70.宝塚市中山寺2の一丁丁石

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
宝塚市中山寺2 中山寺信徒館西の奥の院入口の案内から1丁西に進んだ地点に道の北側に南を正面に建つ
(墓地北部と梅園南部の接点、川を渡る手前)
尖頭形角柱 131x24x24p(頂高6p)
N34.821499 E135.365640


写真cimg4666

写真cimg4667 写真cimg4668

写真cimg4669

南面
┌─―――――――――――――――┐
│壹丁              │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│享保十九甲寅年十一月      │
│ 施主 辰巳休海        │
└――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――┐
│宿坊寳藏院           │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘



(享保十九年十一月1日なら、1734年11月25日木曜日となる。)
(『たからづかの道標』(昭和61年刊)64では、
 「同時期に同一人物の手によって十八丁分全てが建立されている。」とあるが、施主、建立日が
 全て書かれているわけではない。「番外1.中山寺奥ノ院丁石一覧」を参照。)
(丁石は、多く目的地への到達距離(残りの距離)を記すことが多いが、この丁石は進んだ距離を
 示している。これでは、残り距離が分からないので不便であるように思うが、中山寺信徒館西に
 起点となる、「是ヨリ18丁」が示されている為、進んだ距離にしたものであろうか。
 ただ、奥ノ院参道が一本道ならよいのだが、現在では複数の登り口がある為、不便に思われる。
 明治の地図では、市杵島姫神社の東を北に上る道があり、それを進むと、いきなり「二丁」に出
 会い、不思議な感じがする。建立当時は、信徒館からの道だけが参道であったのだろうか。
  尚、起点となる道標があると言ったが、それよりも丁石の方が古そうな点も気懸かりである。)
(東面にある「宿坊寳藏院」が示す意味は何であろうか。
 一つは、「辰巳休海」が宝蔵院の人であった、
 一つは、「宝蔵院」が世話人であった、
 もう一つは、「宿坊宝蔵院」への宿泊を、お薦めする、広告塔の役割を担っていた、
 等が挙げられ、道標本来の行き先を示すものではないと思われる。
  尚、現在の「宝蔵院」は中山寺山門を北に入って、左(西)側、二番目の塔頭、宿坊が有るか不明。)

写真dimg2265 写真cimg4670
【1.参道より北西を望む 【2.西面拡大】
 左(南)墓地、右梅林
 奥、川まで下り越してから登り】

写真dimg2258 写真dimg2263
【3.宝塚北東部の道標(明治44)】 【4.中山寺奥ノ院参道地図(明治44年)
 
 奥ノ院直前は現在道と明らかに異なる】

写真cimg5240
【5.夫婦岩のハイキング道案内】

【訂正 2023年9月】
 誤:西面の読み下し「享保十九庚寅年十一月」
 正:「享保十九甲寅年十一月」

 『たからづかの道標』64では「十二月」とあるが「十一月」とした。
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ