30.高槻市京口町12の道標

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高槻市京口町12 京口からの東進する道が北の西国街道へと折れる四辻の北東部に南を正面に建つ
(京口町5の道標を東へ130m、外環沢良木本町南交差点西50m、ここから北へ八丁松原)
尖頭型角柱 133x東面26x25.5p(頂高7p)
N34.847483 E135.626361


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南面
┌―――――――――――――――――――┐
│  京 ふしミ よと         │
│左                  │
│  八幡 山崎 柳谷         │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――――┐
│  大坂 とん田  世話人      │
│右          庄□      │
│  い者ら木 惣持寺         │
└―――――――――――――――――――┘
(「者」は変体仮名「は」)

北面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――――┐
│           馬町 庄治郎  │
│萬延二辛酉年三月吉日    勘右衛門 │
│           橘屋店石 吉  │
└―――――――――――――――――――┘


(萬延二(辛酉)年三月1日とすると、西暦1861年4月10日水曜日となる。)
(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、2)
(同書では「道路改修等により時計方向と反対に90度動いているようである。」としているが、その通りであろう。)
(東面「馬町」は『五畿内志』(並河五一著)が江戸初期の高槻城下十六町と表現した、本町、新本町、横町、馬町、
 柴屋町、牢屋町、魚屋町、八幡町、川之町、新川之町、寺町、田町、紺屋町、土橋町、高西町、新町、の内の一つで、
 八幡、紺屋等は今の町名に残るが、馬町は今は無く、現在の上本町3丁目と10丁目に当たるようで、木戸の内で有
 った様だが、僅か100m程西の町であったと読み取れる。(『高槻市史』「幕末期の高槻城下図」より))
(『五畿内志』の高槻は、国会図書館、近代デジタルライブラリー『五畿内志. 下巻』コマ番号94で参照可能。)
(ここから、「西」へ130m進んだ三ツ辻に「29.高槻市京口町5の道標」があり、当道標はその半年後に建てら
 れているが、実は万延二年は二月十八日迄で、その後「文久」と年号が変わり「萬延二年三月」は公には存在しない。
 既に(3月1日なら10日、末日なら40日前に)制作済みであったか、当年中は前年号を使ったものかは不明である。
 この様な改元時に建てられた道標はやはり珍しく、
  1.「箕面市粟生間谷東5の道標」、改元17日後で当道標と同じ状況と思われる。
  2.「池田市綾羽2の道標」、改元100日後では新年号が使われている。
 等を挙げておく。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北西に望む
 奥(北)京へ  左(北)京へ  左奥、京口町5道標へ
 左、城下の京口へ】  明治期、奥は墓地へ】  右(北)西国街道へ】

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【4.道標を北東に望む 【5.道標東面下部 【6.道標西面下部
 現状から90度時計  「馬町」「橘屋店」  「ん」が一番大きい
 方向に廻すと元へ】  と読めると思う】  何故か面白い】

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【7.高槻南部の道標】
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