大阪市北区中津7丁目 国道176号十三大橋南詰の南西部、淀川左岸(南側)堤防上に北東を正面に建つ
常夜灯風 竿部255x45x45p(指差像12x29x1.5p)台石上54x100x98p(指差像12x30x3p)台石中56x158x153p、台石下46x197x196p
N34.71143 E135.488097




竿部北東面 三段目台石
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┌─―――――――――――――┐│(左指 │
│ 池田 四里 ││ 差像)│
│東 往来安全(右指差像) ││ 高麗橋 │
│ 伊丹 二里半││ 一里 │
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(右指差は北西、左指差は南西を示す)
北西面
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│北(省略) │
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南西面
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│西 大正九季庚申三月建之(省略) │
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南東面
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│ 十三橋 右長柄二十町 │
│南 親友會 │
│ 南詰町 左傳法壱里 │
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(大正九年は、1920年となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、176)
(同書に十三大橋の建設が明治11年とあり、それから大分後に建てた事になる。通常なら建設と同時に建てると思
うが、これを立てた時代背景を感じる気がする。)
(当時淀川も道路状況もほぼ現状に近いと思われ移設は無いと思う。)
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【1.道標を北に望む |
【2.道標を北に望む |
【3.道標を西に望む |
右側十三大橋 |
右面に「南」とある |
右側が国道に面する |
川向う、十三】 |
左面は発起人名前】 |
左右は堤防上道を示す】 |
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【4.道標北東面竿部下 |
【5.道標台石北東面拡大 |
【6.道標北西面下部 |
「池田四里」 |
「高麗橋」市内の起点 |
「…南水…書」印・印 |
「伊丹二里半」】 |
「一里」は約4km】 |
「百斉野印」「南水」】 |
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【7.大阪市福島区の道標】 |
【省略部詳細】
(北西面)
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明治十八年淀川の堤防決壊して大水氾濫ありてより同川改修の議起り其廿九年大土功を開始し同三十二年十三町民
家立退を命せられ同卅五年十三橋完成す其川幅元一百間なりしを三百八十五間餘尓改て令られてして同四十二年六月本川改修の竣
功式を毛馬閘門に挙らる茲に本家町の親友會諸氏等相謀りシ道標を遣立し燈を設けやり置往来を安全ならしむ予俳得を
賦して頌耳代鶴翁云
浪花南水讀斎書 印 印
燈雲乃花野こし遍尓照し多李
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(南西面下部)
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吉川卯之助 土田安治郎
發 会長 中山仲吉 深森治良吉
深谷熊吉 幹 村瀬為吉 高津松太郎
起 山脇秀太郎 三浦紋次郎
福会長 事 前田甚吉 田中孫三郎
人 田邊芳松 井元虎蔵 長突銀蔵
横江浅吉 岸田勝治郎
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【参考】
北西面「浪花南水」は大阪歴史博物館の特集展示で「生田南水(いくたなんすい)1860〜1934、名は宜人(よひと)、
別号を夜雨荘・百済…、女流画家生田花朝(かちょう)の父として…、大阪を代表する博学者…」等とあった。
署名の下の一つ目の印に篆書と思われる「百済野印」、二つ目に「南水」があり多分間違いないと思う。
又、娘の花朝の生誕の地(南水の居所か)とされる場所にも「天王寺区上之宮町4の道標」が建っており、思わぬ
ところで繋がっていて嬉しくなり、参考として書かせて頂きます。ただ、碑面の読み下しは何だか怪しい。
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