10.高槻市古曽部町2の能因法師墳への道標

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高槻市古曽部町2丁目9 東西の西国街道に南北の道が交差する四辻の南東部に北を正面に建つ
自然石 99x北面45x30p
N34.85635 E135.6244


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北面
┌―――――――――――――――┐
│能因法師墳          │
│  従是北方三町餘      │
└―――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――┐
│志幾嶋のふ可起をしへ乃    │
│跡とへは此渉るふし能     │
│道よりそいる         │
└―――――――――――――――┘
(「志、幾、可、起」等変体仮名であろう)

南西面
┌―――――――――――――――┐
│元治元年甲子五月再建     │
│      中井清五郎    │
│      五十嵐信平    │
│      脇田忠兵衛    │
└―――――――――――――――┘


(元治元(甲子)年五月1日なら、西暦1864年6月4日、土曜日となる。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、18)
(明治の地図では、この近辺より法師墳(墓)へは、この辻か、一つ東の「別所新町1の道標」がある辻の二点しか見
 当たらない。この辻から北に最短ルートを採っても、450m(4丁)となり、「三町餘」が合わないが、東の辻から
 ではここより遠くなる。よってこの辻にあったものとして良いと思う。
  上部から見ると三角形をしており、現南面が北面して置かれていたとするのが自然で、当時三ツ辻と思われ、その
 北東部に設置すると、歌の部分が道に面して良く見えたと思う。依って近接移設で、元は道の北側としたい。)
(同書に、古曽部焼窯元三代の「五十嵐信平」とある。『茨木市史第二巻』から補足すると、初代の信平が窯を開く時
 の古文書が今に残り、文政十二(1829)年五月に80歳で没、二代目が嘉永四(1851)年七月に61歳で没、この
 三代目が明治十五(1882)年に亡くなっているようで、40歳の時にこの道標を建てたことになる。
 俳諧を良くし、書家寺西西易堂に書を学び、句会、茶会を盛んに催したらしく、この碑を建てるに相応しい人であっ
 たと思われる。とすれば、他の二人の職業は知れないが、この筆跡も五十嵐信平さんの手になるものかも知れない。)
(東面の歌の意味であるが、先ず読み下し「敷島の深き教えの跡訪えばここ渡るふしの道よりぞ入る」あたりとして、
 意味は「我が国の深き教えの跡、即ち、能因法師の墓を訪問するのであれば、今歩いている、伏見街道のここから、
 入ってゆく」
 或いは、「ふし能道」を「伏の道」=伏見街道とせず、「芝(ふし)の道」=野道とし、「渡っている(歩いている)
 ここから、野道に分け入る」としても、何れも道案内であり、本街道から、分岐する事を示すものであろう。
 (参考、『近畿地方の歴史の道2』では、「ふじの道」とあり、「不時の道」なら、一時の道で、仮道の意か?)
  尚、この歌を「新古今和歌集」からとするものがある様だが、『新古今和歌集詳解、塩井正男著』には、「しきし
 ま」で始まる歌は、見つからず、「五十嵐信平」が創ったものではないかと思う。)
(再建に関しては、知見なく、旧道標が無くなったものか、処分したものか、元位置や案内も分からないが、ここより
 北400m辺りに現在も残る「能因法師塚案内の石碑」(指差し像から明治期のものか)が参考になるかも知れない。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 奥(東)京へ  奥(北)法師墳へ  奥(西)芥川へ
 左、古曽部町へ】  左右は西国街道】  右、古曽部へ】

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【4.道標を南に望む 【5.道標北面を上より望む 【6.道標南面下部
 元は180度回転し  左90度の歌碑の面  「…北方三町餘」と
 道北側に有ったか】  背面紀年等の三面で成る】  あるが実は四丁程】

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【7.道標南西面拡大 【8.道標南西面拡大 【9.道標から北400mの
 「再建、五十嵐信平」  「しきしまの…」  「法師塚案内の石碑」
 等が読める】  と読め分岐の案内か】  奥に突き抜けると塚】

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【10.高槻南部の道標】
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