30.宝塚市山本東1−4地蔵堂北の道標

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宝塚市山本東1−4 東からの巡礼道がY字路で北西に分岐する東南部、地蔵堂の北に東を正面に建つ
宝塚市山本東1−5の道標から西へ60m)巡礼道は小川沿い
尖頭形角柱 66x北面18.5x19p(頂高4p)
N34.821429 E135.38480


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東面
┌─――――――――――――――┐
│右中山            │
└―――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――┐
│安永七戊戌歳十二月      │
└―――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――┐
│ 右 満願寺千手觀音     │
│六拾六部七百五拾人報謝宿供養塚│
│ 左 中山寺         │
└―――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――┐
│願              │
│ 池田槻木町丹波屋源七    │
│主              │
└―――――――――――――――┘


(安永七年十二月一日とすると、西暦1779年1月18日月曜日となる。)
(東面の字体が異なる、西面の案内が現在の位置では一致しない等から、移設されているだろう。)
(『たからづかの道標』(昭和61年刊)47では、
 「千手觀音」は「柳谷観音」とある。
 「六拾六部とは諸国を遍歴する修行者の一種で、…750名に達した記念に宿が立てたもの」とある。
 槻木町は、現在でも池田市に残っており、猪名川に架かる呉服橋の南東部、阪急電車の線路までの
 地域で、北に巡礼道が東西に延びている。
 六十六部を辞書等でみると、江戸時代は遊行の僧、乞食とあるが、本来の「法華経」を納経して歩
 く「回国聖」でなければ、碑を建てる意味はなく、願主の信仰心とも合わせて考えねばならない。
 又、固定された納経霊場が知られていないようです。
 満願寺の本尊は千手観音であるらしく、高野山真言宗で、六十六部の一刹であったかは調べが及ん
 でいません。)
(「柳谷観音」と読み誤ったのは、川西市に柳谷があり、そこに有名な観音があったのでもあろうか。
 尚、現在の川西市柳谷は、この位置から満願寺までの距離と同じくらい北に離れている。)
(元位置について、西面が明確に寺を示しており、この近辺で満願寺へ行くには、最明寺川沿いの道
 か、丹波道への案内とし北を指すとし、東に面していたとする。
 よって、現東面が西面し、右中山が南を指すが、この地をみると、東からの巡礼道が北西に進み、
 南西に中筋集落への道がある。道標は今道路の南側にあるが、辻北東部に移し、やや時計方向に
 回転させると、「右中山」もおかしくはない。
  が、今一つ、現位置より15m北の橋のある辻の北西部に移すと、「右中山」の道が南へ折れた後
 更に現道標の辻を回り込み、西中山方面へUターンする事にピタリと一致しこちらの方が相応しい。
  勝手な想像だが、道路拡幅による移設が一番多いと思う。この時、「遠くへは持っていかないが、
 邪魔にならない近所を探す。そのとき、全ての面が本来の方向を示すことが出来なくなると、最も
 目立つ行き先を、取敢えず合わせ、結果他の行き先が不整合となってしまい、場合によっては、使っ
 ていない面に新しい行先を追加したりする。」と考え、それに従って元位置を割り出している。)

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【1.巡礼道より西を望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を南西に望む
 左お堂の右に道標  右端に道標の西面  奥の道は山本の村中を抜け
 右(北)へうねりながら  左今の道案内も多く  中筋へ続く(中山寺からは
 奥へのが巡礼道中山方面  複雑な辻を示す】  Uターンとなる)】
 右橋を渡ると松尾神社】

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【4.宝塚東部の道標(明治44年)】 【5.元位置かも
 
 道標より北を望む
 
 欄干「中川」の左側欄干前辺り
 
 左は中山、正面松尾神社から満願寺へ】

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【6.「…寺千手観音…」部
 の拡大、「柳谷」ではない】

【訂正 2023年9月】 「柳谷」部を訂正。
 旧:『「柳谷観音」と読み誤ったのは、川西市に柳谷があり、そこに有名な観音が有ったからか。』
 としていたが、これでは、寺が有ったように受け取るので、表現を変えた。
 多分「柳谷観音」は京都長岡京市にある寺が余りにも有名なので「観音」から「柳谷」を想起して
 読み誤ったものと思う。
  尚、国会図書館デジタルアーカイブの『摂津名所図会』8のコマ7に「観音堂十一面観世音」が紹介され
 ており、はじめに「神秀山満願寺千手院」とあるので、「満願寺千手觀音」で今の満願寺一ヶ所を
 示すものと思います。
  私の手元の地図と同じか、『今昔マップ on the web』明治42年測図も参照下さい。
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