史料としては、価値がないかもしれないが参考として2、3挙げておきたい。
1.行程に関するもので、
「高槻まちかど遺産」普門寺前の道標と尼崎道より
『江戸後期の天保4年(1833)に
建立された道標です。高槻城下
と富田、茨木を結ぶ「富田街
道」が折れる普門寺前の辻に立
ち、各方面とともに、総持寺、
能勢妙見山、神峯山寺への案
内も兼ねています。
この辻をまっすぐ南へ下がると「大坂道」。途中西へ曲がると、西
富田の集落を抜け「尼崎道」となります。天正10年(1582)の山
崎合戦前日、尼崎から進軍した羽柴秀吉の軍勢は、一旦富田に
着陣しました。詳細な行軍ルートや着陣地は不明ですが、地元
では尼崎道から富田に入ったともいわれています。
平成26年3月 高槻市教育委員会』
とあります。
市教に問い合わせたところ、史料はなく、地元の人の話として採取
されたとの事。

きつつき21 2014年7月号より
2.
出典は明らかでないが、関係のありそうな資料を
のせておきます。
・高槻市で得た史料。
当時の富田の様子や
普門寺での軍議、
織田信孝の淀川渡河
特に、富田から高槻への移動経路を
「秀吉が通った…かも知れない道」として
津戸中道をあげ、コース散策記事もある
など、興味ある文章が載っています。
今少し、出典等詳しければよいのですが。

茨木市史編纂室だより 平成12年1月15日より
3.
・茨木市で得た史料。
こちらも、「…かもしれない」話として
茨木市の市史編纂室が「編纂室だより」に
載せた資料の複写物です。
尼崎−高槻を結ぶ「津戸中道」を通った
かもしれないとして、
現在の市の中心部を通る旧道に比定し、
移動経路を図示しています。
4.摂州勢力が秀吉の味方につくかどうかに関する資料。
「高槻物語」上、宇津木秀甫より
昔話「大山崎天王山の決戦裏話」に

山崎合戦陣図
「図説戦国合戦地図集」学研、参考
GoogleMap地形図参照
『昔大山崎天王山の合戦で豊臣秀吉がアッとゆうまに明智光秀の軍を破って勝利
の運をつかんだとゆうことになってるけど裏話があるのや、秀吉はらくらくと勝
てるとおもてなんだ、…
秀吉の腹では先陣やゆうて山崎に向いよった高槻の高山右近と茨木の中川清兵
衛がほんまに秀吉の軍につくんか明智の軍につきよるかわからなんだ。
そのうち情報がきた、高山右近の軍からや
まっさきに山崎の関を押さえた。
吉報やのに聞いた秀吉がよろこべなんだ
高山軍と中川軍は山崎の関をおさえたことはおさえたけどすぐに
関の門をしめてしまいよったとゆう別の方からの報告が秀吉にはいったんや
それではあとにつづく秀吉の本体が山崎にはいれんよおになる。
…
高山右近と中川清兵衛が山崎の門をしめきって秀吉の軍を山崎に入れんよお
にしたのは、明智軍を山崎に入れてそれと合流をして寝がえりをうって秀吉
の本陣に攻めてきよるかもしれん、そう考えた
そうなると高槻城にも秀吉軍に攻撃をかける兵隊がちゃんとかくしてあるか
もわからん秀吉は自分の軍勢がまだ西から西国街道を走ってくる最中でしんがり
は尼崎にまだ居るとゆう情報。…』
とあり、
この様な話が受け入れられる素地として、摂津衆の動向が不安定であった事の
証明ともなるでしょう。
摂津の三将は、数年前の「荒木村重の謀反」の折、信長に敵対した事実がある。
又、ここで出てくる「しんがり(殿)が尼崎に居り、西国街道を走ってくる」の件は、
高松城退陣の折の殿軍の木下小一郎(羽柴秀長)が、尼崎に留まっているので
はなく、遅れた兵が少なからずいたことを表している様だが、秀吉自身は、軍議の為
に尼崎に入ることが必須であったが、もし遅れた兵が、距離を詰める為に、尼崎を経
由することなく、兵庫、或は西宮から、西国街道(最短)を直進する様な事があった
のかも知れない。
一万人が2列縦隊で2m間隔で行軍すると、隊列は10qになるとの試算もある。
尚、「高槻物語」上、宇津木秀甫は、茨木市の図書館で見ることが出来ます。
5.後世の作り話の件で、伝承等に注意がいる資料として。
上記「高槻物語」に作者のメモとして、
「天王山の合戦では…
ところで、秀吉軍の一隊が通り抜けたというインチキ説をでっちあげて、
ハイキングコース「太閤道」を作り上げたのは、戦後のことです。
阪急電鉄の沿線ハイキングコース作成メンバーと、若山神社の今は亡き宮司さんでした。
ご本人から伺っているから間違いありません。
すばらしいハイキングコースです。名称は改めるべきです。」
とある。
この様に、現在では、多くの人が、「山崎の合戦で 秀吉の軍勢が越えたと言われる山道」
と認識している如く、宣伝の仕方等により、あたかも事実の様に捉えられてしまう事に
注意が必要であることの実証例として重要である。
2015年現在の高槻市のホームページにさえ「ハイキングコースご案内」としつつも
「太閤道コース」として明記されています。
この地図を見る限り山崎の合戦とは無縁である。
高槻市ホームページへのリンクはこちら 
その後、「目的別・場面別メニュー」→「余暇と生涯学習」→「散策やスポーツ」→
「ハイキングコースのご案内」
とたどってください。
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