7/10 保元物語 より
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保元物語新訳 吉村重徳 大同館書店(青字「…」部分)から、日時に関する記述(赤字)を見つけ、
抜き出して、当ツールを使用した結果をにまとめてみた。
 尚、《…》は段落見出しを示す。

 巻之一《鳥羽院崩御の事》
はじめに、年号のわかる記述を探すと、
「明くる四月二七日改元あって保元とぞ申しける。
七月二日終に一の院隠れさせ給ひぬ。」

とあり、保元であることがわかる。

 《新院御謀反の事》
保元元年七月三日下野守義朝に仰せて、…」
この辺りから、事が起こり始め、

 《新院御所各門固軍評定の事》
左府(頼長)の問いに、為朝が答えて
「『…或は城を攻めて敵を亡すにも、皆利を得ること夜討に如くこと侍らず。…』
『未だ天の明けざらん前に勝負を決せん條何の疑か候ふべき』」

《主上三條殿行幸附官軍勢ぞろへの事》
天皇が信西入道に問わせ、義朝申しけるは、
「『…即時に敵を従え、立所に利を得る事、夜討に過ぎたる事候はず。…』」
と答え、これにより、
十一日寅の刻、官軍既に院の御所へ押し寄す。」
とあるように、夜討を先に仕掛けるのかがポイントになったようです。
しかし、この後の記述で「本当に夜討であったのか?」と疑問が生じた。

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 巻之二《義朝白河殿夜討の事》
院側の頼賢と、天皇方の瀧口俊綱との対決の記述で
「川越に、矢二つ放つ。夜中なれば誰とは知らず、…」とある、
が又、天皇方清盛の郎等景綱と院側(鎮西八郎)為朝とが名乗り合いの後、為朝の射た矢が
景綱の子二人を死傷させたともある。
この様を見て、清盛は別の門へ向かおうとする時、これまた郎等の伊行が腑甲斐なく思い
夜明けて後に傍輩の、八郎のいで矢目見んといはんには、何とかその時答ふべき。』
とも書かれているのを見ると、物語とはいへ、夜明け前であったと思われる。
しかしこの後、為朝と、伊行の対戦の記述には、『鎮西八郎此にあり』と名乗り、伊行に射掛けさせた後、
二の矢を番えている所を為朝が射落とすと、目視可能と思える光景も描かれている。
尚、本文中には、松明やかがり火を焚く等の記述は見当たらない。

 《白河殿を攻め落す事》
「さる程に夜も漸く明け行くに、…」とあれば、薄明の頃か。
義朝の使者を内裏へまいらせ「『夜中に勝負を決せんと、揉みに揉うで攻め候へども、…
今は火を懸けざらん外は…』」
とあるのは、やはり夜中である事を現している。

 《朝敵の宿所焼き払う事》
「さる程に七月十一日寅の刻に合戦始り、辰の時に白河殿破れて、…」
未の刻に義朝清盛内裏へ帰り参ってこの由を奏聞す。」
「…申の刻に宇治橋の守護の為に周防判官季実を差し遣はさる。」
とあり、初めて時間が分る記述が出てくるのだが、寅の刻に始まった合戦で辰の時に終わる間に、
名乗り合いや、為朝の矢を射る場面が矛盾しないか?等も調べてみたいと思った。

 《関白殿本官に帰復の事》
「同じき十一日夜に入って関白殿、本の如く氏の長者にならせ給ふ。」
子の刻ばかりに及んで武士の勧賞行わる。」

下の表を見ると、夜討ちといえども、日の出も近い頃のようで、特に「見てきたような嘘を言い」でもなさそうである。
又、本の解説のように「寅の刻」=4:00としたなら、一層よく見えそうである。
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  保元元年 和暦→西暦変換 表
和暦 月 日   時刻 西暦 年/月/日  時刻 出来事/事象 等
四月二十七日      1156/5/25      改元
七月  二日      1156/7/27      一の院隠れ
七月 十一日   寅の刻1156/8/ 5  3:00合戦始り(本の注釈では4:00)
七月 十一日 夜中なれば1156/8/ 5      為朝の矢で景綱の子二人が死傷
七月 十一日 夜明けて後1156/8/ 5      伊行も為朝に射落とされる(仮定なので日出前)
七月 十一日    日出1156/8/ 5  4:39日出
七月 十一日 夜も漸く明1156/8/ 5      三條院に火を懸け
七月 十一日   辰の刻1156/8/ 5  7:00白河殿破れる(本の注釈では8:00)
七月 十一日   未の刻1156/8/ 5 13:00義朝内裏へ帰着
七月 十一日   申の刻1156/8/ 5 15:00季実を宇治橋守護
七月 十一日  日の入り1156/8/ 5 19:08日没
七月 十一日 夜に入って1156/8/ 5      関白忠通本復
七月 十一日   子の刻1156/8/ 5 23:00武士の勧賞、清盛は播磨守に
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 保元元年(1年)7月11日、寅の三刻 を変換中の図。

 当ツールでは、子の刻の始まりを23:00としています。
 よって、よく言われる「草木も眠る丑三つ時」が2:00に一致します。
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●関連する場所を地図に表示してみました。
 天皇方、上皇側でマーカの色を分けるとか、
 「清盛」の位置を、時系列的に作成する等し
 表示させると面白いかもしれません。

 図をクリックするか、又はここ をクリックすると、別フレームに拡大表示されます。

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