23.高槻市富田町5大正の道標

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高槻市富田町5−4 富田集落の北部の東西の道と、南から北JR富田駅への道の、四辻の南東部に北を正面に建つ
(東西の道は、東は京道、西は総持寺道と呼ぶかもしれない)
尖頭型角柱 105x北面23.5x25p(頂高7p)
N34.83269 E135.59499


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西面
┌―――――――――――――――┐
│左 富田東口         │
└―――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――┐
│からさき           │
│     みち        │
│ひらかた           │
└―――――――――――――――┘

南面
┌―――――――――――――――┐
│大正六年四月開通       │
└―――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――┐
│    住田富三郎      │
│發起人 山城亀吉       │
│    好田太一郎      │
└―――――――――――――――┘


(南面の大正六年開通とは、道か、鉄道かのどちらであろうか。JRの開通は明治9(1876)年とされ、高槻市のHP
 に「富田停車場開設」は大正13年(1924)7月25日、阪急が昭和3年1月、とあり、鉄道ではなさそうである。
  明治の地図で当地を見ると、東西の道から南へ分かれる三叉路であったようだが、昭和4年修正の地図では北へ通
 じる四辻に描かれており、新道の開通ではないかと思われるが、南へは旧道が新道に変わった形跡はなく、「建之」
 と同等かもしれない。)
(西面の「左 富田東口」であるが、上記で鉄道とは関係無しとしたので地名とする。江戸時代には東岡宿には東口だ
 けが無く、この辻の北東部に東岡町がありこれを示したものか、西富田集落の東町を指したものか、或いは大正時代
 には「東口」なる字が存在したものか、等考えられるが不明である。)
(北面に書かれている地名は、唐崎、枚方は疑いのないところであり、方向を指示する書き込みがない為、南の方を指
 すものと思われる。
 前述の昭和の地図で見ると、「富田町6の道標」迄南下し、少し西に折れた後、再び南下し鮎川に出た後、東に折れ
 て、唐崎、枚方を目指すと考えられ、当道標の建つ四辻を東に唐崎を目指すより遠くなるのが気にかかる。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を北に望む
 左、阪急富田駅へ  奥(南)鮎川への  奥、阪急富田駅へ
 右(南)鮎川へ】  旧道は公園を直進】  左(西)総持寺へ】

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【4.道標西面拡大 【5.道標南面拡大 【6.道標北面拡大
 「左富田東口」  下部の「開通」は  「からさき」
 東口はどこか】  北への道の開通か】  「ひらかた」は南へか】

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【7.高槻南部の道標】
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