11.高槻市別所新町1の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
高槻市別所新町1−26 東西の西国街道に南北の道が交差する四辻の北東部に南を正面に建つ
蒲鉾型角柱 143x南面34x18p(頂高7p)
N34.856639 E135.625198


写真eimg6662

写真eimg6661

写真eimg6660

写真eimg6663

北面
┌―――――――――――――――――――┐
│    従是四丁北          │
│花之井                │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――――┐
│     阿し曳の山志多水尓影見れハ │
│能因法師               │
│     眉志路多へ耳我老尓介李   │
└―――――――――――――――――――┘
(「あしびきの 山下水に 影見れば
  眉しろたへに 我老にけり」と思う)

南面
┌―――――――――――――――――――┐
│            (村田静倹建)│
│(舊記別所村寶和泉寺に有)      │
│            (元部牛後書)│
└―――――――――――――――――――┘
(( )部は『高槻の道しるべ』より。碑面の写真付)

東面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘


(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、19)
(現在ある花の井(山下水)から、当道標までは、明治の地図で見ても、現在の道と同じと思われ、490m程度になる。
 即ち5丁となり約1丁少ない。一つ西の「古曽部町2の能因法師墳への道標」でも実距離4丁を
 3丁と表現しており、この近辺では1丁少なく案内するのが常であったものか、現在地が間違っているのか。
  しかし、明治の地図で途中に辻が見えない事を考えると、元々この場所にあったと思われるが、180度回転させら
 れているのは自明の様に思う。そうなれば、歌が見える、現西面が東面となるように、辻の北西部に置かれていたと
 したい。
  尚、この歌は、『新古今和歌集詳解、塩井正男著』の、「巻十八」「雑歌」の中に有り、手に掬い取った水に映る
 己の顔を見て、年老いたことを驚く歌と解説されている。)
(参考として国立国会図書館デジタルアーカイブの『攝津名所圖會』.[6]のコマ番号47 から後ろ「古曽部能因法師墳」
 の絵図中に当辻と思われる地点が描かれており、北東部のちょっとした盛り土の上に、道標様(コマ番号48 右下)
 のものが描かれており、もしこれが当道標なら、現北面が東面していたと思われ、寛政十(1798)年には既に建っ
 ていたことになるが。)

写真eimg6656 写真eimg6657 写真eimg6659
【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 奥(東)京へ  奥(北)花の井へ  奥(西)芥川へ
 左、別所本町へ】  左右は西国街道】  右、別所本町へ】

写真eimg6664 写真eimg6671 写真eimg6670
【4.道標南面上部 【5.道標北面上部 【6.道標北面下部
 砂岩の為か剥落  かろうじて「花の井」  「従是四丁北」
 兎に角読めない】  と読めるか】  この部分は残る】

写真eimg7633
【7.現在の花の井
 別所本町1】

写真eimg6742
【8.高槻南部の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ