14.吹田市佐井寺1の道標1(派出所南道標)

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吹田市佐井寺1−10 南東ー北西の道から北に分岐する三叉路(五ツ辻?)の西側にある広場の南西部に
北東を正面に建つ
(佐井寺交番の道路を跨いで南、歩道より一段高い広場。沢山の地蔵が横一列に並ぶ中央の一番大きな物、
 広場の東部には「15.佐井寺1の道標2」の道標もある。)
蒲鉾型板碑 65x北東面36x11p(頂高5p)(像部20x17x2.5p)
N34.78340 E135.52130


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北東面
┌────――――――――――――――┐
│右 吹田  (享和三年)七月四日  │
│       (童)子 西信    │
│(地蔵像)             │
│            教圓    │
│左 きしへ (文化七年)二月十四日 │
└――─―――――――――――――――┘

北西面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘

南西面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘

南東面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘
(( )部はすいた歴史散歩より)


(『すいた歴史散歩』<増補版>吹田市教育委員会では、16番目)
(『吹田の歴史学習資料』昭和53年、吹田市教育研究所編、14(イ)にも、同一年号が書かれており、
 写真と拓本が載るが、拓本をもってしても、年号部分の判読は難しい。
 一応それを信じるとして、享和三年七月四日は西暦1803年8月20日土曜日となり、文化七年二月十四日
 は西暦1810年3月18日日曜日で、7年程後となる。おそらく命日と考えられるので、「教圓…」の部分
 が追刻でなければ、作成日は、文化七年二月十四日以降と考えられる。
 //www.suita.ed.jp/hak/bun/rekishi/bun_r5.html
 「吹田市立博物館歴史散歩、佐井寺地域」にも、「享和3(1803)年・文化7(1810)年の年号と二法名
 が彫られていて」とある。)
(当所は墓地ではなく、公園広場風であり、移設されたと推定出来る。
  『吹田の歴史学習資料』では、「もとは大鏡寺横の狐坂を通って岸辺小路に出る、さい寺のかんのん
 道と、竜が池のそばを通って亀岡街道に出る道との分岐点にあったものと思われる。」として、直ぐ近
 くの東南東は小路へ、南東は天道への道の分岐点、吹田市吹田市五月が丘南31の大きく見ると五ツ辻
 の南東部
N34.783208 E135.521885
 辺りを示していると思われる。)

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【1.道標を南西に望む 【2.広場を南西に望む 【3.道標を南西に望む
 奥右(西)佐井寺へ  歩道の一段上の広場  広場の南西端列の中央
 左、吹田高校方面へ】  正面奥中央に道標】  青い腰掛の後ろ】

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【4.道標北東面を望む 【5.北東面上部拡大 【6.北東面下部拡大
 砂岩の為か表面剥離  左「左きしべ」の  左右とも年号と年の
 日付、名前も数年の命】  「し」部分が見難い 】  部分は読み取れない】

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【7.道標から北東を望む 【8.交番南五ツ辻元位置から北望 【9.吹田市の道標】
 交番右に五ツ辻  左から二番目電柱の
 左、西に下り佐井寺へ】  後ろが広場になってる】
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