28.高槻市上本町10の道標

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高槻市高槻市上本町10−15 南北の道から東に分岐するT字路の北東部に東を正面に建つ、東に傾いている。
(東への道は「前島街道」とされるようである。)
(2018年5月時点では、工事中で現場付近に倒置、同7月地震後には元位置。)
尖頭型角柱 155(再建前高153)x24.5x24p(頂高5p)(礎石32x50x48p)
N34.845719 E135.625021


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南面
┌――――――――――――――――――――┐
│右 八者多 淀 前嶋 舟能り場     │
│春ぐ 京 伏見 山ざ起 柳谷 よしみ禰 │
└――――――――――――――――――――┘
(「者」は「は」、「春ぐ」は「すぐ」の変体仮名)

東面
┌――――――――――――――――――――┐
│右 あく多川 かさのも里 能せ 妙見  │
│左 そうぢ寺 とん田 いばら木     │
└――――――――――――――――――――┘
(「ば」は変体仮名「者」に濁点)

北面
┌――――――――――――――――――――┐
│  大坂 三しまへ 尼がさ起      │
│すぐ                  │
│  そうぢゝ 飛ら可多         │
└――――――――――――――――――――┘
(「が」は変体仮名「可」に濁点)

西面
┌――――――――――――――――――――┐
│文政八乙酉年四月吉辰          │
└――――――――――――――――――――┘
(「吉辰」=「吉日」)





(地名は、八者多:八幡、山ざ起:山崎、よしみ禰:善峯、あく多川:芥川、かさのも里:笠森、能せ:能勢、い者゛
 ら木:茨木、尼可゛さ起:尼崎、飛ら可多:枚方、であろう。)
(文政八年四月1日なら1825年5月18日水曜日)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、3)
(同書には、明治期の道路事情が詳しく載るが、江戸後期、即ちこの道標建設当時の状況は分らない。
  北にに200m進んだ三ツ辻の「29.京口町5の道標」にも書いたように、
 徒歩が中心の道は、平坦であるより、雨に強い道である事が第一で、低地や川沿いの道は余り利用されなかったよう
 であり、当然道標にもそれらが反映している。同じ行き先(八幡、淀等)であっても、ほんの僅かに北に有る上記の
 道標でさえ、北、西国街道経由、で京都方面を案内している。この道標は、前嶋の「船乗場」への道にある為、川向
 うの八幡、淀は、東の渡しを案内しているが、京、伏見へは、なお北へ案内している。)

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【1.元位置を東に望む 【2.元位置を北に望む 【3.元位置を西に望む
 左電信柱の右横  奥(北)京、伏見へ  右、芥川、能勢妙見へ
 奥(東)前嶋へ】  200mに29道標】  左(南)総持寺へ】

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【4.建設現場の倒置道標 【5.道標の底部 【6.道標上部
 工事の方の話では  礎石からは外されて  上面が、南面
 復旧時期は不明】  いない様子である】  右面が、西面であった】

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【7.2014年10月当時道標 【8.2018年7月北に望む 【9.同左道標を北西に望む
 を東に望む、近接移動  ほぼ元の位置、向きに  電柱の移動がなければ
 はされていると思う】  直立し、再建されていた】  50p程度北に移動か】

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【10.高槻南部の道標】
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