24.箕面市粟生間谷東5の道標

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箕面市粟生間谷東5-4 東西の道(巡礼道)に南北の道が交差する四辻の北西部に南を正面に建つ
(勝尾寺川支流裏川2号橋西詰、青面金剛等と共に西端にある。)
ドーム型角柱 134x南面21x20.5p(頂高5p)(基礎部45x29x26p)(台石15x58x58p、高さ含まず)
N34.84701 E135.514936


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南面
┌―――――――――――――――――┐
│左 かちをじ道          │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――┐
│ 文化十五寅五月八日建之     │
│爲了譽義達信士追善        │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――――┐
│施主筑前博多           │
│       六十六部善五良   │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(文化十五年五月八日は、西暦1818年6月11日木曜日となるが、文化は1818年4月21日までとされ、本来な
 らば、文政元年とすべきであろうが、改元から17日後となり、既に彫り終わっていたのであろう。日にち
 まで書かれているのは数少ない上に、改元時期に近接している珍しい道標である。
 同様のものとして、
 1.「高槻市京口町12の道標」、約一月では間に合わなかった
 2.「池田市綾羽2の道標」、100日もあれば新元号に
 等がある。)
(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では、39。同書では、左面を「…寅八月八日…」
 としている。)
(同書では「橋の西詰にあった水車小屋…、その隣に庚申塔や石仏が十一基…、河川改修の際に集められた
 もので、この端に立つ道標は、…」としている。
  現在、同所をお世話されている方が、「道標は、昔は路傍に転がっており、立てた後も道を拡げる時に
 移動した。」と話されておられ、移設の可能性もあるが、道の南側にも、石碑があり、石の立てやすい場
 所のようで、近接移設としたい。)
(東への巡礼道は、此処で橋を渡った後、川の東に沿って南東へと向い、総持寺へと続く。橋を渡り北は、
 佐保へ、橋を渡らず南は、小野原へ続き、交通の要所であったのかも知れない。尚、明治の地図では、川
 西岸の北への道は描かれていない。)
(施主が筑前となっており、九州の方であろうが、当地との関連は分らない。六部ならば各地を渡り歩くの
 は当たり前で、完成まで当地に留まったのであろうか。戒名であろう「了譽義達」との関係も調べなけれ
 ばならない。
 尚、六部の流行は、18世紀前半以降のようで、一般に、廻国供養塔の場合は、行者に結縁したことを記念
 するため建てることが多かったとされている。この道標もその例に例えるなら、『「了譽義達」の身内の
 者(多分近辺住)が、六部「善五良」さんに結縁した事を記念して建てた』とも出来るか。)
(南面、「左」部分だけ碑面を彫り下げて、そこに字を刻んでいる。文字部分を彫りこむ、又は削る例は、
 他にもあり、市内では、
 「西宿3今宮墓地の道標」「箕面1576政の茶屋の道標」等があり、元の字を削り、新たに「左」を追刻
 した可能性も考えねばならないか。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を西に望む
 中央左に当道標  右手前(西)勝尾寺へ  左端の背が高い
 奥(西)勝尾寺へ】  橋向右、総持寺へ】  ものが当道標】

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【4.東面日付部拡大1 【5.東面日付部拡大2 【6.東面日付部拡大3
 「文化十五…」  「…寅五月…」  「八日建之」
 と読める】  と読める】  と読める】

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【7.東面全体の拡大 【8.南面と上部
 右側建立年月日  「左」の部分のみ
 左側建立理由か】  四角く掘下げている】

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【9.箕面市の道標】
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