付が欲しいだけなのですが、裏付けに、自分で歩くとなった
  時に、現地への交通の便が非常に悪かったのです。
  そこで、代わりに「秀吉中国大返し」の阪神間部分を・・・と考えた。
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2.秀吉中国大返しを調べる。
西国街道案内板    手始めに、「大返し」の日付と経路が書かれている本を探したところ、
  『真説 本能寺の変』安部龍太郎・立花京子ほか、集英社発行、
  『証言 本能寺の変 史料で読む戦国史』藤田達生、八木書店発行、
  に行き当たりました。
  中を読みますと、高校で習ったような、何年何月何日に、何処で、
  誰が、どうした、等という確定した記述がないのです。
  戦国時代、たかが、今から400年前の有名な歴史事実が分かって
  いなかった事に驚きました。
   殊に、姫路のあと、兵庫、尼崎、富田に泊まった事だけで
  その経路は、詳らかにされていません。
   現在出版されている書籍等では、多く
  「尼崎から西国街道を通り富田へ」の様な表現がされており、
  関西人にとっては、尼崎、富田のどちらも、西国街道上には
  「そんなヤツおらんデ!」とツッコミを入れたくなります。
  これは、土地勘のない人が本を書いている為だろうと思い、
  「自分で調べるしかないな」と云うことで始めました。2012年12月頃です。
   さて、直接記述された史料が無ければ、推理するしか無いので、
  当時の道に関する情報を集める事にした。
  ここでは、尼崎から富田までを中心に調べた。
    中国大返し詳細へ
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慶長国絵図 3.国絵図を見る。
   戦国時代の道に関する史料は無く、最も近い年代の情報と
  して、『慶長国絵図』(慶長九(1604)年、本能寺の変から
  約20年後)を用い、村名と地図に描かれた、街道とされる
  赤い線を、明治時代に測量された地図の地名と道路に当ては
  め、更に現代の地図に比定し、行程を考察しようとした。
   が、『慶長国絵図』は一部の国のみ残り、手に入れること
  も難しかったので、『元禄国絵図』(変から約110年後)
  を代わりとすることにした。
      元禄国絵図詳細へ
  
   国絵図から、村の名称を抽出した資料は、下記参照。
  元禄国絵図村名一覧(googleスプレッドシート)
  元禄国絵図村名一覧(Excel)

     右図は、慶長国絵図の一部。

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  少し珍しい国絵図、尼崎市教育委員会収蔵の
元和国絵図 元和国絵図説明
    「元和三年(1617)頃の国絵図」
     伊丹、豊中、尼崎、辺り
  市教育委の解説(右図)では、「慶長の国絵図と村名が一致」とあります。
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摂津志 4.五畿内志を当る。
   又、絵図以外に『五畿内志』(変から約150年後)に街道に関する
  記述が有る事が判明し、手にすることができたので、これも調べた。
  是により、兵庫、尼崎、富田を結ぶ道の候補が洗い出すことが出来、
  『津戸中道』が浮かび上がった。
     五畿内志詳細へ

5.津戸中道が候補。
   『津戸中道』同定作業の一環として、『五畿内志』の記述の正確性
  を調べる為に、実測を行った。
  実測値から、距離記述が驚くべき精度であったこと。(400年も前
  だからかなりの誤差か?)
  いえ、明らかな記述誤りと思える部分を除き、10%以下の誤差であった。
     五畿内志街道一覧(PDF) 五畿内志街道一覧(Excel)
   
  その名称を裏付ける証拠を探して、現存する道標探しを行ったが、
  散々たる結果に終わったこと。(道標の項に)
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高槻まちかど遺産 6.『津戸中道』説の援軍。
   まずは「今津っこさん」の説をご覧ください。
    こちら『阪神間の街道 第2号』の2Pにあり。
    (”2”をクリックすると大きく別フレームに表示されます。)
   詳細は省きますが、「秀吉がこの道を通った」とされておられます。
   私が調べ始めて間もない頃に、この方の「今津歴史塾」に参加させて
   頂き、大変参考になりました。
    津戸中道の経由地についても、種々あるようですが
   私の意見ではこうなります。   津戸中道詳細へ
    又次に、富田での調査の折、道標の横に「高槻まちかど遺産」
   なる案内があり、その中に「秀吉は、尼崎道より、富田へ入った」
   との伝承がある、とあり、大いに勇気づけられたが、裏付けとなる
   明確な史料には辿りつけなかった。
         中国大返し富田の伝承詳細へ
    その他、「たかつき21」2014年7月号の『7月11日夜、
   秀吉は富田普門寺に居た!』の記事の中で、大返し工程の図に
   『編集室が「…かもしれない」と想像…』として、津戸ノ中道をあげている。
   但し、津戸中道は、「大教委説」を使用していそうだ。
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戸ノ内渡し図 7.猪名川を渡る。
   『津戸中道』を明治の地図で比定する内に、尼崎(大物)から東へ行く
  時、「藻川と猪名川の渡しが難所ではなかろうか?」との疑問が生じた。
  理由は、徒歩で川を越すことが不可能のように思えたからです。
  明治の地図で、今の場所(尼崎市高田町と戸ノ内町、現藻川橋下流)
  を想定し、訪ねてみると、案の定、藻川の深さは背丈を越えている。
  明治の地図では現在の川幅より狭い様に見えるが、東にワンド(湾処)
  も見えています。
  現に秀吉は、船による渡河が避けられなかったと思われる、岡山の吉井
  川では、部隊を二分する等して対応したと言われている。(武功夜話)
   猪名川については、現状では、川の付け替えで大きく変わっており
  排水路の様になっている、ので考慮は差し控えた。
   「津戸中道の猪名川渡し」
  尚、参考資料として「中国大返しの川と渡し」を添える。
  津戸中道以外の渡河地点の詳細は「伊丹近辺の猪名川の渡し」を参照。
  結果、渡河地点として、「伊丹(市場村)ー森本」を第一候補とした。
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増水時の藻川図 8.天候が気になる。
   更に、当時の天候を調べてみると、梅雨時であった上、20日連続
  の長雨があり、数日前には大雨もあったようである。
  言経卿記(京都)、多聞院日記(奈良)、家忠日記(愛知)等で推定。
  猪名川の流域に京都は含まれていないが、渡河地点からでも京都は北西
  に40qしか離れていず、京都の天候を用いても大きく違わないとした。
    天候PDFへ 天候(Excel)
  船渡しの可能性も見たが、徒渉が適当とし、可能な地点を検討した。
   下流については、1q下の「神崎の渡し」が舟渡しと明確になって
  いるので、舟渡をさけるという条件では、無いとし、上流へ探した。
  (写真の量水標(水深計)は、上記地図の渡し推定経路の約500m
   下流にあり、現在でも、干満の影響を受ける位置のようです。
   又、ここより下流は、神崎川も合流し更に深くなると思われる。)
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宇野主水日記有岡城 9.「有岡城入城アリテ」を見つける。
   その様な折、ナント「宇野主水日記」に、
  「天正十年六月三日五時分… 其後播州より羽柴摂州有岡城入城アリテ
  ソレヨリ三七殿一味ニ、山崎表へ打上り、…」
  とある事が判り、尼崎(大物)より有岡城(伊丹)へ向かう道を検討した。
 注)宇野主水は、本願寺顕如の右筆で、大坂に居たこともあり、有岡城を尼崎
  と取り違えることはないであろう。
 注)六月三日とあるは、伝え聞いた日を示し、入城した日ではではない。
  「宇野主水日記」は「石山本願寺日記・下巻」上松寅三編清文堂出版に収録。

  宇野主水日記詳細へ

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荒木村重籠城 10.後顧の憂いを絶つ。
   推論した行程の一部をここに挙げると、伊丹、茨木、高槻となる。
  そこに有るのは、有岡城(池田氏)、茨木城(中川氏)、高槻城(高山氏)
  何と、変の直後旗色を決めかねていた、摂津の諸将の拠点を全て通過する。
  特に、伊丹は、3年前に荒木村重が信長に反乱した根拠地でもあり、当時も
  一揆の発生する余地が十分にある土地であった。
   それら一味が一揆の機会をうかがっている時、大軍を通過させ、威容を見せ
  つけたなら、「背後からの反乱」を防ぐ大きな効果を生むに違いない。
   渡渉の容易性と、一揆抑止効果を持つ経路と、単に距離を稼ぐだけの経路
  を天秤にかけると、前者が選ばれることは必然である。
  詳細は、「秀吉の中国大返し」の【示威行動】の項へ
  右図は、伊丹市教育委員会発行の「有岡城と荒木村重」パンフレットより。
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元禄国絵図伊丹部分 11.渡渉と、渡河の後。
   増水時にも徒による渡河が可能な地点として、猪名川が藻川と
  分流する地点辺りが、見いだせた。
  (尚この地点の西岸には、「東有岡」なる町名が今も残る。)
  尚、これより上流に向かうと、富田へは、西国街道の方が近くなるが、
  津戸中道に戻ったとする。
  (吹田、茨木を通りたいから、上記10参照)
  伊丹から津戸中道へ復帰する地点は、吹田の手前、出口村と想定した。
  伊丹を経由する行程では、津戸中道直行より約8km長くなる。
  詳細は、「秀吉の中国大返し」の猪名川渡河後の項へ
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昌林寺道標 12.道標で裏付け?
  津戸中道同定の作業として、「津戸」や「中道」なる名称が、書かれていないかを調べた。
 調査の範囲は、西は西国街道の須磨浦から、東は山崎迄、北は高槻市芥川、茨木市安威から
 南は尼崎市大物、大阪市十三迄のうち、平野部のみです。
 (2021年4月現在「神戸市北区西部と大阪市内の学校と一部施設」を除き「摂津国全域」に拡大。)
 【結果】
  「津門村」が1件のみ見つかったが、道の名称を示すものでは無く、「松原山昌林寺」の場所を
 示しているようで、「津戸中道」を証するものは無かった。
 建立は、嘉永二年八月とあり、西暦1849年9月である。
  老婆心ですが、道標に彫られている文字の読み方等について、既に、種々権威ある資料が出て
 いるが、間違いもある様に思う。
 鵜のみにすることなく、興味のある方は是非自分で確かめられる事をお勧めします。
 私なりの資料は、写真を除いて、市町単位に別途掲げておきます。
 此の資料には、2014年1月〜2021年4月、時点での設置場所を住所と共に経緯度も載せ
 ています。
 (2023年1月現在「摂津国全域」が終わり、未調査部「丁石や大阪市内の学校と一部施設」等を追加中。)
 『摂津の国の道標(阪神間の道標)』下記のサマリーへ
  西宮市へ
  尼崎市へ
  伊丹市へ
  川西市へ
  宝塚市へ
  豊中市へ
  池田市へ
  箕面市へ
  吹田市へ
  茨木市へ
  高槻市へ
  豊能町へ
  島本町へ
  能勢町へ
  猪名川町へ
  三田市へ
  神戸市北区東部へ
  神戸市北区南部へ
  神戸市へ
  大阪市(堺市一部含む)へ
  摂津市へ
  神南邊の石造物へ
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フロイス像
     フロイス像
  「週刊マンガ日本史」参照
13.フロイス日本史で押さえておきたい点。
 ・市中の混乱振り
  一揆(追剥、盗賊が本来かもしれない)の起きうる状況が理解できる。
 ・諸将の旗色が不明
  旗色が決まらないと云うことは、敵味方どちらにも成りうる危うさを含む。
 ・一揆の跳梁
  摂津、近江だけでなく、美濃や尾張の諸国まで混沌としている状況。
 ・摂津の状況
  特に、明智が、高山右近は味方につくであろう等の、判断と施策の誤り。
 ・秀吉の大返し
  明智討伐の意思決定。
 ・合戦直前の明智や秀吉の状況
  同じ宗教の高山に肩入れし過ぎているが、秀吉の軍が遅れている様子。
 ・初戦の折
  池田、中川勢も先陣となっていた。秀吉軍は、まだ後方にいた。
 ・勝利の日時
  戦闘の日が、旧暦6月13日がグレゴリオ暦7月12日月曜であり、
  昼には決着がついていた事。
  「フロイス日本史」の詳細へ
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大返し初出
大返し初出「武功夜話」
14.中国大返し初出。
   よく聞く「これが世に言う『中国大返し』である。」とか、「これが『備中大返し』の始まり」
  とか書かれたりしているが、いったい
  「中国大返し」とは誰が言い始めたのか。
  今回の調べの中で、一番古いと思われる資料は「武功夜話」であった。
  「天正十年六月十一日、羽柴筑前守尼ヶ崎に着陣の事」に
  「…二つ目は備中返し、…」とある。
  右図、赤線部分参照。   詳細は、こちら大返し初出へ。
  (大層な見出しですが、信憑性は??です。)
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