24.宝塚市中山寺山門西の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
宝塚市中山寺2丁目6の中山寺山門の西20m、道の南側に遥拝所がありその北西部に東を正面に建つ
山形角柱 82x東面25x15p(頂高6p)(台石16x43x35p)
N34.819979 E135.367981


写真cimg1487

写真dimg1528

写真dimg1531

写真dimg1526

東面
┌─――――――――――――――┐
│  寶 塚          │
│左     道        │
│  清荒神          │
└―――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――┐
│   大阪港區南安治川二丁目 │
│施主             │
│    中村重三(郎)    │
└―――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(( )部は『たからづかの道標』より)
(『たからづかの道標』(昭和61年刊)53では、
 「大阪港区」と表していることから、比較的新しい」とある。
 港区誕生は、1925(大正14)年とあるのでそれ以降。
 (大阪市港区のホームページより))
(「左宝塚清荒神」とあるので、元は南面していたものと思われる。
 又『たからづかの道標』の写真では、「左寶塚…」の面の左に道路が写っており、
 現在2016年とは明らかに異なるので移設されたことは間違いない。)
(蛇足ですが、Webを検索すると、『近代歌舞伎年表京都篇』国立劇場編集の中に、
 大正12年12月1日から16日、南座、ひるの部、【第二】安宅関、第二幕、第三、
 芹生の里寺子屋の場、〔長唄〕中村重三郎がヒットした。何か関係があるのか。)
(同名『たからづかの道標』昭和50年発行(上記旧版か)39では施主の名前は
 「中村重吉郎」としている。)

写真dimg1532
【1.巡礼道より南西を望む
 中山寺山門はこの東】

写真dimg0759
【2.宝塚東部の道標(明治44年)】

【追記 2023年9月】
 『たからづかの道標』の写真の後ろに、調査漏れの道標があり今回追加する事に
 しましたが、その写真からは、当道標がその道標の前に置かれていたと受取れる。
 抜けていた「宝塚市立中山寺会館西の道標」(自然石型)は、中山寺山門前から
 40m程西で、巡礼道から鋭角に右へ市杵島姫神社に向かう道が分岐している、Y
 字型辻の正面に立っています。
 清荒神に向う「巡礼道」は左側(南)になるので、これを案内している。
  依って、この道標も元から東面して立ちY字路の左側になる巡礼道を案内して
 いたとします。当然清荒神、宝塚に続く道です。
  上記「南面…」は無かったことにして下さい。
  尚、当道標が現在地点に移設されたのは、阪神大震災の復旧時にトラックが当
 たり折れた為であると、お聞きした。1995年以降となるであろう。
【参考】
 「宝塚」の呼称は現在は広く知れ渡っており、何処を指すかとなれば、JR宝塚駅、
 阪急宝塚駅、宝塚歌劇場、宝塚温泉等が思い浮かぶも、近世に有っては「宝塚村」
 は存在せず(当然、町、郷、も無い)、1951(昭和26)年〜1954年にかけて近隣の
 合併問題で紛糾する中、小浜村がこれを改め「宝塚町」と称し、良元村と合併後
 「宝塚市」となったようで、この道標が指す「寶塚」は場所が不明である。
  国会図書館デジタルコレクション「摂陽群談巻第九」塚の部岡田溪志、元禄14(1701)年、
 「寶塚」に「同郡米谷村にあり。此塚の許に於て物を拾ふ者、必幸あり。是を以
 て、寶塚と號るの所傳たり。」とあるが、現米谷辺りに宝塚を示すものはない。
  又、wikiに「宝塚駅」を「明治30(1897)年12月27日、阪鶴鉄道の終着駅として
 開業」とするので、これ以降なら、現JR宝塚駅を指すとしても良い。
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ