29.西宮市甲山町4の一丁丁石

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
西宮市甲山町4 東からの旧大師道と南(獅子ヶ口)からの参道が合流する三叉路の北東部に、南を正面に建つ
(神呪寺山門の南40m、池の南西角、桜茶屋の東。)
尖頭型角柱 95x南面22x22.5p(頂高5p)
N34.771799 E135.330342


写真cimg5059

写真cimg5061

南面
┌─―――――――――――――――┐
│(梵字タラーク)一丁      │
└――――――――――――――――┘

その他の面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(案内板には、「梵字(クラーク)は虚空蔵菩薩(三丁と同じ)」とあるが、(タラーク)虚空蔵菩薩とした。)
(神呪寺参詣道は、東部、南部からの道として大きく三本、上ヶ原、六軒、獅子ヶ口があり、上ヶ原と六軒は森林
 公園内(4.5丁)で合流、獅子ヶ口とは山門南(1丁)で合流する。この場所であろう。)
(『西宮歴史散歩案内マップ』市教育委員会、平成20年刊では、丁石「一丁」(二ヶ所の内南側))
(『西宮の道標』宮崎延光、昭和44年刊では、24。
 同書に、「神呪寺本堂までの距離を示し、…旧かぶと山道にたつ町石の起点ともなる道標である。」としている
 が、起点はあくまでも「本堂」である。
 依って、この丁石が移設されているか、いないかを見るには本堂の位置を同定しなければならない。(丁石の起
 点に丁石を持ってくることはできないのです。
  では、現在の本堂からこの丁石までの距離を見ると、水平距離で148m、高低差35mで、三平方の定理を用いる
 と、151m(1.4丁)となり、(階段の為実測出来ていない。)設置位置が変わっていると思われる。
  寛延2(1749)年に本堂を現在の所に移し、天保9(1839)年の彼岸中日の法会中、本堂の棟が崩落し、2年後
 本堂再上棟とされるので、天保9年迄の本堂が、現在の本堂より40m前にあったとするなら、この丁石は元の位置
 に立っているといえる。
  しかし、寛政10(1798)年出版の『摂津名所図会』の挿絵を見ても、ほぼ現在位置に、本堂が有るように見え
 る事と、後ろに下げて再建するだけの土地の余裕がなさそうに見え、本堂の位置はあまり変わることなく、当丁石
 の方が移設されている事になると思う。
 加えて、現仁王像のある山門と、その南の池が書かれておらず、それらの建設の折(説明板には文化元(1804)年
 に門部分も完成とある)に、移動させられた可能性もある。
  尚、新一丁の丁石は35m本堂寄り(山門の基壇西下)に建っており、此方は、現本堂からほぼ一丁(120m)を
 示している点で、新丁石は、文化元年以降の建設となるでしょう。別の観点から、明治以降である事は後述する。)
(神呪寺挿絵は、国会図書館デジタルアーカイブ、同書[11]、12コマ参照。)
(他の丁石、「68.神呪寺丁石一覧」も参照下さい。)

写真dimg4722 写真dimg4723 写真dimg4724 写真cimg5060
【1.丁石を東に望む 【2.丁石を北に望む 【3.丁石を北西に望む 【4.東横案内板
 奥、新大師道二丁石へ  左奥、階段の上の  此処から本堂へは  移設については
 左(北)神呪寺へ】  瓦屋根が山門】  150m(1.4丁)程ある】  一切触れず】

写真dimg3829 写真dimg3838
【5.西宮南部の道標】 【6.神呪寺丁石一覧】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ