巻之一《鳥羽院崩御の事》
はじめに、年号のわかる記述を探すと、
「明くる四月二七日改元あって保元とぞ申しける。
七月二日終に一の院隠れさせ給ひぬ。」
とあり、保元であることがわかる。
《新院御謀反の事》
「保元元年七月三日下野守義朝に仰せて、…」
この辺りから、事が起こり始め、
《新院御所各門固軍評定の事》
左府(頼長)の問いに、為朝が答えて
「『…或は城を攻めて敵を亡すにも、皆利を得ること夜討に如くこと侍らず。…』
『未だ天の明けざらん前に勝負を決せん條何の疑か候ふべき』」
《主上三條殿行幸附官軍勢ぞろへの事》
天皇が信西入道に問わせ、義朝申しけるは、
「『…即時に敵を従え、立所に利を得る事、夜討に過ぎたる事候はず。…』」
と答え、これにより、
「十一日寅の刻、官軍既に院の御所へ押し寄す。」
とあるように、夜討を先に仕掛けるのかがポイントになったようです。
しかし、この後の記述で「本当に夜討であったのか?」と疑問が生じた。
《白河殿を攻め落す事》
「さる程に夜も漸く明け行くに、…」とあれば、薄明の頃か。
義朝の使者を内裏へまいらせ「『夜中に勝負を決せんと、揉みに揉うで攻め候へども、…
今は火を懸けざらん外は…』」とあるのは、やはり夜中である事を現している。
《朝敵の宿所焼き払う事》
「さる程に七月十一日寅の刻に合戦始り、辰の時に白河殿破れて、…」
「未の刻に義朝清盛内裏へ帰り参ってこの由を奏聞す。」
「…申の刻に宇治橋の守護の為に周防判官季実を差し遣はさる。」
とあり、初めて時間が分る記述が出てくるのだが、寅の刻に始まった合戦で辰の時に終わる間に、
名乗り合いや、為朝の矢を射る場面が矛盾しないか?等も調べてみたいと思った。
《関白殿本官に帰復の事》
「同じき十一日夜に入って関白殿、本の如く氏の長者にならせ給ふ。」
「子の刻ばかりに及んで武士の勧賞行わる。」
和暦 月 日 時刻 | 西暦 年/月/日 時刻 | 出来事/事象 等 |
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四月二十七日 | 1156/5/25 | 改元 |
七月 二日 | 1156/7/27 | 一の院隠れ |
七月 十一日 寅の刻 | 1156/8/ 5 3:00 | 合戦始り(本の注釈では4:00) |
七月 十一日 夜中なれば | 1156/8/ 5 | 為朝の矢で景綱の子二人が死傷 |
七月 十一日 夜明けて後 | 1156/8/ 5 | 伊行も為朝に射落とされる(仮定なので日出前) |
七月 十一日 日出 | 1156/8/ 5 4:39 | 日出 |
七月 十一日 夜も漸く明 | 1156/8/ 5 | 三條院に火を懸け |
七月 十一日 辰の刻 | 1156/8/ 5 7:00 | 白河殿破れる(本の注釈では8:00) |
七月 十一日 未の刻 | 1156/8/ 5 13:00 | 義朝内裏へ帰着 |
七月 十一日 申の刻 | 1156/8/ 5 15:00 | 季実を宇治橋守護 |
七月 十一日 日の入り | 1156/8/ 5 19:08 | 日没 |
七月 十一日 夜に入って | 1156/8/ 5 | 関白忠通本復 |
七月 十一日 子の刻 | 1156/8/ 5 23:00 | 武士の勧賞、清盛は播磨守に |
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