29.高槻市京口町5の道標

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高槻市京口町5 圓成寺の南、東西の道に南からの道が突き当たるT字路の北部に南を正面に建つ
東西の道は東側がやや南側に鉤型となっている。
尖頭型角柱 115x東面26x25.5p(頂高7p)
N34.847461 E135.624861


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南面
┌――――――――――――――――┐
│  京 山崎 淀 柳谷  世 若│
│右            話  │
│  ふしミ 宇治 八幡  方 中│
└――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――┐
│  大坂 富田 茨木 十(方) │
│左               │
│  尼ヶ崎 惣持寺  他(刀) │
└――――――――――――――――┘
(十方、他刀(=他力)『高槻の道しるべ』より)

西面
┌――――――――――――――――┐
│          同     │
│萬延元庚申九月吉辰       │
│          中     │
└――――――――――――――――┘
(「吉辰」=「吉日」)

北面
┌――――――――――――――――┐
│       願主 萬政    │
│當町        金治郎   │
│   安全     新五郎   │
│往来        竹蔵    │
│          油権    │
└――――――――――――――――┘


(万延元(庚申)年九月1日なら1860年10月14日日曜日となる)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、1)
(同書では、「東面は、京口から城下をぬけ、大坂口あるいは富田口より他領へと旅ゆく人への表示である。」として
 いる。「京口」は城下の北東に位置し、大坂口は南部、富田口は南西部にある為、大坂・尼崎へは何れも城の東側を
 通り、南側へ廻り込む必要がある。ただ、尼崎方面へは、城の西側を通ってもほぼ距離は変わらないと思われるが、
 ここで南を指示するのは、此方が主の道であった事を物語るものであろう。西側の道は今も分かり難い。)
(一方、南面の伏見・八幡等淀川左岸の地へも、徒歩で行く場合は、「東」その後は「北」の西国街道へ導くものであ
 ろう。船を用いる場合のみ、東へ向かう「前島街道」を行くのは、当時の常識であったものと思われる。
 その証拠として、「東」に130m進んだ三ツ辻の「30.高槻市京口町12の道標」には、陸路で京都方面を「北」
 に案内し、南に200m進んだ三ツ辻の「28.上本町10の道標」には、同じ京都方面を案内するが、「船着場」が
 添えられている。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 右(南)大坂  右(東)京、伏見へ  左(東)大坂、尼崎へ
 奥、京、伏見へ】  少し先に30道標】  少し先に28道標】

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【4.道標南面拡大 【5.道標西面上部 【6.道標東面上部
 書かれた地名は  「萬延元庚申…」  左、「厄」に見えるが
 順不同のようだ】  「年、歳」は無い】  「尼」のくずし字】

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【7.『高槻まちかど遺産』解説
 木戸内に道標が
 あった事になる】

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【8.高槻南部の道標】
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